春川くん、振り回される。



 ◇



 2限の数学を受けていると、授業開始20分頃に問題児が来た。


 彼女が入ってくると先生は時計を見上げてから、また彼女に視線を向ける。


「25分前!セーフ!」

「わぁったわぁった。というか、お前上履きは手で持つもんじゃねーぞ」


 はぁい、とずぼらっぽい返事をしながら彼女はその場で上履きをはき始めた。指定の鞄を持ってきているし、多分教室には寄らずにそのまま来たのだろう。


 上履きを履いた彼女は僕の横に座った。今日は来ないと思ってここを選んだんだけどなぁ。


 彼女は鞄から筆箱を取り出す。たったそれだけなのになんでか騒がしい。鞄の中が少し見えたけど……汚っ。

 女子なんだよね?

 驚きのあまり彼女を思わず見ていると、ふと視線が合った。

 寝癖なのか髪の毛が少し乱れてる。

 女子なんだよね?


「ねぇねぇ、教科書見せて」

「……え」


 言うと彼女は返事も聞かずに机をくっつけてきた。


「持ってきてないわけ?」

「教室にあるよー」と言いながらまた鞄を開けて、今度はルーズリーフを取り出した。


「取りに行けば良いじゃん」

「今どこやってんの?問3?」

「ちょっと」


 彼女は今度僕のノートを覗いた。

 確かにそこには問3の問題が書き写してあるし、黒板にもその問題だけ書き写されている。

 彼女は芯をだすと、シャーペンを変な風に握りながら彼女は僕の左側にある教科書に顔を近づけた。僕は仕方なく仰け反りながら、彼女の方に教科書をもっていった。

 2つの机の間に置くと「ありがとー!」と笑った。廊下でみかけるあの笑みだった。それから彼女は舌を舐めるようにして問題に取り組み始めた。

 特進でもないのに、この問題がとけるものか。


 視界の右側にずっと人の気配がある。それはなんか落ち着かない。

 それにこの席は左端だから、中央を見るには少し視界を右に傾けなければいけない。そうすると、どうしたって彼女が視界に入ってくる。

 邪魔だし、気が散る。

 問題が解き終わったら離れてもらおうかと思い、僕は彼女の進行速度を盗み見た。

 変な持ち方をしたまま、彼女はカリカリと数式を解き明かしていく。筆算が必要な数式に当たると、芯先が僅かにルーズリーフから浮き、空中で筆算を組立てていた。その時間はほんのわずかで、芯先はまたすぐに式を連ねていく。


 気持ちが良いほどスムーズだった。

 その速さに見とれていたのか、あ然としていたのか、度肝を抜かれていたのか。気付けば彼女が全部解き終わるのを見届けていた。


「ねぇねぇ」


 シャーペンの頭で彼女は僕の腕を軽くつつく。


「今日、どこから始めた?」


 彼女はいつのまにか机の下で上履きを脱ぎ捨てていた。周囲に上履きと鞄が散乱している。結んでいる髪の毛もとりあえず束ねているだけであって、整えられていない。制服も正しい着方をしていない。

 そんな彼女の目が輝いているように見えた。


「どこからどこから?」


 僕が返事をしないでいると、彼女がまた腕をつつく。

 騒がしいな。僕は静かにしてもらうためにもその質問に答えた。

 教科書を1ページめくり、やった問題を指さす。彼女はそれをみながら、手元を見ずにルーズリーフに数式を写す。もちろん斜めってる。ノートも汚い。


「ありがとー!」


 ……一つ分かったこととしては。

 彼女は話をするときは決まって人の目をみる、ということだ。

 女の子らしい大きな目。

 数学が好きなのか、彼女はずっと楽しそうだ。


 さらさらっと先ほど写した問題を解くと、「答えは答えは?」と今度は僕の腕を左手で揺さぶった。気軽に触らないで欲しいんだけど。

 やはり彼女は騒がしい。

 僕は黙ったまま自分のノートを捲り、答えが書いてあるところを指さした。

 彼女が身を乗り出して覗き込む。これ以上親切にしてやる義理はないかと思い、僕は特にノートを彼女の方に向けたりはしなかった。


 覗きながら「お?」とか「ん?」とか「なるほど!」とか彼女が呟く。

 今丁度先生が喋ってるところだから静かにして欲しい。


「煩いんだけど」と僕が小声で咎めると、「ごめん」とすぐに謝って、彼女は自分の口を手で覆った。そこまでしろとは言ってない。


 僕のノートに用事がなくなると、彼女は浮かせていた腰を椅子におろす。

 そして今度は黒板を注視した。問3の答えが書かれている。




 授業終了のチャイムが鳴る。

 ノートと教科書を重ね、その上に筆箱を置いて立ち上がると、今度は少し強めに制服の腕部分を掴まれた。

 彼女はまだ座ったまま、ルーズリーフと見つめ合っている。座り方は非常にだらしない。ぴったりくっつけろとは言わないけど、もう少し足閉じたら?女子でしょ。

 片足は前方に蹴飛ばされた上履きにつま先だけを入れ、上下に揺らしていた。


「なに」


 冷たく聞く。


「ここの問題さ、別の解き方ない?」

「は?」

「ここの式を――」


 説明しながら、彼女は立ち上がって僕にノートを見せつけてきた。

 そして舌っ足らずな喋り方でつらつらと説明を始める。

 箇条書きのような説明なので分からないことはないけれど、まずなにより彼女の数式が汚くて読めない。


「――って思うんだけど、どう?」


 と、またこちらをみてくる。

 字の汚さはともかく、彼女の言うことは十分面白かった。

 僕は今彼女が言った数式を脳内で組立てた。先生の説明ではないけれど、でもそれも成り立つかもしれない。


「確かに――」

「だよね!せんせー!」


 彼女は僕の言葉を最後まで聞かずに、教室の鍵を閉めるために残っていた先生の元へ駆け寄った。そしてさっき聞かせた説明を黒板に書き始める。

「ここをこうして、こうなるでしょ?」そう言いながら一々先生のほうを振り返る。小学生みたいだ。もう高校生なんだから、馬鹿みたく見えるよ、それ。


 僕は忘れ物がないか、自分の席を確認した。


 何も残っていない僕の机。それにくっつけられた彼女の机。まだその上は散乱している。上どころか周辺すべてが散乱している。

 いなくなる席と、まだいる席なのだから当たり前だ。

 けど、ひどく対比的に映った。

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