永町さん、手を焼く。


 ◇


 保健室に行くと、少し慌ただしかった。

 体操着の生徒が数人保健室に来ていて、何事かと思ったら一人の生徒を運んできたようだ。


 その生徒をベットで寝かせるように指示しながら、先生は私たちに「どうしたの?」と声を掛けてくれた。忙しそうなのに、こんな時でも笑みを忘れない人。私もそういう人になりたい。


「忙しいとこすみません、怪我の手当をしたくて来たんですけど」

「あら、ほんと。いっぱい怪我してるじゃない。ちょっとそこ座っててくれる?」

「あ、私がやります。消毒ぐらいできますから」


 先生は少し考えると、消毒液とコットンを机の上に並べ、「お願いできる?」と申し訳なさそうな顔をした。ちなみに、氷上君はずっと申し訳なさそうな顔をしたままだ。


「はい」


 ごめんなさいね、と先生は謝るといそいそと何やら支度を始めた。

 ベットに寝かされた生徒は眠っているかのように、微動だにしない。いや、寝ているだけなら少しは動くか。なら……不謹慎だけれど、まるで死んだかのように、という表現の方が適切かもしれない。

 先生の焦り様からもちろん死に至るほどじゃないけどただ事ではないのは目に見えて分かる。大変なときに来てしまったらしい。

 私は迷惑にならないように声を小さくしながら言う。


「氷上君、座って」

「いや、消毒ぐれぇ自分でできるって」

「座って」

「……うす」


 むすっとした表情で氷上君は椅子に座る。

 座った状態の氷上君を見たことがないわけではないけれど、でも大体は立って並ぶことが多いせいか、私よりも下の目線に氷上君がいるという事が少し新鮮に思えた。


 消毒液をコットンにしみこませ、「失礼します」と一声掛けてから私は氷上君の顎に指を近づけ、そのまますっと上に向かせる。

 直後、氷上君は挙動不審になりながら私の手から逃げ出した。まるで水に驚く猫みたいに。


「は、ちょ、顔から!?」

「え? どこからやっても同じでしょ?」

「なら腕辺りからでよくね!?」

「……? どうせ顔もやるんだから、顔が先でもよくない?」

「そ、そうだけど……」

「何が不満なのよ。痛くしないとは断言できないけれど、できる限り優しくするわよ」

「いや、別にそこは不満じゃないっていうか、そこが問題じゃないっていうか」

「何言ってるのよ」


 うーん、と氷上君が考え込む姿勢をみせる。

 今までで一番深刻そうに悩んでいる。テスト勉強中でもそんな顔見せなかったくせに。


「いやっ、やっぱ俺自分で出来るわ」

「……? 私がするのがそんなに嫌?」

「いいや! いやっ、嫌じゃない、けど」

「どっちよ」

「……、」


 静かになった氷上君は椅子に座り直し、姿勢を正した。

 よく分からないけれど、腹はくくったらしい。でも腹をくくったくせに何故か俯いたままだ。顔を消毒するのにそのままでは私が下から覗き込まなければならなくなる。それは私からすれば特に問題は無いけれど、消毒液が垂れてしまう。


 私は氷上君の顔の両側を手で包むように持ち、ぐいっと上を向かせる。


「……?」


 上を仰いだ彼の表情を見て、私は少しだけ首を傾げた。

 そんな私を見て、「なんだよ」とばつが悪そうに、というか拗ねるようにというか、唇を少し尖らせる。


「いえ、特には」


 なにやら顔が赤い気がする。多分さっき変に騒いだせいだろう。

 声を荒げると人の顔は赤くなる。私の弟達がそうだ。


「あの、いいんちょ」


 近い距離なのに氷上君と視線が一向に交わらない。

 まぁ、確かに人に顔を気安く触られて良い気分の人はいないだろう。パーソナルスペースというものが誰にだってある。露骨に嫌がられるのは少々胸が痛いのだけれど、でもそう考えれば納得だ。


