春川くん、呆れる。


 数学は好きだがいちいち移動しなければいけないのは面倒臭い。

 教科書とノート、下敷き、それから筆箱。いつものセットを持ちながら俺は仕方なくといった足取りでいつもの教室に向かった。


 チャイムが鳴る前に移動するのが僕の主義だ。普通だと思っていたのだが、周りに「真面目だね」と言われることが多い。


 移動先の教室は、鍵が開いていることもあれば閉まっていることもある。今日は後者だった。同じ日付の同じ時間帯でも開閉はまちまちなのでこればかりは予測できない。


 職員室にある鍵を持ってくれば開けることはできるのだが、それは先生が持ってきてくれるので取りに行くことはしない。

 正直なところを白状すると、教室の鍵がどこにあるのかは把握しているが、普段使われていない教室――所謂空き教室の鍵がどこで管理されているのかは知らない。

 なので取りに行くことはしないと言うよりも、取りに行けないというのが本当のところだ。


 僕は教室のドアの横で壁に背を預けて待っていることが多い。

 他の人はチャイムが鳴る頃に顔を出す。中にはチャイムが鳴ってから来る人も多い。


 僕からすれば鳴ってから来ることすらおかしいと思っていたのだが、最近その判断基準が揺らぎそうになっている。

 原因は彼女だ。

 彼女はチャイムが鳴る前に来る云々の話ではない。チャイムが鳴っても来ない、という可能性が大いにあり得るのだ。せめて来いよ。


 そんな遅刻常習犯な彼女だ。

 出席することすら珍しい彼女だ。


 だから僕よりも先に待っているとか、もう槍が降ってくるに違いない。


「あ、春川くん」


 彼女は幼気さの残る笑みを浮かべながら手を振ってきた。

 僕はそんな彼女を前に足を止める。

 互いを認識し合う仲になってしまったが、それでも僕は彼女と親しくする気はない。

 一切ない。

 そんな僕をお構いなしに彼女は待ち構えていた。


「いるなんて珍しいね」

「でしょ!?」


 彼女は誇らしげにそう言ったけど、別に普通だ。むしろ居ない方がどうかしてる。

 馬鹿にしたつもりだったんだけど、効果はいまいちのようだ。


「私数学好きだからね」

「の割には午前中の授業だと居ないことの方が多いよね」


 うぐっ、と彼女が言葉を詰まらせる。


「……だって、早起き苦手」

「そんな人、君以外にも沢山居るよ。でもみんなやってる」


 僕だって朝は得意ではない。朝の電車内はうとうとしてる。


 彼女はまただんまりになった。流石に反論できる点がないのだろう。言い過ぎたかな、なんて思わない。正論を言ったに過ぎない。

 たまに正論が暴力になり得ることもあるけれど、この場合はそうでもないだろう。話していることは『早起きについて』だ。早く起きろ、で人を傷つけてしまうのでは僕はもう何も喋れない。


 そのまましばらく沈黙が続く。

 親しくしたくない僕としては格好の条件だった。なるほど、こうすれば彼女は遠ざかっていくかもしれない。


「じゃあ、あさって! あさっては早起きしてみせる!」


 ……そんなことはなかった。


「いや、どうでもいいんだけどさ、なんで明日じゃないわけ?」

「だって、今日の夜楽しみにしてる映画が……」


 あぁ、確か地上波初放送だっけ。朝方母さんがうきうきしてたのを思い出す。

 録画して後日に見るっていう選択肢は彼女にはないのだろうか。

 まぁ彼女の私生活について不満はあっても文句を直接ぶつけるつもりはない。関係ないからね。


「だから、あさって! あさって1限から居たらさ」

「なに。ジュースでもおごれって? 断るよそんなの」

「ジュース? 違うよ、朝から居たら褒めて」

「……は?」


 小学生か。

 大体褒めるってなにすればいいのさ。「良く来たね」って? え? それ僕の仕事なの?

 褒められたいなら友達とかクラスメートとかに頼んでよ。なんで僕。


「嫌だけど」

「なんで!」

「なんで? 逆になんで了承すると思ったわけ?」

「褒めてくれれば良いんだって! よくやったね! 花丸! で、おっけ!」

「何も良くないよ。っていうか、褒めることを強要するのっておかしくない? 出来レース同然でしょ」

「褒められて伸びる子です」

「伸びなくて結構」


 むしろ埋まってくれ。


 ここで先生が来た。

 すまんすまん、と小走りしながら、鍵穴に鍵を差し込む。


 がらがらっとドアを開けると、集まっていた生徒達が中に入っていく。

 僕のすぐ傍に居た彼女は僕のすぐ後ろをついてきた。


「えー、やってよ。私のモチベーションの問題だって」

「僕に褒められて上がるわけ? なんかそれ、僕がヤなんだけど」


 モチベーションが上がるって事は、つまり彼女にとってはプラスな事であって。つまり、僕は彼女の中でマイナスに荷担する存在ではなくて。

 でも僕の中で彼女は限りなくマイナスに近しい存在で。ってかマイナス同然で。

 僕の一言が嫌がらせになるのなら引き受けても良いけれど、違うのならむしろ嫌な気分になるのは僕の方だ。

 ってか、なに。僕、懐かれちゃってるわけ?


「ううん。誰に褒められても嬉しいよ!」

「……、」

「ん? なに?」

「……別に」


 じゃあ犬にでも頼んでろよ。事足りるだろ。


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