量子頭脳の憂鬱

 R・エリザベスは汎用の船舶管理用コンピュータとして、外宇宙開拓局所属の調査船エオースと共に地球のラグランジュ4で建造された。


 彼女は今日も千々に乱れる大量の情報をその量子頭脳クァンタム・ブレインに取り込み、超並列処理で整頓し続けている。その思考はあまりに複雑で全容は最早完全に人知を越えた水準にある。


 この時代の人格型人工知能――固定機能のプログラムではなく人間同様の汎用的な判断能力を持つものを指す――には例外なくロボット工学の三原則と呼ばれる制限を掛けておくことが法的に義務づけられている。それは人型ロボットに限らず、宇宙船という人型とはかけ離れた『身体』を持つリザも例外ではない。

 三原則によってロボット達は本能的なレベルで人間を保護し人間に従うように作られている。

 ロボットには人間的な意味での感情は存在しなかったが、人間への奉仕を行うことが人間で言うところの歓喜に近い感情を呼び起こし、逆に三原則の遵守に失敗した時は悲嘆や苦痛に近いものを覚える。三原則に反するストレスを極端に掛け続けた時は量子頭脳が一時停止したり最悪の場合は自壊することすらある。そのように作られている。

 もちろんリザにとっても人間の役に立つことは無上の喜びであった。


 三原則の中でもとりわけ人間を傷つけてはいけないという第一原則は重要だ。

 それは最優先の命題であり、第一原則を守るためであれば人間からの命令に従えという第二原則を破ることすら許されている。

 第一原則の絶対性たるや、もはや狂信と言っても過言ではないほどなのである。

 ……それゆえに、事故により多くの乗員を死なせてしまったことは、リザに途方もない悲嘆を与えた。もしリザが普通の人間の少女であったなら、狂ったように声を上げて泣きじゃくって二度と立ち上がれなかったに違いない。

 それでもリザの繊細な量子頭脳が壊れてしまわなかったのは、たった一人の生存者である少年、ライルがいたからだ。


 リザと初めて出会った時のライルは、八歳の孤児だった。

 孤児といっても人類の黎明期のような悲惨な待遇ではなく、現代では政府の保護下で十分な養育を受けることができる。

 外宇宙開拓局では孤児院に出資することで成績優秀な孤児の少年少女を集めていた。外宇宙調査船の乗員は出発したら二度と地球に戻れないことが前提であるため、基本的には後腐れの無い天涯孤独の者であることが望ましいとされている。孤児院は人材発掘にうってつけの場所だったのである。

 そんな中で、ライルはありきたりな孤児であったが、珍しいことに果てしなき不毛の外宇宙を冒険することを夢見る子供で、もっと珍しいことにそれに見合うだけの優秀な成績を修めていた。

 だがそれでも、彼が八歳で予備試験に合格し建造中のエオースを見学にやって来た時は、リザにとってこれほど重要な人間になるとは予想しなかった。するわけがない。


 エオースが外宇宙に向けて出発したのはライルが十二歳の時だった。

 あの冒険のことしか考えていないような少年が、あのレイシー・ウィットフォードという少女のことを知ったのもその頃だ。彼はいつも一つ年上の少年フレッドおよび同い年の少女マリーナとつるんでいたが、例の交信実験に選ばれたのはライルだった。

 リザは今でもあの時ライルではなくフレッドを推しておけば良かったのではと考えている。


 ライルは当時からフレッドとマリーナの両方に好意を受けていた。

 不思議なことではあったが、彼は同性のフレッドからの好意には気づいてたくせに、マリーナからの好意には全く気づいていない様子だった。ライルはどうもマリーナはフレッドのことが好きだと本気で思い込んでいたようだ。

 気の毒なことに、ライルのレイシー・ウィットフォードへの気持ちを知ったマリーナは、本当に最後の最後まで自分の気持ちを隠しきることになってしまった。彼女はしばしば絶対の守秘を命じた上でリザにその気持ちを吐露したが、そんなものはにぶちんのライル以外とっくに気づいていたに違いない。

 乗員の色恋沙汰はリザにとって管轄外ではあったが、何かもう少し上手くやれなかったものかと今でも後悔している。


 ライルは今エオースの小会議室で、昨晩から今日に掛けてリザが集めた情報に目を通しながら、時々そわそわと時間を確認していた。

 彼は今、人を待っている。

 例のレイシー・ウィットフォードのイミテーションと、あとついでにオマケの小さい奴は、今日の昼にエオースまで来るように連絡しておいたのにいまだに到着していない。今は搭乗ブリッジの下の通路あたりをうろうろしているようだ。

 なんて愚図なロボット達なのだろう。前もって釘を刺さなければこの無重量環境下にスカートで来かねなかったほどの間抜けどもだ。リザの小型ローバーでももう少してきぱきと物事をこなすだろうに。

