永町さん、誤爆する。
もはや『そういえばそうだったね』という忘れかけのニュアンスになりつつある。
何がと言うと、氷上君が実は入学初っ端に謹慎処分になったということ。
誰しもが彼に怯えていた4月の教室風景はもう見る影もなく、彼は少し荒っぽいところがあるもののムードメーカーとしてみんなの一部に溶け込んでいた。
みんなも彼が不良だと言うことを忘れ、すっとぼけていた時にはちょっと叩いてみたり小突いてみたりと、少々雑な言い方をすると手を出したりしていた。
もちろんそんなの戯れだから本気で怒るようなことはない。
それは氷上君も同じだった。
腕っ節の強さは時折自慢しているのを見かける。腕相撲は誰にも負けないと息巻いているし、事実強い。
そういった一面を出されても、そういえば危ないことをしでかす人だったっけという認識は湧き上がらず、むしろ彼の魅力として加算されている。
そういえばと思い出した理由は別。
最近やたら目立つようになった遅刻と、日に日に増えている生傷だ。
◇
「……」
「………」
その傷の理由を尋ねたところ、彼はひたすら無言を貫くだけだった。
今は証拠がないだけで、これじゃ、また謹慎処分になりかねない。
そういった仕組みは縁遠いものだったから詳しくないけれど、回数を重ねれば退学だって
視野に入れなければならないという話なのは誰にだって分かる。
今の彼は人気者だ。そうなったらクラスのみんなが悲しむに決まってる。でも多分それは彼を説得する材料にはならない。
彼を脅す最大の言葉は『幸村先輩』という一言だ。
「私、確か前に言ったわよね。次怪我したら幸村先輩に言うって」
「……」
多分、と彼はこぼす。
こういうとことぼけたりしないのよね、この人。
「もう何回か見逃してる」
これじゃまるで口先だけみたいだ。
脅しの効力といったら少し物騒だけれど、でも所詮は口で言うだけだから大丈夫と軽視されてしまっては効果は皆無だ。
「今日部室に行くから、先輩に話すわ」
「……」
氷上君は苛立ったように視線や足や腕を落ち着きなく動かす。
それから、舌打ち。
ええ、そうでしょうね。貴方からすれば私は煩わしい存在でしょうとも。
殴らないのは、尊敬する幸村先輩のポリシーに反するからで、きっと『私だから』という理由ではない。
「なぁ、委員長」
笑顔も無表情も保っていられない彼の顔を正面から見据え、私は「なにかしら」と微動だにせず答える。
「委員長には迷惑かけねぇし、巻き込みもしねぇから。マジで。だから気にするだけ無駄だろ? テストも近いんだしそっち気にかけとけよ」
「安心して。私の成績はそう簡単には落ちないから」
兄弟たちの面倒を見ていることを不出来の理由にはされたくはないもの。
氷上君はまぁ落ちなさそうだけどと言葉を失速させる。こんなの口喧嘩のレベルではないけど弁は私の方が上かもしれない。
「じゃあ、委員長。何したら見逃してくれる? 次のテストで100点取るって約束してやろうか?」
「それがなんの意味になるっていうの。氷上君、『総務委員だから』私が怒ってるって思ってるでしょう。だからそういう提案するんでしょう? 勘違いしないで」
「……」
氷上君が眉間に皺を刻む。
私よりも高い位置にある鋭く細められた双眸がまるでゼロ距離で蝕んでいるようだった。
じり、と彼の片足が前に出てきて。反射的に私の片足が後ろに下がる。
着崩された制服に、誰かを真似た茶髪。
顔にあるいくつもの傷に、右の手の甲に点々と存在するいくつもの痣。見たことはないのに、それが暴力の結果だって断言できてしまう。
この人はそうされるだけの人じゃない。
そうすることも出来てしまう人だ。
人を見かけの偏見で決めつけてしまうのは嫌い。
でも、今の私にはその『嫌い』を押しのける腹が無かった。
「勘違いねェ……」
低音が掠れる。
「なぁ、委員長。お前、今もしかしたら俺に殴られるかもしれねェって思ってるだろ?」
少し遅れてから、自分の指先が跳ねたのが分かった。
「委員長はアタマいいからそれぐらい考えられるわな。だから分かるだろ? 俺みたいなどうしようも無いやつに構うのは時間の無駄だって」
ガッ、としたから顎を片手で掴まれて顔を固定される。
彼はそんな私の顔に自身の顔を寄せて、私に影を落としながらまるで別人のような凶暴な目を見せつけた。
それから。
「分かるよな?」
と一つ唸って、顔を解放したその手で私を突き飛ばした。
後方に崩れた私の横を彼は見向きもせずに去っていく。
「……」
私は脅されたのだ。
返り討ちにあったのだ。
殴られたわけでもないのに、私は頬に手を当てていた。
彼の指が食い込んだだけの頬が微かに痛い。
