風岡さん、発見する。
◇
「……珍しい」
私は部室に入るなり、思わずそう呟いていた。
いつもは読書ばかりの幸村が、なんと、ケータイを弄っていた!――だったらどれほど面白い話だったか。
そうではなく。
いつも読書ばかりの幸村は、今日に限って数学の問題集を開いていた。
普段優等生のような、といったら語弊があるけれど何を考えているのか分からないような、もはや鉄仮面に近い澄まし顔をしているのだが、今日は不機嫌そうに顔を歪めていた。
そんな顔で問題集と向き合っている。
「何やってんのー?」
「あ?」と返事にも満たないような反応をしてから、幸村は開いていた問題集の表紙を見せてくれた。
私のクラスも使っている問題集だった。
「テスト勉強?」
「他に理由があるかよ」
「あるでしょ。宿題が出てるとか」
「ンなもん家でやるわ」
「ってか、今日……というか今週部活オフだけど、なんでいんの?」
「そっくりそのまま返す」
幸村は問題集の後ろの方を捲った。そこには解答が載っている。
別冊でちゃんと解答集というものがあるのだけれど、問題集の方にも解答だけのっている。
幸村はそれを見ながら眉間に皺を寄せ、鞄の中から例の解答集を取りだした。
ヤツは一応優等生ということになっている。一応――というのはちょっと言い方が悪いかもしれないけれど。あくまでも優等生で通すなら、それなりに勉強が出来ないといけないという理由もあるのかもしれないけど。でも根が不良ならここまで真面目に勉強はしないのでは? 偏屈かもしれないけど。
ご苦労なことで、と他人事に思いながらも少し同情。
「でも、確か幸村って数学苦手じゃなかった?」
「あ?」
「張り出される順位表で、現国とかは割と名前見るけど、理系教科じゃあんま見ない気がして」
「偶に物理は乗ってんだろ」
「私より下にね」
「嫌みな女」と舌打ちをされた。
言い方はそうなってしまったけれど、得意教科故にこればかりは譲れない。成績にはそこまで興味は無いけれど、物理だけは1位取ってやるって思わないこともない。
だから、文系教科で上位に名を並べている幸村にその教科で負けたとなれば、心中穏やかではいられない。丑の刻参りでもしたい気分になるわ。
「……ね、幸村、今手空いてる?」
「眼科行け」
正面に座りそう尋ねると、殺す勢いで睨まれた。目つき悪すぎ。子供なら泣き喚くわ。
そんな幸村は解答と自分の答案を見比べ、赤ボールペンでなにやら数式を書いていく。しばらくにらめっこを続けていたが、そのうち幸村はそのボールペンを突き放すように手から落とした。
私はその隙を逃さずに少し身を乗り出して、再び声をかける。
「今、手、空いてるわよね?」
奴はうざったそうにため息のような息を吐きながら、空いた手をぷらぷらと振った。
「だったら何だよ」
「よく聞いてくれたわ!」
「目で聞けって脅しといてよく言う」
ちょっと何言ってるのか分からない。目力強いね、とはよく言われるけど。
そりゃ私、おめめ大きいし。まぁ仕方ないわよね。
私はファイルの一番上にしまっていたA3版のプリントを幸村の顔の前で広げた。
幸村の目がそのプリントに動き、また私の方を見る。
「これが、何だよ」
「分かんないから教えて」
「はぁ? お前アタマ良いだろ、自分でやれ」
「日本史は無理。こればっかりは小学生の頃から無理なの。綱吉とか家綱とか横綱とか、もうお手上げよ」
「みてーだな。横綱ってなんだよ」
「知らないの? お相撲さんよ」
「知ってるわ。分かってんなら混ぜんな」
しかも範囲そこじゃねーし、と幸村はプリントを指さしながら呆れたように頬杖をつく。そしていつも以上に力の抜けた目をして、ため息をつかれた。ひどく心外だ。けど、そんな反応をさせてしまうほど私の日本史はひどい。
だって、仕方ないじゃない。歴史で出てくる暗記事項って、圧倒的に数学の公式より多いわけでしょ? 私に言わせればなんで分かるのか、疑問でしかない。
実は頭の中になんか記憶力あげるための装置とかいれてるでしょ。
