無重量

 僕にエオースの船内を案内されたレイシーとシャーロットは、終始好奇心で目を輝かせっぱなしだ。

 とはいえ、事前に見せると言っていた冷凍睡眠ポッドへの反応は意外と芳しくなく、一方で彼女達の興味を強く引いたのは、僕らが日常生活で使っていたような談話室とかシャワールームとかそういうものだった。

 その中でも今僕達がいるこの部屋、訓練やスポーツに使われる多目的ホールは、彼女達には特に目新しいものだったらしい。船の人工重力システムが止まっているので、この一辺二〇メートルほどある多目的ホールもそれこそ天地を問わず縦横無尽に飛び回ることができる。

 一方で、アストリアほどの大きな船で暮らしていたにも関わらず、いやあれほど大きな船で暮らしていたからこそと言うべきか、レイシー達は無重量環境に全く慣れていなかった。ちょうど良いので今は無重量環境に身体を慣らさせるために軽く運動をさせてみている。

 とりあえず大きめのボールを与えてみたが、そもそも身体を動かして遊ぶといったことをする文化すらなかったようで、最初はずいぶんとおっかなびっくりだった。

 などと考えていると……


「てーい!」


 シャーロットが満面の笑顔で僕にボールを投げつけてきた。

 発泡ラバー製のボールは両手で抱えるほどのサイズがあり、頑丈でありながら非常に柔らかくそして軽い。この多目的ホールは無重量状態とはいえ一気圧で与圧されているため、ボールは空気抵抗であっさりと減速し僕の手元に収まった。ボールから僕の身体に伝わる運動エネルギーはゆっくりと膝で吸収して床面に逃がす。


「あ、あれ……?」


 当のシャーロットはというとボールを投げた反作用をそのまま自分の身体で受けてしまい、ふわふわと空中を彷徨い天井で軽くバウンドしたかと思うと、中途半端に空気抵抗で減速したせいか、そのまま壁面から五メートルほどのところで止まった。

 無重量状態というのは厄介なもので空中で立ち往生してしまうとこんな風にお手上げになる。

 シャーロットは笑顔のままきょろきょろと周囲を見回し、ようやく自分が身動きの取れない状態に陥ったことに気付いたのか、こいつは困ったことになったぞという顔をし始めた。微妙な愛想笑いを浮かべながら僕の方に首をかしげる。


「……こういう時ってどうすればいいの?」

「そうならないようにすればいいんだけど、まあ命綱を付けるのが普通かな」

「貰った覚えがないんだけど、命綱?」

「聞かれたら付けてあげるつもりだったけど、聞かれなかったから無重量環境の怖さを知っておいた方がいいかなって」

「ひどーい!」


 彼女は唇を尖らせてむーっとむくれている。まあ先ほどからの動きを見ているとシャーロットの身体能力は悪くなく、船外活動はともかく船内で生活する程度であればすぐに適応できそうだ。

 かたやレイシーはあまり運動が得意な方ではないようで、さっきから壁際に張り付いている。彼女のオリジナルであるミス・ウィットフォードからしてどう見てもスポーツ少女というタイプではなかったので、これは予想できたことではあった。アストリアに滞在している間の手伝い程度ならともかく、もし彼女をエオースの乗員として迎えるために予備航宙士相当の訓練を施すとなると少々手間になりそうだ。

 ――と、そこで、レイシーがやや怯えた様子で僕とシャーロットの間で視線を行き来させていることに気付いた。


「どうしたの?」

「シャーロット。ライル様に攻撃するなんて第一原則に対する背反行為です」

「ボール投げたくらいでそんな大げさな。平気だよ」


 青ざめるレイシーを宥めながら僕は肩をすくめる。シャーロットもレイシーの糾弾にもきょとんと目を丸くしており、特におかしなことをしたというつもりはないようだ。

 返す返すもロボット工学の三原則というものは適用基準が曖昧であり、生真面目なレイシーと大らかなシャーロットでは最も重要な第一原則ですら食い違うことがある。本人の行動基準の差異だけでなく、第一原則に抵触するような事象に直面した場合――つまり人間が目の前で傷ついた時――にどの程度のストレスを受けるかも個体差が大きい。

 下手をすると僕が転んで膝をすりむいただけでもレイシーは卒倒するかもしれない。それはさすがに困る。

 三原則によるストレスを少しずつ与えることで突発的なトラブルへの対応力を付ける慣熟プロトコルも存在するのだが、これまで本物の人間に会ったことすらなかった彼女達がそんなものを受けているはずがない。

 まあ今回の場合、僕としてはシャーロットくらいルーズな方がありがたいといったところだ。

 いまだ納得のいかない顔をしているレイシーを再び宥めていると、頭上のシャーロットが両手をばたばたと振り回しながらこちらにアピールし始めた。


「ちょっとー、そろそろ助けてくれてもいいと思うんだけどー?」

「ああ、うん、はいはい」


 無重量環境の空中で立ち往生してしまった者を救助する方法はいくつかある。例えば僕が自らジャンプして抱えて連れ戻してもいいし、大昔の地球の映画に出てくるカウボーイのように先を輪にしたロープを投げてもいい。

