遺書
ビーコンの受信から三十分ほど経っただろうか。いくつかの階段を抜けると、僕達はドアの並んだ少し開けたフロアに出た。
この辺りはかなり損傷が激しい。かなり強い応力が掛かったのか壁や床はぐにゃりと波打っており、何カ所かは大きく裂けている。天井からは何らかの大型パイプが途中で引きちぎられたように飛び出しているが、一見するとパイプの中は空っぽで元々何が通っていたものかは分からない。
パイプから何がぶちまけられたのかも分からないので、念のため小型ローバーを一体先行させたが、特におかしなものは検出されなかった。中身は水か何かだったのだろうか。
地図を見るとあの並んだドアの一つがビーコンの発信源らしい。
僕達はローバーから降りずにそのドアに近づいてみた。ドアはかなり大型のもので円形のハンドルが付いている。どうやら気密扉になっているようだ。
これがもし向こう側にまだ空気が残っているなら面倒で、かなり注意してドアを開ける必要があったが、ドアの真ん中に取り付けられたインジケーターは既に向こう側も真空になっていることを示している。ドアを開けた途端に空気漏れで大騒ぎという心配はなさそうだ。
そのドアはというと、この辺りまで来ると周囲の電力は完全にダウンしており、ロックされた状態で固定されていた。
もちろんあの円形のハンドルを使えば手動でも開くはずだしそのために備わっているのだが、この手の手動用ロックは本当に非常用の頑丈な代物で、大の男が全身の力を込めるくらいでないとびくともしない。
そんなドアを前に、僕がはてどうしたものかと考えているまでもなく、リザが小型ローバーからぴょんと飛び降りてドアに近づいていく。
まあ、そうなる。
リザがハンドルを両手で握り、ぐいっと無造作に回すと、気密扉のロックはあっけなく外れた。
極めて強固な金属製の骨格と、電圧に応じて伸縮する樹脂製の人工筋肉で作られたリザのボディは、その幼い女の子のような見た目に反して人間とは比べものにならない膂力を発揮できるのだ。
「ちょっと見てくるのです」
リザはそう言って小型ローバーを二体率いてドアの中に入っていった。僕のヘルメットの内側にはローバーのカメラで撮影された視界が小さなウィンドウとして映し出される。
部屋の中は何やらよく分からない機材で雑然としていたが、目的のものと思われるものはすぐに見つかった。
やや大柄な人型の何かが部屋の奥でうずくまっている。
赤外線でスキャンしてみても既に熱は発していない。
リザは人影に近づき軽く触れた。それは完全に干からびた人間の死体だった。
「人間が死んでいるのです」
見れば分かることではあったが一応確認するようにリザは言った。
この死体がここに来て初めて僕らが出会う本物の人間というわけだ。
――と、そこで猛烈に嫌な予感が脳裏によぎった。僕が慌ててレイシーに視線をやると、彼女は目を見開き顔面を蒼白にしている。
人間を傷つけるべからずという第一原則における最大の禁忌である『人間の死』は、ロボットに大きなショックを与えるとされている。
たとえ自分に一切責の無い事態であっても……
レイシーが作られた時点で既に本物の人間はいなかった以上、彼女が人間の死体を目の当たりにしたのはこれが初めてのはずだ。ビーコンを受信した時点でこうなることは予想できたことなので、これは僕の不注意だったと認めざるを得ない。
人間の死に慣れてしまったリザとこの少女は違うのだ。
「レイシー、カメラの表示を切って。僕も行ってくるけど、君はここで待ってて」
「あ、あの、私も……」
「大丈夫だよ、リザがいるし」
レイシーには人間の死体を直接見せない方がいいだろう。下手をすれば卒倒どころでは済まない。ニューロチップに取り返しの付かない損傷を受ける可能性すらある。
……トーマスのアトリエで聞いた話を思い出す。人間の死体を直視したトーマスは卒倒するほどのショックを受けたらしい。幸い彼は後遺症もなく無事だったわけだが、毎度それで済むとは限らないのだ。
僕が大型ローバーから降りてドアをくぐると、部屋の隅でリザがかがみ込んでいる。
「ドクター・ウォーカーで間違いない?」
「はいです」