「なにかしら」

「あの……えっと、近い、じゃなくて、そう! 圧迫感! 圧迫感があるのでもう少し離れて下さい」

「なら目を閉じてて」

「へ?」

「そうすれば見えないでしょう?」

「あ、いや……」

「氷上君、時間が無いからはやくして」


 妙にそわそわしていた氷上君が再び静かになる。

 この人は落ち込んだり気が沈むと下を向く傾向にある。再び下へと傾きかけていた首を私はまたぐいっと持ち上げる。

 圧迫感がいやなら、1回で終わらせてしまえばいいものを。こんなことしていたら何度も嫌な目に遭うだけじゃない。


 私はまず目についた口元の傷にコットンをあてる。

 少し角度がやりにくいので、彼の顔を左側に傾ける。


「……っ」

「あ、ごめんなさい」


 指先が彼の唇をかすめた。彼はぎゅっと目を硬く瞑る。爪はそこまで長くないから痛くはないはず。もしかしたらくすぐったいのかもしれない。

 ある程度消毒すると、消毒液が彼の顎を伝って滴りそうになっていたので私はそれを親指で拭った。

 今度は左頬の何かに擦ったような浅い怪我の消毒。なので動かした彼の顔を右側に傾けようとするが、妙に力まれていて動かしずらい。


「氷上君、力抜いて」


 声を掛けてみると、「あ、ハイ」と他人行儀な返事をされた。

 再び右側に傾けようとすると、今度は意図を汲み取ってくれたのは良いのだけれどいきすぎた。傷口に触れないように、あとあまりくすぐったくしないように、私は慎重な手つきで少し角度を戻す。


 私の手がさほど冷たいわけでもないのに、彼の頬に触れると熱く感じる。


「……あの、委員長、まだ?」


 彼は閉じていた目を薄く開き、私を見上げる。

 さきほどまで嫌がっていたくせに、今度は何故か私をしっかりと捉えている。

 薄目だからなのか、普段目にしない角度だからなのか、普段の氷上君からは想像できないほど艶っぽく見えた。まつげに隠れるように慎ましやかな瞳がひどく大人びて見えた。熟れたような顔もその効果を助長させているかもしれない。

 薄目とは言え氷上君の目がなければ、私はしばらく時間でも止まったかのように動かなくなっていたことだろう。

 口元を意識して笑みを浮かべる。意識的に自身を動かすことで無理矢理我に返る。


「あともう少しよ」

「……はやくして」

「せっかちね」


 うるさい、とふて腐れたように呟くと、彼はまた目を閉じた。


 私はまた傷口にコットンを這わせる。

 そこは当然荒々しいのだけれど、でも他の箇所も少し傷が残っているようだった。目立つほどではないけれど、普通に生活していればつかないような小さな傷の跡がたまに見て取れる。

 綺麗な肌なのに、もったいない。

 私はなんとなく、彼の頬の傷がないところで指の腹を横に滑らせた。


 ……何してるんだろう、私。

 そんなことより消毒しないと。


「……、」


 なんとなく、目を伏せたままの彼の顔を見つめる。

 なにをしたのか分からないけれど、ここまで怪我をして、氷上君は幸村先輩を守れたんだろうか。

 そして幸村先輩はこのことを知らないままでいいのだろうか。

 それって、氷上君の殴られ損じゃないのか。

 男同士の友情というやつなのかもしれないが、やっぱり女の私には少し理解できない。けど、幸村先輩に告げ口することが最悪だってことはもちろん分かってるつもりだ。

 そんなことをしたら、それこそ殴られ損になってしまう。

 けど。


「もっと、自分を大事にしてよ」

「あ?」

「……ごめん、なんでもないわ」


 もしかしたら先生は察してるかもしれないけれど、殴られたなんて言葉を間違ってでも発言してしまえば、私はもう彼に顔向けできない。


 終わったわよ。

 私がそう言うと、氷上君はしぼむほどのため息をついた。

 そこまで身構えるほどのことではないのに、と私は少し笑ってしまう。


「……何笑ってんだよ」


 背を丸めたまま、彼が顔をあげる。

 子供じみたその顔でさっきの大人びた表情を作っていたのかと思うと、錯覚でもみていたような気分だ。


「いいえ、別に。次、腕出してくれる?」


 彼は先ほどまでの抵抗が嘘のように、あっさりと男らしい腕を差し出した。

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