雨水さん、化ける。
「じゃあ、まずファンデから」
はい。
私は厳かに頷く。
もう気分は手術前だよ。したことないけど。
「ファンデーション、あたし、パウダーとリキッドとクッションしか持ってないわよ?」
……何語?
あ、外国語か。危ない危ない。まだ理解できる範疇みたい。
粉と、リキッドと……クッションってなに?
ソファーとかに置くやつしかしらない。
いやリキッドも分からないけど。
ってかファンデーションってポンポンするだけじゃないの?
よく見るのはあれじゃん。あの、ぱかって蓋が開いて、蓋の裏には鏡が付いてて。
中には塗るやつとスポンジみたいなやつが入ってるあのパターンのやつ。
……私名前知らなすぎじゃない!?
絶対あれスポンジって言わないよね!?
「十分ですよ。むしろ持ちすぎなのでは? そんな使います?」
「んー、興味本位ってやつ?」
そう言いながら緋咲さんはファンデーションだと思われるものを机の上に並べる。
……私の知ってる鏡付きのが見当たらないんだけどどういうこと?
私の知ってるファンデーションは実はファンデーションじゃなかった?
「じゃあ、雨水さん。こっち見てくれる?」
「あ、ハイ」
言われるがままに私は虹輝君の方を見上げる。
つい、背筋をまっすぐに伸ばしてしまう。
「動かすけど、反抗しないでね」
「ハイ」
髪切る時のノリで大丈夫ですか?
あの美容師さんが少し動かすと、その方向にちょっと頭を傾けるみたいな、あの感じでいいんですか?
聞く前に虹輝君の両手がヒナの両方のほっぺたを挟むように伸びてきた。
それから、右、左、と傾けさせられる。
「化粧水使ってる?」
「使って……る、ときとさぼってるときと?」
「ふうん。じゃあ、日焼け止めは?」
「……」
使ってないです。
「いらないじゃんだって。べたべたするし」
あれって、塗ったら数時間後とかにまた塗り直さないといけないんでしょ? めんどくさくない? 別に焼けてもいいし。ってか、焼けるし。
「はぁ? 顔面が平面だとでも思ってんの?」
そんなのっぺりはしてないと思ってるけど!?
「いい? ここと、ここで高低差あるの分かる?」
そう言いながら虹輝君はまずほっぺたの……頂点っていうの?
目の下の骨が出っ張ってるところを触って、それから耳の横まで指をさするように移動させる。
「虹輝君、くすぐったい」
「聞いてない。高低差あるの分かる? って聞いてんの」
「ハイ。ワカリマス」
「はい。じゃあ出っ張ってる方が焼けやすいのは分かるでしょ」
「ハイ」
耳の傍の方が陰になりやすいと思います。
あと日の当たり方も違うと思います。
「だから同じ顔なのに色が違うってことがあるわけ。実際違うし」
「ハイ。スミマセン」
「自分の顔面に謝ってんの? 変わってるね」
「……自分の顔面なら私の好きに扱っても良くない?」
「いいよ。僕の知ったことじゃないからね。ただずぼらで適当な同類になりたくないだけだね」
「そこまで言う!?」
だって水に入ったら効果なくなるじゃんそういうの!
ウチの学校のプールがいくら室内でも夏場は焼けるんだけど、塗ってる場合じゃないからね!?
「まぁ、問題はそこじゃないけど」
「……」
ぼろぼろになり損じゃない? それ。
もー、次はなにー?
虹輝君はヒナの顔面から手を放し、風岡先輩が出してくれたものの中からチューブのようなものを手の取る。
チューブ? チューブとは違うか。チューブって歯磨き粉みたいなやつのことだもんね。そんな形のものではない。
見た目は長方形で、蓋が付いてて、それを外すと中から絵具みたいな細い口が出てくる。
中には液体が入ってるらしくて、虹輝君はそれを自分の手の甲に出して、甲と甲をこすり合わせてそれを伸ばす。
そしてその甲を私の量の頬の横に並べて置いた。
「やっぱり、色が合わないわよね。雛希ちゃん、焼けてるから」
「緋咲さん色白ですもんね」
「そうねぇ。焼けてないわ。……どうする? リキッドで無理やり顔の色は変えられるけど造り物感増すわよ?」
「そうですね。首の色と違いすぎると気持ち悪いですし」
「それもあるわね。あとパーソナルカラーもかしら?」
「……あぁ、確かに」
「私が持ってるのオークルなのよね。分かる?」
「赤いんでしたっけ?」
「そうそう。雛希ちゃん、多分イエベなのよ。だからベージュじゃないと、映えないかも」
「……」
虹輝君が腕を組んで難しい顔で目を伏せる。
あの……何を言われてるのか全く分からないんですケド。
パーソナルカラーって何?