 しかしまあ、甘やかしすぎるのもなんなので今回は自助の手段を与えることにした

 僕はシャーロットが先ほど投げてきたボールを、そのまま同じ軌道で彼女に向かって軽く投げ返す。ボールは放物線を描くこともなくまっすぐに飛んでいき、シャーロットの手元にすとんと収まった。


「……なにこれ」

「それ使えば戻ってこられるでしょ」

「むむむっ……」


 彼女は両手で抱えたボールをなにやら小難しい様子で睨んだ後、はっと気付いたように顔を上げる。そのまま僕に背を向けると大きく振りかぶり、天井に向かって思いっきりボールを投げつけた。

 まあ概ねそれで正しい。

 先ほど僕に投げてきたよりもずっと勢いよくボールは飛んでいき、その反作用でシャーロットの身体はふわふわと空中を泳いでくる。そのまま僕の側まで来ると、くるりと器用に身体を一回転させ両足で床に着地し、その後若干危うげにふらついたが僕が助けの手を伸ばす前に近くの樹脂製の手すりを掴んだ。

 彼女はしばらく手すりの感触を確認すると僕の方に向き直り、どうだと言わんばかりに少し鼻を膨らませつつ笑顔を見せる。


「うん、まあ、合格かな」

「えへへ」

「もう少し周りを見てからの方が良かったけど」


 僕は得意げなシャーロットにそう言って微笑みかけたあと、視線を背後に向ける。

 そして今度は小さくため息をつく。

 天井から跳ね返ったボールは見事にレイシーの顔面に直撃していた。僕は力なく空中に放り出されたレイシーを見上げて嘆息する。

 今度は彼女を回収をしなければならないらしい。



「シャーロットは物事に関して不注意すぎるのです」


 スポーツドリンクをストローでちびちびと口にしながらレイシーがふてくされている。

 あれから多目的ホールを出た僕は、とりあえずシャーロットにはシャワーを浴びて着替えてくるように命じ、今はレイシーを僕が宥めているところだ。


「聞いていますか、ライル様」


 普段は言葉少ななレイシーだが今は随分と腹を立てているようで妙に饒舌だ。

 少しだけ意外な一面を見て得したような気分に浸っていると、彼女はますますふてくされた。

 まあ悪いのはシャーロットなので彼女が責められるのは当然として、僕がとばっちりを受けるいわれはないと思うのだが。


「聞いてる。でもまあ、レイシーも少しは運動できるようになって損はないと思うよ」

「……ライル様はスポーツがお好きなのですか?」

「いや、あんまり得意な方じゃないけど、みんなが球技好きだったからね。フットボールとか……あー、でも……」


 僕以外の乗員が健在だった頃、球技というのは最も人気の高いレクリエーションの一つではあった。球技の中でも最も人気があったのはフットボール――つまりサッカー――で、あまり球技が得意な方ではなかった僕もまあどちらかというとフットボール派だった。

 ベイカー船長だけはバスケットボールこそ男のスポーツだと言い張っていたが、実際やってみると船長は上背のあるユーリには全く歯が立たなかったものだ。当のユーリは――宇宙船乗りは身体の小さい方が有利とされることから――身体が大きいことをいつも気にしていたので、船長に勝負を挑まれる度に困った顔をしていたのだけれども。


「どうなさいましたか?」

「え、あ、ううん。なんでもないよ。みんなのことを思い出してさ」

「みんな?」


 曖昧に言葉を濁そうとしたことは察してくれなかったようで、レイシーは小さく首をかしげながら僕の方に詰め寄ってくる。

 僕は小さくため息をついてやむなく言葉を続けた。


「みんなフットボールが好きだったからさ。僕らが目当ての惑星にたどり着いて、リザが地上に居住可能な施設を建設したら、みんなでそこでフットボールをやろうって約束してたんだ。本物の重力の下でね。そういうわけにもいかなくなっちゃったけど」

「……そうでしたか。申し訳ありません」

「気にしないで」


 レイシーが表情を曇らせ始めたので慌てて首を横に振る。別に彼女を責めたかったわけではない。

 しばらくそのままにしていると、ふと何か思いついたように彼女は視線を上げた。


「……ライル様。その、考えたのですが、アストリアならば人工重力がありますし、開けた場所もあります。アストリアならフットボールは可能です。ライル様がお望みであれば――」