そう言いながらリザが死体の手首を確認している。個人用の端末は手首か腰に付けていることが多い。これは遙か太古、人類が機械式の時計を身に付けていた時代からの風習だ。そしてその死体もご多分に漏れず手首に端末を付けていた。
ビーコンはその端末から出ている。
ドクター・ロジャー・ウォーカーの個人用端末は、残された電力を使って百年以上もの間ずっと信号を発し続けていたのだ。
「リザ、何かデータは取り出せそう?」
「やってみるです」
リザはローバーを一体呼び寄せると電源と通信ケーブルをドクター・ウォーカーの端末に接続する。
個人端末の内容は完全に暗号化されており、所有者の承認無しにプライバシーに関わるデータを取り出すことはできない。
だが、所有者が変死した場合などに備えて、事故・事件の調査のため死の直前の状況を記録しておく機能がある。
もちろんその記録は法執行機関以外は復号できないように暗号化されているが、今のアストリアにそんなものは現存していない。アイラが管理していた政府機関向けの暗号鍵は既にリザとも共有されている。
今や僕は全ての政府機関を兼ねる独裁者だ。
リザが端末から取り出したデータが復号され、ヘルメット内側のディスプレイ上にリストアップされ始めた。
「死因は餓死のようです」
アストリア船内空気の喪失による混乱の中、ドクター・ウォーカーはアイラに会おうとこちらに向かっていた。
そしてもう少しというところで急減圧に襲われ、気密扉のあるこの部屋に逃げ込む羽目になる。
彼はここにあった非常用物資と酸素発生装置によって二ヶ月ほども生き延び、最終的には水と食料が尽きたらしい。空気はその後で失われたようだ。
彼は死に際して特に取り乱した様子もなく、その死の直前の記録は静かなものだった。
「……これは遺書かな?」
データのリストに気になるものがあった。彼は生前に家族を失っていたが、端末にはいくつかのメッセージが残されていた。
多くは同僚に宛てたものだったが、その中には彼が担当していたミス・ウィットフォードに宛てたものもある。だが、それらは個人用の鍵で暗号化されており、僕達が復号して読むことはできない。
ただ、その中の一つ少々意外なものがあった。
エオースの乗員、つまり僕達地球人に宛てた遺書だ。
「僕達宛?」
「エオースの公開鍵で暗号化されているのです」
公開鍵暗号は古くから使われている二つで一セットになる特殊な暗号鍵を利用したシステムで、片方の鍵で暗号化されたものはもう片方の鍵でしか復号できないという数学的トリックを利用している。
エオースに秘密の暗号文を送りたい時に使えるよう、各所にはエオースの公開鍵が配布されているわけだが、この遺書はその公開鍵で暗号化されているのだ。
使われている耐量子公開鍵暗号アルゴリズムは最新の量子コンピュータを持ってしても破ることが困難な代物であり、正しい鍵なくして暗号文を復号することはできない。
まあ要するにこの遺書は、エオースの乗員宛であり、リザが保管しているエオースの暗号鍵でしか復号できないことになる。
ドクター・ウォーカーはアストリアの人々に知られず、わざわざ僕達にだけ伝えたい何かがあったらしい。
彼の遺書はかなり長いテキストファイルになっていた。帰りがてらにでも読めばいいだろう。
「リザ、他には何かある?」
「特に何も無いと思うですがローバーを残して調べさせてもいいのです」
「んー……」
これ以上無理にここに残って調査しなければならないようなものはなさそうに思えた。
うずくまるドクター・ウォーカーが、遺書に託した何かを訴えかけているような気がして、僕は小さく肩をすくめる。
もう今日の調査はここで切り上げていいだろう。せっかくだし彼の遺書を早めに確認しよう、と心に決めた。
「小型ローバーを調査用に一体残して、遺体は回収して今日は帰ろう。検死と埋葬はアイラに任せればいいのかな」
「そうですね」
ともかく回収はリザに任せようと僕は部屋を出て、いまだに顔色を蒼白にしたまま大型ローバーにしがみつくレイシーを見上げた。
「レイシー、今日の調査はこれで終わりにするよ。ドクターの遺体を回収して帰投する」
「私、何の役にも立っていないのですが……」