そんな占い的な響き化粧するときに必要なの?
というか専門用語多すぎない? イエベ? 誰それ。
「流石に母さんのは分からないし、合わないだろうなぁ……」
「そうねぇ。私の友達もオークルなのよね」
「……えと、買えばなんとか、なり……ます?」
2人して悩み始めてしまったので申し訳なさからそういう提案をすると、虹輝君が「はぁ?」と片眉を上げる。
「馬鹿言わないでくれる? 安い買い物じゃないの分かってんの?」
「分かってるよ」
分かってないけど。
ファンデーションって、幾らぐらいだろ……。
え。でもなんかコンビニで売ってない? あれそんな高いの?
「でも、私にあってるやつ買うってことでしょ? じゃあ無駄にはならないじゃん」
「普段化粧しないんだから無駄でしょ。化粧品って、封開けたら精々持って1年なの知ってる? その間に使い切らないと無駄になるわけ。する? そんなに化粧」
「……しないデス」
「でしょ。後先考えてくれる?」
「ハイ」
化粧はしないなぁ。頑張ってもしない。
これからするもん、って言おうかなぁとか少し思ったけど、だって私休日殆ど部活だし。部活だと私大体水中にいるし。
水の中で化粧とか、だって、ねぇ? つける意味何もなくない?
後先考えると私に化粧は必要ない。
でもなぁ。
私、変なところで体育会系なのよねぇ。
やるなら勝つ。
やるからには勝つ。
1位を目指して1位になれる人間なんて一握りしかいない。
中学の頃、顧問に言われた言葉だ。
実際そんなもんだし。
個人戦だと猶更そう。
同級生だってライバルだし、先輩だって蹴落とさないと1位にはなれない。
結構精神鍛えられるよね。もちろん「勝っても負けても恨みっこ無し」は言うまでもないけどさ。他の人がどれだけ練習してるのかは知ってるわけだし。
実際、今年の夏の大会、私は1位取れてないし。
あ。思い出すと悔しくなってきた。
バタフライが苦手すぎてつらい。
でも私が強いの平泳ぎだから。それを生かすために200メートル個人メドレーを選択し続けてるんだけど、なんだかなぁ。
平泳ぎなら学校で一番早い自信あるんだけどなぁ。競ったことはないけど。
でもちゃんと先生からリレーで指名されてるんだから。速いはず。
まぁ、優勝できてないから意味ないけどね! 届かないところにあるわけじゃないから無茶苦茶悔しい! いつだって悔しい! ちくしょー!
やっぱ平でぶちぎったほうが良かったんだろうなぁ。最後の自由形で勝負しようと思ったのが間違いだったんだよ。私のクロール普通だし。
おとなしく平泳ぎだけ選択しとけとも思うんだけど、私、知ってる。
私の性格上、同じことばっかやってると飽きる。絶対。
だから400メートルには手を出さないようにしてんだよね。
1種目100メートルだよ? 長くない?
背泳ぎ100メートルとか飽きるよ。あれ肩回してるだけだもん。そんな言い方すると選択してる人に怒られるけど。
背泳ぎは体幹が良くないと曲がりたい放題なんだよね。意外と難しい競技だよ。ちゃんと知ってる知ってる。ヒナ、背泳ぎもできるから。
あれ。
何の話だっけ。
バタフライ強化のために柔軟しよ、って話だっけ?