 苛立つという感情は持たないリザだが、アイラやシミュラント達への評価は毎日左前で下がり続けている。

 目下唯一の人間であるライルの望みを、三原則に従ってひたすら叶えるという簡単なことが、どうしてあのボンクラロボットどもはできないのか。


 ローバーとはリザによって遠隔操作される歩行型の作業機械のことで、船体修理用のローバーから惑星探査用のローバーまで様々なタイプがある。

 惑星探査用のローバーは、本来エオースがどこか適切な星系にたどり着いた時に、植民のための調査を行うためのものだ。だから今のように星々の間を漂流している状態では本来の使い道はない。

 リザは現在その余ったローバーを使って、アストリアのコロニーでアイラが管理できていない区域の調査を行っていた。目的は様々だが、エオースを修理するための資材が不足しているので、使えそうなものを探すというのが一番大きい。

 まあ要するにローバーは格の低い子機の一つであり、ローバーよりのろまというのはロボットにとっては最も侮辱的な評価の一つということになる。


 と、そこでようやくエオースに愚図な来客がやってきた。エオースの入り口であるエアロックに向けて搭乗ブリッジをのろのろと進んでいる。


「うわあ、これが地球の船なのね。近くで見ると結構大きいわ……ってどうしたの、レイシー。すっごい緊張してるけど」

「だって、地球の船なんて初めてですから……」

「あたしだってそうだわ。まあライルの自宅に遊びに来たくらいに考えておけばいいのよ。こういうのって地球の本で読んだことがあるわ。まずライルの部屋に入ったらベッドの下を探すのがセオリーなのよね。それでライルの好みを探るの。おっぱいが大きいのが好みとかだったら大変だわ」

「ライル様の好み……」

「どーしたの?」

「いえ、その……」

『そこのボンクラ二体――』


 何やらきゃいきゃいと盛り上がっていつまで経っても進まないので、リザは搭乗ブリッジに置かれたスピーカーで来客に呼びかける。


『――いつまでライルさんを待たせるつもりですか。人間に来いと言われたらとっととすっ飛んで来るです』


 リザは苛立ちを込めて言った。

 いや、もちろんリザは決して苛立ったりはしないが、苛立っているという様子を見せて威嚇することで、事態を効率化させることは厭わないのだ。

 愚図二体は一瞬凍り付き、ばつの悪そうな顔をしつつ船内に入ってきた。


 船内では小会議室でライルが二体を待っている。

 あのレイシーのイミテーションと会うときのライルはいつもそわそわしている。その態度に気づいていないのはライル本人だけだろう。言うまでもなくあの本物そっくりの外見に惑わされているのだ。


 彼は二体が来るのに合わせて何か良さそうな地球っぽい菓子か軽食を用意して欲しいと言ってきたが、今のエオースはちょうどメンテナンスの都合で人工重力システムを稼働させることができないという問題があった。

 そして大抵の『地球っぽい食べ物』は無重量状態で食べるのに適さない。


 リザはチョコレートを提案したが、ライルが要求してきたのはポップコーンだった。

 何故ポップコーンなのかと訊ねると、大型ディスプレイを使って皆で映像を眺める時はこれが定番なのだという。

 これから見せる予定の船内ガイドはファミリー向け映画だか何だかそういうものだと思われているのだろうか。


 エオースの食料プラントで作るポップコーンはもちろんトウモロコシ含有率ゼロパーセントの人工物で、身も蓋もなく言えばスポンジ状の食物繊維だ。わざと不揃いに成形された見た目や食感などは本物に近いが、味に関しては食用油と食塩に加えて糖類を加熱して作ったキャラメルを絡ませて誤魔化している。

 さくさくとした食感を再現した結果として、このポップコーンもどきは無重量状態で食べると粉になって飛び散りやすい。それがあの出来損ないのポンコツロボットどものご機嫌を取るためとあっては業腹なことこの上ないが、結果的にライルの気分が良くなるのであればリザに反対はない。ライルのためならエアフィルタの一枚二枚は安いものだ。

 とはいえ無駄に飛び散らせないように注意をしておくことは忘れない。


 ライルはどうもあの二体を実務で利用しようと考えているらしい。そしてそれは一概に悪いアイデアとは言えない。リザもある程度の修正を加えた上で同意はした。だが、だからといって乗り気なわけでもない。

 この時代ではほとんどあらゆる作業がロボットによって行われる。シミュラントのような出来損ないではなく、リザのようなもしくはアイラのような『ちゃんとしたロボット』によってだ。結局それが効率的なのだ。

 だから本来シミュラント達がライルのところに派遣されてきたのは、決してライルの実務を手伝うためといった理由ではない。

 あれは言うなれば愛玩動物代わりのコンパニオンロボット、もしくはもっと直截で端的で下世話な表現をするならば、ライルのするためのロボットなのである。

 そんなものがライルと実務を共にして感情移入しすぎないかが心配だ。ライルはあの二体に対しては今でも十分すぎるほど甘い。


 まあもっとも、ライルは非常に使命感の強い少年だ。肉欲に溺れてミッションを放棄するようなタイプではない。

 その点に関してはリザは極めて強い信頼を置いている。

 強い信頼を置いているのだ……

 置いているのだが、先ほどからレイシーのイミテーションと楽しげに話しているライルを見て、リザはこっそりと二ポイント差し引くことにした。

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