春川くん、逃げられない。
「………」
ドアを開けて、僕は固まった。
ドアを開けて秒で目が合ってしまった彼女は「およ?」と態とらしく首をかしげる。あーあ、ロックオンされてしまったなぁと僕は瞬時にうずくまりたくなる気持ちでいっぱいになる。
なんでこんなところにいるんだ、この人。
ここがどこだか分かってるんだろうか。
いや、まぁ校内である以上どこにいてもおかしくはないし変ではないけれどだからってここはどうかと思うよ。
「やっほー、虹輝くん。おっひさー!」
どこだか気づいてないのか、それとも気にしないのか。
そんなこと言い出すってことは、もしかしてここで雑談でもしようっていうんだろうか。
ほとほと呆れてしまう。
ハァ、とため息をつきながら俯いて、僕はまた固まる。
上履きがない。
彼女が上履きを履いていないのはいつものことだけど、やっぱり何回考えても、いや考えるまでもなく学校内で上履きを履くのは当たり前だから、履いていないのを見ると「何してんだこの人」って思わざるを得ない。反射で思ってしまうものだ。まぁ口に出すこともあるけど。
「おっひさー!」
「さっき聞いたよ」
「さっきも言ったもん」
「じゃあなんでもう一回言ったのさ」
「へ? 返事がなかったから聞こえなかったのかと思って」
と、嫌味なく。
無視されたって考えはないんだろうか。
ってか別に久しぶりじゃないし。
昨日もあったし、なんなら次の授業で会うし。
「あ、そうだ。虹輝くん、お昼食べた?」
「食べたけど……あれ?」
「ん? どうかした? あ。もしかして食べたか食べてないか、忘れちゃった?」
「それは君でしょ」
「そんなことないよ! 今日の朝何食べたか覚えてるし、昨日の夜も覚えてるし、昨日のお昼も覚えてるし、昨日の朝も覚えてるよ!」
「おとといの夜は?」
えーっとぉ、と宙を見上げる彼女。
なんだっけぇと呟いてから次の言葉が出てこないあたり駄目そうだ。まぁ僕も覚えてないけど。
そうじゃなくて。
そんなことどうでもいいよ。
そんなことより、この人僕のことそんな馴れ馴れしく呼んできてたっけ?
「ごめん、虹輝くん、思い出せないや」
そう言ってボサボサの髪に手を伸ばす。
櫛っていうものを知らないんだろうか。知らないんだろうなぁ。
「それはどうでもいいんだけどさ、その名前呼び、どうしたの」
「どうしたのって、もしかして嫌?」
「嫌」
「あ。私のことは『あまみず』でいいよ」
「なんで? 『うすい』でしょ?」
「私、雨好きなの」
「………」
僕の返答が悪いのか?
まさか。
彼女の方に問題があるに決まってる。
何がどうなって雨が好きって話になったんだ。しかもその情報もどうでもいいし。どうでもいいけど、説明になってないし。
にしても……雨が好きな人っているんだなぁ。
僕はそうでもないけど低気圧が嫌だって嘆いてる人をよく見かけるというのに。
「あ。それでさ、ねぇねぇ、虹輝くん、お昼食べた?」
「食べたし、話聞いてた? それ嫌だって言ったよね?」
「なんで嫌なの?」
「そりゃ親しくない人に急に下の名前呼ばれたくないよ」
「んん? そう? 仲良くなれそうじゃない?」
「なれそうじゃない」
「あ。それでね、手伝って欲しいことがあるの」
………?
今、流れがおかしくなかったか?
「あのね、今上履き探してるんだけど、見かけてない?」
「……」
見かけてないっていうのは、どういうこと?
上履きって履いてないときは下駄箱に入ってるものじゃないの?
「なに。君の上履きひとりでに歩くの?」
「そうかも。よくいろんな場所に行っちゃうんだよね」
「……君が脱ぎ捨ててるんじゃないの?」
「違うよ。落し物で見つかるの」
「違くないでしょ」
それは脱ぎ捨てたからなんじゃないの?