違うな。
お化粧の話だ。
それも違うな。
勝たない妥協は怠けだって話だ。
「虹輝君、言ったよね? ヒナを一番かわいくしてくれるって」
「言ってないね」
「あれっ」
「言ったのは『優勝させる』だよ」
「……同じ意味じゃん」
「違うでしょ。優勝させるためなら男装だって候補の一つなんだから」
お、男にもさせようとしてる……この人。
「でも、ヒナ背大きくないから男装は無理くない? 男の人になるなら大きくないと」
「……」
言うと、虹輝君はゆらりと大きく揺れた。それこそゾンビとかお化けみたいに、ゆらり、って。
その動きのまま首を傾ける。
よ、よく分からないけど見開かれた目は怒ってるような。
怒ってる……?
ってか虹輝君、目でっか。
ぱっちりしすぎでは?
今、瞳孔開いてるからこの感想も変だけどね!
すっごい猫みたいな目してるもん! シャー! とか言い出しそうだもん!
いや、逆に言わないかも。
ライオンってそんな可愛い威嚇しないもんね!?
「背が、なんだって?」
「ゴ、ゴゴメンナサイ!」
「もう、虹輝ったら。貴方、成長期まだあるでしょう?」
風岡先輩に肩を叩かれると虹輝君の顔がいつもの無表情に戻っていく。
成長期ってことは。
虹輝君、身長小さいの気にしてたんだ……。
そう言われると風岡先輩と同じくらいかも。
私は160ないけど、多分先輩はあるよね。
その先輩と同じぐらいってことは……160ぐらいってこと?
男の人ってどれぐらいが普通だっけ?
170ぐらい?
この部屋にいるもう一人の男の人の方を見て見る。
座ってるけど、でも170は超えてるかも。私と顔1個分とまではいかないけど、半分は違う気がする。
それと比べると、確かに小さい。
……え。男子高校生って1年で10センチ伸びるってことあるの?
なくない? ……男兄弟居ないから分かんないなぁ。
でも単純に考えたら10センチ伸びなくない? なんか小学生ぐらいだと『服のサイズがすぐ変わっちゃって』みたいなの聞くけど、中高生でそこまで聞かないくない?
でもあたしが知らないだけの可能性は大いにあり得るなぁ。
でも制服を少し大きめに新調するっていうよくある話は、逆を言えばそのぐらいの伸びしろしか見込んでないってことなんじゃないの?
え。
じゃあ虹輝君、170は無理だよ。来年も160センチ代確定だよ。確定演出入ってる。
とか言ったら般若になられそうだからやめとこ……。
「だいじょーぶ。すぐ私を見下ろすことになるわよ、きっと」
「……」
だといいですけど、と虹輝君は風岡先輩から顔を反らしながら呟いた。
無理だろうけど。
そんなのが聞こえてきそうな暗い声に聞こえた気がする。
「……まぁいいや。あんましないけど、目とかほっぺとかだけやるしかないね」
「持ってきてるわよ。アイシャドウ、私はオレンジが良いと思うんだけどどう思う?」
「同じです」
どこか気落ちした声のまま虹輝君は緋咲さんからアイシャドウを受け取る。
アイシャドウって瞼だよね? ってことしか知らない。
塗り方とか分からないなぁ。
なんて思ってる私の前で虹輝君はそのケースを開けて、あのなんか塗るやつを手に取る。
……これの名前何。綿棒みたいに両方とも使えるこれ、なに。
左右で大きさ違うように見えるんだけどその意味は何。
虹輝君は知ってるってこと?
というかなんで詳しいのこの人。
ヒナがおかしいだけで常識なの?
え? 幸村先輩も知ってるの? お願いだから知らないって言って。
お化粧は女の人の魔法みたいなところあるじゃん。
その裏側を男の人が知ってると、そんなの若作りとかにしか見えないじゃん。
仕組みが分からないから「すごーい」って思えるわけじゃん。
私女だけどさぁ。
「雨水さん、一重?」
「ううん。一応ね、奥二重なの」
「あぁそう。普通だね」
「……どういうこと?」
「日本人で一番多いんだよ。奥二重」
へー。そうなんだ。
え、じゃあじゃあ、虹輝君も?
そう聞こうとして塗るために顔を近づけていた虹輝君の目元をこちらも確認する。
……二重じゃん。
気付かなかったことが驚きなぐらいぱっちり二重じゃん。
「……奥二重ってことは、塗る面積増やさないとってことですか?」
私に聞かれても困ります。
そう思ったけど、彼の目線は風岡先輩のほうだった。
先輩も奥二重だから詳しいのかな。
なんて思って先輩の目元を見ればこちらもぱっちり二重だった。
いとこだからかな。
そう言われるとどことなく顔つきが似ている。
いとこってこんなに似る? ってぐらい似てる。
似ないよね。兄弟とかでもあー面影あるかもーぐらいで言われないと気付かないこととかざらにあるもんね? そうなると似すぎじゃない?
