春川くん、目をつけられる。

 ◇



 彼女は『あさっての1限から居たら褒めてくれ』と言っていた。

 もちろん褒める気はさらさらないけれど、でもその口ぶりだと『明日』はこないつもりなのだろうというのは容易に推測できる。


 だから僕は、今日の授業はずっと隣が空席なのかと少し気を楽にしていたのだが、彼女は見事に僕をがっかりさせてくれた。


 なんと、遅刻常習犯の彼女が始業開始時刻から既に居た。

 初めての光景ではないけれど、それでも珍しい光景であることには変わりない。週に5回以上、つまり多いときは1日2時間以上数学の授業がある中で、彼女がその光景を見せてくれるのは週に3,4回がせいぜいだ。それでも多く見積もった方だ。


 まぁ、僕は彼女に興味はないのでいつの時間にいていつの時間にいないのかは覚えていないけれど。


 先に席に座っていた僕の隣に来た彼女は、「おはよー」とよれっとした声で言った。まるでボロ雑巾だ。髪型も適切の意味ではない『適当』だし、制服は相変わらずリボンがないし、上履きもない。

 そんなぼろぼろな身なりはいつものことだけど、いつだって声だけは元気なのに今日はそれがない。体調不良なら無理しない方が良い。うつされる身にもなって欲しいし。


 僕は挨拶を返さずに、「何か用?」と言葉を返す。

 動かすのも首から上だけだ。


 彼女は手で隠さずに大欠伸をし、その後に目を擦りながら「眠いね」と言葉を覚えたばかりの幼子のように言った。


「別に僕は眠くないけど」


 彼女はまた大欠伸をする。


「お得意の寝坊はどうしたの?」

「今日寝てない」

「……何時に寝たの?」

「ん? だから、寝てない」


 僕は彼女の寝ぼけ顔を見ながら絶句する。

 生活習慣が乱れているであろう事は察していたけれど、学校がある日に寝ないで来るなんて、ほんとどうかしてる。睡眠時に記憶を整理するのだから、勉強は寝るところまでがセットだろうに。勉強する場所に、彼女は何をしに来てるのか。

 呆れてものも言えない。


「昨日、気づいたら1時で。寝たら遅刻するなぁと思って、寝なかった」

「いつもそんなこと思ってないでしょ」


 果たすつもりは一切ないけれど、彼女が勝手に宣言したのはあさっての話だ。なんで今日そこまでして来たのか。いや、来るのが普通なんだけど。


「春川君に会いたかったから、頑張った」

「……」


 僕は顔を思い切り顰める。最高に嬉しくない言葉をどうもありがとう。

 半分寝てるようだし、寝言のようなものだろう。なら大目に見よう。


 今の今まで鞄を背負っていた彼女は、ようやくその鞄を肩から降ろす。というか、なんで移動教室に鞄ごと持ってくるのか、一生理解できそうにない。

 彼女は片手で目を擦りながら、もう片方の手で肩から降ろしたその鞄を雑に床に落とした。


 なんというか、動物園の動物でも見ている気分だ。

 こちらの予測できない動きをし続ける。

 何を考えているのかさっぱり分からない。

 たまにこちらに何かしらのアクションをしてくる。

 ほら、動物と変わりない。

 そんな彼女は、パチン! と自分の頬を思い切り叩いた。

 教室内にいい音が響く。

 相変わらず理解できない行動を唐突に始める。


 叩いたせいで頬を少し赤くした彼女は、座っている椅子をずいっと僕のように寄せた。そして、すっと僕の方を指さした。形は良いけれど、その爪は長めだった。


「はるかわこうきくん、でしょ?」


 たどたどしく僕の名前を呼ぶ。

 そんな気安く呼ばれたくはない。

 彼女の顔はさっきまでの寝ぼけ面ではなかった。いつものはきはきとした表情だ。


「だからなに?」


 冷たく返すが、彼女はそんなこと何も気にしない。

 こちらの反応なんてお構いなしだ。自分のしたいことだけし続ける。そんな理性のない動物のような彼女。早く元の場所まで戻ってくれないかとうんざりした目を向けても、彼女にはどうしてか届かない。

 きっと感性からして違うのだ。一生解り合えることはないんだろうな、と思うと凄く気が楽になる。

 僕はこんな人間と同じになりたくない。厚顔無恥にも程がある。


「私、うすいひなのっていうの」

「……」


 ……何の名乗りなのか分からない。

 そんな僕をおきざりにしたまま、彼女は指さしていた指を一度引っ込め、同じ手を今度は好意的に差し伸べてきた。


「仲良くしてね」


 そう言って、彼女はにっこりと優しげに微笑む。僕はそれに無表情で対応した。


 時計に目を向ける。残念ながら授業開始までもう少しだけ時間がある。ご都合よくチャイムが鳴って遮ってくれたりはしないようだ。

 僕は一つ息を吐く。


「お断りだよ」


 もちろん握手には応じない。


「これからもよろしくねっ!」

「話聞いてた?」


 ぐっと親指を立てた彼女は満足げに笑うと、僕の傍から離れていった。

 そして腕を上に上げて大きく伸びをして、その腕を降ろしながら思い切り脱力する。その時、もう彼女の顔は既に眠気に支配されていた。


 そしてネジが切れた人形のように、机に伏せて寝始めた。


 ……本当、何をしに来たんだろう。


 これじゃあ、本当に僕に会いに来ただけみたいじゃないか。

 仲良くなるつもりは毛頭ないけれど、どう考えたってこんなに理解できない相手と親しくなれるはずがない。


 僕が小さく欠伸をすると、始業のチャイムが鳴った。

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