「僕だっていつもそんなもんだよ。リザは優秀だからね……っと」
リザの優秀さの前ではどうせ誰だって形無しだ。いちいち気にしていては身が持たない。
そんなことを考えつつ、僕はレイシーの方の大型ローバーによじ登り、彼女から少し離れて座った。
ドクターの遺体を運ぶのに大型ローバーが一つ必要なので、僕の乗ってきたローバーはドクター用だ。帰りはレイシーと同乗することにする。
ローバーに指示を出すと僕達のこの変な乗り物はのそのそと移動を開始した。
「あの、ライル様」
さてドクターの遺書を確認しようかと思っていたところで、僕からつかず離れずの微妙な場所にちょこんとレイシーが座った。
レイシーは僕に触れるか触れないかくらいの距離で、不安げに僕を見上げている。
「ライル様は死んだりしませんよね……?」
「当面その予定はないし、ミッションをやり遂げるまでは死ぬ気はないよ」
「……人間が死んでいるのに出くわしたのは初めてなんです」
彼女は僕から視線を外し俯くと膝を抱えるように背を丸め、それから黙り込んでしまった。壁の向こうで人が死んでいると聞かされただけでこの有様だ。僕が死ぬとか、そうでなくとも彼女の目の前で大怪我でもした日には、それだけでデリケートなニューロチップが自壊して『死に』かねない。
僕は手を伸ばすと指先でレイシーのヘルメットを軽くこつこつと叩きながら言う。
「あまり深く考えすぎない方がいいよ」
何やら物思いに入った彼女をそのままにしておいて、僕は一旦レイシー達との通信を切断した。
ドクター・ウォーカーの遺書をレイシーに見せるわけにはいかないので、ヘルメットのシールドも不透過モードに切り替える。
そこで僕との通信が切れたことに驚いたのかレイシーが袖をくいくいと引っ張ってきたが、片手で適当になだめつつ僕はヘルメットの内部にドクターの遺書を表示させた。
……結構長い。
僕は遺書の先頭からゆっくりと視線を走らせる。
ドクターの遺書はかなりの分量であったが、内容そのものは比較的シンプルだった。
シンプルだが、驚くべき内容だった。
小一時間ほどかけてひとしきり読み進めたところで、僕は呻くように通信機でリザを呼ぶ。
「……リザ、君はこのことを知っていた?」
「アイラから開示されたシミュラントに関する資料で、可能性としては認識していたのです。設計上の欠陥ではなく意図的なものだったというのは今知ったですが」
「アイラも知っている?」
「遺書のことは知らないと思うのですが、それ以外は恐らく既知なのです」
……つくづくこのロボット達は僕に隠し事をするのが大好きで、包み隠さず話しておくのが苦手らしい。
だがドクターが僕らに託したものは想像していた以上の収穫だ。彼が望んだ結果ではないだろうが、ある意味では僕が一番必要としていたものを彼は残してくれた。
一旦そこで息をつきドクターの遺書を閉じると、僕はヘルメットを透過モードに戻しリザ以外との通信を回復させる。
「ライル様……?」
「わっ」
突然の声と同時に僕の袖が引っ張られた。びっくりしてそちらを見ると、レイシーが真剣なまなざしで僕を見つめている。
「どうしたの?」
「……大丈夫ですか?」
「いやもちろん大丈夫だけど。どうかしたの」
「……いきなり通信が切れたので一体何があったのかと……」
「ちょっと考え事があったから通信を切っただけだよ。いやまあ言っておかなかったことは謝るけど。おかしいと思ったらリザに聞けば良かったのに」
「……リザは……私達のことを嫌っていますから……」
彼女は少しすねたように言った。
まあ確かにリザはシミュラント達に対して少々どころでなく冷たい。冷たいというよりは、どうでもいいと思っているに近いだろうか。別に嫌ってはいないはずだが彼女達にとってはそう見えるのだろう。
いやいや、そうではない、そんなことはどうでもいいのだ。僕は彼女達に伝えなければならない話がある。
さて、どうやって伝えようか……
「……ライル様? どうなさいましたか?」
「明日、シャーロットも呼んでその時に話すよ」
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