というか風岡先輩に顔が似てるってことは、虹輝君の顔ってもしかして可愛い?
あーでもかっこよくはないかも。そういうとまた怒らせそうだけど。
なんというか、いい意味で男の人っぽくない。
これに『いい意味』があるのかは知らないけど。
「そうね。奥二重さんは隠れちゃうところが多いからそうしてあげるといいかもしれないわ」
「……なるほど」
「あとは、そうね。その色濃くないから大丈夫だろうけど、濃い色を全体に塗るのも厳禁よ。腫れぼったくなっちゃうから。あ、そうそう。塗る範囲を増やすのはそうだけど、増やしすぎても駄目よ。瞼を大きく見せちゃうと逆に目が小さく見えちゃうから」
「難儀ですね」
「そうなのよ。だからシンプルに重ねるときは目尻だけでもいいかも」
「……あぁ、そこなら全部隠れるってことはないですからね」
「そうそう。片方私がやってみる? いきなりやるよりはやりやすいかもしれないわね」
「……じゃあ」
アイシャドウが再び風岡先輩の手に戻る。
「じゃあ、雛希ちゃん、目を閉じてもらえる? もしかしたら何回も開けてみてってお願いしちゃうかもしれないけど、許してね」
微笑む先輩を見ながら私は目を閉じた。
視界の情報が遮断されて、耳からの情報だけが入ってくる。
目の前のことですら何も見えないと何も分からない。
「まずは」
先輩は口で説明しながら私の瞼に色を置いているらしい。
「濃くなっちゃったときは指でとってあげてね」
そんな言葉の次には確かに指のような少し面積が大きい何かが瞼を撫でる。
ああしてね。
こうしてね。
先輩の声に虹輝君が返事をする。
不思議。
私がいないと起きない会話なのに、蚊帳の外にいるみたいな気持ちになる。
この二人が普通に近しい間柄のせいで特にそう感じる。
だって虹輝君、私より風岡先輩のほうに気を許してるのは確認するまでもないもん。
親族じゃあ仕方ないけどね。
でも従姉ってそんなに近い存在なもん?
私にも従兄いるけど、最後にあったのもう何年も前のはず。
親戚付き合いの仕方で違うだろうから、本当のきょうだいみたいに育ついとこもいるだろうけどさ。
でも、なんかこの二人は特別な気がする。
この二人というより、虹輝君にとって風岡先輩が、かな。
いとこより近いはずのきょうだいだって、性別が違えば感性も趣味も違うわけじゃん。なのに二人揃って化粧に詳しいってこと、ある?
風岡先輩が詳しいのは分かるけど、虹輝君の理由がこれといって思い浮かばない。
もちろん、私が知ってる虹輝君なんて一部中の一部だろうから。もしかしたら虹輝君の将来の夢がそういう、メイクする人の可能性だってある。
スタイリストっていうんだっけ?
そういう、美的感覚を生かしたい将来を見てる可能性だってあるけど。
もしかしたら、本当にそういうのなのかもしれない。
だから私のこの話にものってくれた、とか。
知らないなぁ。
私の記憶には昔の虹輝君すらいないから、知らない。
逆を返せば、虹輝君も私のことは知らないんだけどね。
知らない私の顔に合う色を選んでくれている。
それがなんだか、不思議な気持ち。
・
・
・
虹輝君による雛希ちゃんミラクル大変身試作段階は無事終わり、私は風岡先輩の化粧落としを使って、すっぴんに戻っていた。
なんてことのない雛希ちゃんが学校の流しの鏡に映っている。
化粧にくわしくはないけど、した後の自分の顔が大人っぽいなっていうのはさすがに分かる。
世の女性は大人っぽくなりたくて化粧をしているの?
だったらいらないなぁ。
大人になりたくないもん。
まだまだ学生でいたい。
泳ぎきるまで大人になんてなってられない。
そう考えると化粧というもの全般に嫌気が湧くような気がした。
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