「いや僕は別にフットボールそのものがやりたいってわけじゃないんだよ。そういうのはなんかこう、みんなと新しい星の上でやるから意味があるんだ」


 フットボール自体に意味があるわけではない。

 何なら船長の意見通りバスケットボールだって構わないし、ベースボールでもテニスでも良かったのだ。

 それはあくまで僕らが新しい大地に降り立ったという認識を共有するための儀式でしかないのだから。


「それでは……例えば……いつか私達がどこかの惑星にたどり着いたら……不可能ですね」

「いや、不可能ってことはないけど」

「え?」


 ずっといつ切り出すべきか悩んでいた話をレイシーが突然自ら振ってきたので、僕は思わず頷いてしまい、そして彼女はきょとんと目を丸くしてこちらを見つめてきた。

 これまで話す機会がなく、どうやって切り出したものかとずっと考えていた話だ。ちょうど良い。

 僕は聞き返す。


「むしろどうして駄目だと思ったの?」

「それは、その……アストリアがどこかの星系にたどり着く可能性はもう限りなくゼロに近いですし……」

「このエオースなら可能だよ。そのために修理してるんだし」

「エオースは……その、人間のための船ですし、私達は人間ではありませんし……」


 レイシーは困惑したように首を横に振る。どうやら彼女は本当に自分がこの船に乗るという可能性を考慮していなかったらしい。

 まあ確かに――この話をするといつもリザが渋るように――レイシー達をエオースに乗せる意義は本来的にはない。僕らのミッションはあくまで人間を対象にしたものだからだ。

 だが、だからと言って、彼女達をエオースに乗せてはいけないかというと別にそういうわけでもないのだ。


「部屋は余ってるし、問題はないよ。リザだって乗ってるじゃないか」

「でも……それは……」


 彼女はそれから視線を彷徨わせながら無理な理由を探していたようだが、しばらく考えて観念したらしく不安げに呟く。


「……可能であっても安全性に問題があると思います」

「安全に関しては予備免許相当の訓練は受けてもらう必要があるかな」


 彼女はアストリアにいるのに比べてエオースのミッションは危険性が高いと言いたかったのだろうが、今そこを言い争っても仕方ないので僕は意図的にそれをはぐらかした。

 僕としては無理強いしたいわけではない。アストリアの機能を両方温存した上でエオースの修理が可能であればそれに超したことはないし、少なくとも方針としてはその方向だ。

 だが、可能な限りアストリアを存続させるというのとは全く別で、レイシー達が望むのであればアストリアの状態に関係なくエオースに招いてはいけないというわけでもない。

 僕はミッションを一人でもやり遂げるつもりではあるが、だからといってわざわざ独りぼっちになりたいと思っているわけではないし、彼女達が協力してくれるのならばもちろん大歓迎なのである。


「まあ、そんな道もあるんだくらいで、難しく考えないで」

「ええ、はい、あの、ええと、ええと……」


 話が面倒な方に向かっていると思ったのか、レイシーはきょろきょろと視線を周囲に走らせ、そして誤魔化すように部屋の奥を指さした。


「ええと……ところで、この部屋って何の部屋なのでしょう?」

「物置だと思うけど」


 唐突に話が変わったので僕も部屋を見回す。

 僕がレイシーを介抱するのに使ったこの部屋は、たまたまシャワールームの側にあった空き部屋だ。

 何の部屋かと言われても僕もよくは知らない。エオースには予備の部屋が結構たくさんあるし、この部屋はこれまで使われていたことのない部屋のはずだ。

 部屋の奥には半透明のコンテナが積み上げられている。修理中の部屋からリザが撤去したものだ。特に面白みのあるようなものは見当たらない。乗員の私物というか遺品は別途まとめられているようで、ここにあるのは共用エリアで使われていたもののうち廃棄が決定しているものばかりだ。

 これらは後で材質ごとに廃棄物処理プラントに運ばれて破砕・分解されてから資材として再利用されることになる。


「あ、あれはなんでしょう?」

「あれって?」

「あの緑の……」


 レイシーが指さしたのは小さな緑色の……植物だった。

 鉢植えのサボテンだ。無重量下でも生育可能な品種でいつも大会議室の隅に置かれていたやつである。

 船長の気まぐれで置かれていたのがいつの間にか慣例となっていて、寿命が来る度にリザが種から育てた新しいのを置き直していたものだ。

 そのサボテンも今や改装のために会議室を追い出されこんなところに流れ着いてしまったらしい。だが正規の乗員が僕しかいない今となってはあの大会議室が元通りのだだっ広い会議室として復旧する予定はなく、このサボテンも今や鉢に廃棄予定のタグが取り付けられている。

 この後は行き場もなく有機資材として廃棄物処理プラントに送られるか、そうでなければここでこのまま朽ちるだけということだ。


「このサボテンが気になる?」


 僕は手を伸ばし鉢を手に取ると、目の前でくるくるとサボテンを回してみた。

 握り拳程度の小さなサボテンだ。『現地』での生育可能性を調査するために、エオースにはこの手の植物の種は大量に積まれている。これらは現地で農業を実施するためにストックされており、例えばこのサボテンだって野菜として食べられる品種のはずだ。

 考えてみれば種から育てたオーガニックな野菜というのはなかなかの貴重品で、僕も地球の太陽系を出てからそんなものは口にしていない。会議室に置かれていたサボテンも代々寿命が尽きたら単に廃棄物処理プラントで分解されていた。少々勿体ない話だ。


「レイシー、なんならこれ……」

「ちょっと、ライル!」

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