頬を押さえたまま立ち上がって、私は呆然としたまま歩き出した。
さっき突き飛ばされた誰かさんの姿に私は殴り飛ばされた同じ誰かさんの姿を見ていた。
見ていた。
他でもない、私が。
押さえていた頬に爪を立てる。
まるで被害妄想のようなその考えがねっとりと心内にへばりついていて、ひどく気持ち悪い。そんな過大妄想を働かせた自分がひどく気持ち悪い。
私は出来た人間なんかじゃなかったのだ。
そんなの、なれた気になったことはなかったけれど。
◇
私はその日、行く予定はなかったけれど部室に足を運ぶことにした。
「あら珍しいわね」と緋咲さんは少し目を大きくしながらも、手を招いた。
彼女の正面では鉄仮面のままカリカリとシャーペンを走らせる幸村先輩がいる。ここ最近見かけるようになった光景に矛盾の一言を添えるようだが、それがもういつもの光景になっていた。
「どうかしたの? 来る日じゃないうえに、今テスト一週間前よ?」
緋咲さんは机に頬杖をついて、隣に腰を下ろした私に柔い視線を向けてきた。
この人は本当に不思議な人。
茶目っ気があって、イタズラが好きで楽しいことも好きで。幸村先輩を怒らせてばかりだ。
それがどういうものであれ、この人は人との距離を詰めることがうまい。
「最近勇士君も来てくれないから退屈してたのよ。……そのことと関係してたりするかしら?」
そう首を傾げながらも、彼女の目は一寸も疑っていなかった。
「……でも、幸村先輩には言うなって口止めされてるのでそれは言えません」
ここには告げ口をしに来たのではない。
この人の顔をなんとなく見たくなったのだ。
「えー、どうしても?」
「そればっかりは……はい」
「……じゃあ、幸村。耳栓してちょうだい」
「……」
煩わしそうに顔を上げた幸村先輩に、緋咲さんは臆することなくもう一度「耳栓」と自分の髪に隠れた耳を指差しながら。
ハァ、と重たげなため息をついた幸村先輩は持っていたシャーペンを筆箱に投げ入れる。その先輩の手を緋咲さんは両手で掴んだ。
「帰るのはだーめ」
「………」
……先輩の目が「面倒臭い」と嘆いている気がした。
「いなくなった方が楽だろ」
「じゃあ私は誰と帰るのよ」
「知るかよそんなこと」
「知ってるでしょ、いつもそうしてるんだから。それか、あんたが知らないふりできればいいのよ」
それは待ってください、と私は緋咲さんをとめた。
確かに彼が嫌がったのは幸村先輩に明かされることだけど、だからといって緋咲さんならセーフかもというのは暴論に近い気がする。たしかに穴をすり抜けた策ではあるけれど。
そう考えて、私は、投げた。
私も穴のある人間だ。
私一人でできることの方がどう考えたって少ない。
そんなことでつけあがるくらいなら、変な過信を夢見るぐらいなら、現実に刺されてしまえ。
彼が言ってた通り、勘違いしてたのは私。
思い違いをしていたのは、私。
「……幸村先輩には絶対に言うなって言われたんですけど」
気分はさながら懺悔だった。
それすらもおこがましいくせに。
この場所に来たのはみっともない『私』を家に持ち帰りたくなかったからかもしれない。
「氷上君、ここ最近怪我が多いんです。多分、喧嘩で」
沈黙が流れる。
「その理由を聞いたことがあるんですけど、多分……先輩絡みのことみたいで」
なにしたのよ幸村、と緋咲さんが幸村先輩の腕を突いた。
「……」
ふー、と先輩は長い息を吐き出しながら額に手を当てた。
「ちょっと、幸村?」
緋咲さんは先輩の方を軽く揺する。先輩はちらりと目をあげることもせず、うつむいたまま動かなくなった。
「……なにか心当たりでもあるの?」
心配そうな声で尋ねる緋咲さん。
彼女を無視して、先輩が声を飛ばしたのは私の方だった。
「永町」と唸るような声で呼ばれる。
「明日の放課後、氷上引っ張ってこれるか」
「………」
「抵抗したら俺が呼んでるとでも言え。逆らったら二度と面見せるなとも付け加えろ」
「…………」
善処します。
そんな答え方をした。
1日、考える時間が欲しかった。
私の答えを聞くと、幸村先輩は机の上に出していたものを雑に片付け始めた。それを同じく先輩らしからぬ粗暴な手つきで鞄にしまうと、立ち上がって足で椅子を蹴るようにして入れる。
「幸村、帰るの?」
そして、最後に緋咲さんを一瞥だけして部室を出て言った。
「ごめんなさい雫。鍵、お願いしてもいいかしら」
今度なんか埋め合わせするわね、と走り出しながら付け加えた。
私はしばらく物言わぬ部室に閉じこもっていた。
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