履いてるものは落し物にならないでしょ。
だめだ。何言ってるのか分からないし状況がまるで理解できない。
「……じゃあ今回も落し物で見つかるんじゃないの?」
「それがまだ見つかってないの!」
「……」
大変! みたいな言い方をされたけど、元凶は間違いなくこの人だ。
自業自得でしかない。
「あっそ。頑張ってね」
「うん。今頑張ってるとこなんだけど、それでね、今日行ったところを探してみたんだけど、どこにもないの」
「……」
彼女をスルーしようにも、ドアから出てすぐのところで捕まってしまったので絶妙に横を抜けていくことができない。
貴重な昼休みの時間を彼女の訳分からない話に潰されたくない。
しかも、次の授業が数学だ。そこで彼女とたっぷり面会しなくちゃいけないのに、今もするなんて損した気分にしかならないじゃないか。
あとこの場所で会話をしたくない。
でもそのことは自分からは言いたくない。察してくれないかな、というか解放してくれ。
「どこにあると思う?」
今日移動したの物理だけだから物理室かなぁと思ったんだけどどこにもなかったんだよね、という話をなんで違うクラスの僕としようと思ったんだか。
絶対同じクラスの人と話し合った方が結論は早めに出るだろうに。
この人の今日の時間割を僕が知ってるはずないし知りたくもないし。
しびれを切らした僕は「知らないよ」と適当な断りを入れて彼女の肩を横に押し、その隙間から脱出を図る。
なんでトイレから出てきたところで立ち話しなくちゃいけないんだ。
昼休みは出された英語の課題を少しやっておこうって決めてたんだ。
「私も物理室で脱いだ記憶ないから多分違うんだよね。でもほかに移動してないし。ってか、今日学校に来て履いた記憶もないといえばないからそれより前になくなった可能性もあるんだけど、うーん……」
「……」
答えずに歩く僕の横を彼女がぴったりとついてくる。
今日も今日とセーターもベストも着用しないでワイシャツ一枚。胸元のリボンも留守。上履きは言わずもがなで、ちなみに靴下じゃくるぶしソックス。だから実質膝下からくるぶしまでは生足だ。スカートはシワだらけ。
髪型は1つにまとめられてはいるけど、櫛は絶対に使ってない。ぐしゃぐしゃだし、めちゃくちゃ。輪ゴムで止めてるのかって言いたくなる。
その格好を見るたびにやっぱり隣を歩きたくはないなとしみじみ思う。
思うし、その度に僕の感性は変わらずブレてないなと変な安心も生じる。
人間は怠ける方が得意な生き物だし、下手したら彼女の身なりはもっと悪化するのかもしれない。そのうち裸足で廊下を歩き回っていたらどうしよう。いや、どうもしないけどさ。どうにかできる相手じゃないし。
そう、どうにかできる相手じゃない。
だから僕はさっさと自分の教室に戻ることにした。
閉まっていた後ろのドアを開けて、中に入る。
「あ。もしかしたら他の場所に届けられてるとかあるかも。虹輝くん、落し物が届けられそうなところに心当たりいっぱいあったりしない?」
「…………」
教室に入って数歩。
振り返るまでもなく目に見える今の自分の状態。
僕は彼女の肩をくるりと回して、その背を押して入ってきたドアからすぐさまに出た。
幸い、昼休みの教室は騒がしいしみんな自由にしてるため他のことは目に入らない。
だからきっと彼女があっさりと教室に入ってきたことに気づいた人はいないだろうから、僕が連れ添って入ってきたと変な勘違いをされることはないはず。
嫌だよ。こんなだらしない人と親交があるとか勘違いされたら。
なんて思いながらも動転してたものだから、僕は教室を出てすぐに彼女の背から手を離してしまった。
「……他の教室に入っちゃいけないってルール、知らないの。君」
万が一の盗難等を危惧してそういう決まりが設けられている。
それがどのくらい先生の大目玉を食らう行為なのかは知らないけど、それがなくても他の教室に入るなんて度胸がいることだろうに。
だから逃げれると思ったんだけど、これは僕が甘かったってことなんだろうか。それはそれでものすごく釈然としないんだけど。
彼女はハッ、と息を飲んでから深々と頭を下げ始める。
「おじゃまします」
「そういう話じゃないよ」
断りを入れろって言ってるんじゃない。
「だいたい、上履きなんていつも履いてないじゃん。なんで今日はそんなに探してるのさ」
「顧問に、ちゃんと履かないと次の大会出さないぞって脅されたから」
小学生でもわかることを言って脅迫罪を被る羽目になるなんて、とんでもない屁理屈証言があったもんだ。
ここで間違っても「何部?」なんて聞いちゃいけない。
自由気ままな彼女が縦社会に揉まれてやっていけるのか疑問ではあるが、首を突っ込んではいけない。彼女に付け入る隙を与えたら今以上に絡まれる。
彼女がそんなこと気にして話しかけてきているかもまた疑問でしかないけれど。
とりあえず、朝練のない部活であることは確定だろう。
この人、朝来れないし。
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