「数学教えてあげるからお願いっ!」
「お前に教えてもらわなくても間に合ってる」
一人で路頭に迷ってろ、と冷たく言うと、数学のセットを片付け始めた。
そしてそれを鞄にしまう。
もう帰るのかと思ったが、幸村は鞄からいつも通り文庫本を取り出した。
「ほんと、一生のお願い! 物理教えてあげるから」
「そっちも間に合ってるわ」
私は意を決して、本を掴む幸村の手を大きく揺さぶった。
これは流石に、やってる私でも煩わしいなって思う。けど、それぐらい必死だった。もう中学の頃みたいに赤点すれすれの点数なんて取っていられないし。
しかもこのプリントは、先生が授業中にわざわざテスト対策として配ってくれたもので。「点数取りたければやっておけよ」と念まで押されてしまった。
がくがく。ゆさゆさ。とひたすら揺すっていると、「うっぜェ!」と手を払われた。
「じゃあ俺が埋めてやるわ、よこしやがれ!」
「それに何の意味があんのよ! アンタはこれやんなくたって良い点とれるでしょ! いいの!? 同じ部員がお馬鹿扱いされても! 同類に見られても知らないからね!」
「どんな脅しだ!」
幸村は勢いよく文庫本を閉じると、鞄から日本史の教科書を取り出した。
その投げるモーションを見た瞬間、私に投げられるのかと思ったが、そんなことはなかった。バシン! といい音がして、その教科書が机に叩きつけられる。
「それ見てやってろ!」
「すっごい付箋だらけ! 線も引いてある! えっ、資料集のページまで書込んであるじゃない! やっるぅ!」
「どこ注目してんだよ!」
返せコラ、とか言われたけど、貸しといてそれはない。
貸して、秒で返せってどう考えてもおかしいから。短気なんてレベルじゃないから、それ。
私は幸村の教科書を開いて、椅子に座って、シャーペンを握る。
今ならどんな問題でも解けるような気がした。もちろん、気がしただけなんだけど。
範囲のページを開いて、私は問題文と教科書を見比べる。
私が持ってる教科書と中身は同じはずなのに、何倍にも分かりやすく思えた。もちろん、思えただけなんだけど。見やすいのは事実なのだけれど、私が理解できないのはもはや文そのものの方だ。
「風岡」
低く、落ち着いた声でそう呼ばれ、私の目の前にノートが一冊出された。
どこにでも売ってる量産型の有名なノート。
表紙には『日本史』と『幸村薫』という文字がネームペンで書かれていた。雑といえば雑だけれど、でも読みやすい字だった。なんでだろう。とめはねがしっかりできてるからかしら。
「……え、どうしたの急に。優しくない? おかしいわよ?」
「ぶっ叩くぞ」
私は押しつけられるようにそのノートを受け取った。
……いや、幸村には悪いけどここまで真面目に勉強する気は正直ない。それが顔に出ていたのか、「そっちの方が見やすいだろ」と早口気味に付け足された。
自分のノートが見やすいだなんて意外と自意識過剰なのね、って言ってやろうとしたが、私は悔しくもその言葉を飲み込んだ。
走り書き気味ではあるけれど、読みやすい字でまとめられたそのノートは、確かに教科書を見るよりはずっと分かりやすい。
むしろ、プリントよりもこのノートが欲しい。そう心変わりするぐらい良質なものだった。
「……もしかして、なんか企んでる?」
「は? お前と一緒にすんな」
幸村はそれだけ言うと、端に避けていた文庫本を再び開いた。
ちらりと、その背表紙に書かれているあらすじを私は目で追った。
いまいちよく分からなかったけど、その分からなさが教えてくれた。
奴が呼んでいたのは歴史小説だった。
「……どの時代が好きなの? 源氏物語とか?」
「お前俺をなんだと思ってんだよ」
だれがあんなん好むか、とか言われたけど、多分それ源氏物語ファンに殺されかねない発言だと思う。私も正直好きではないけれど。
文章が綺麗だと言われても、文系が出来ないので古典は読めないので同意はできないし。
「やっぱり、有名な幕末とか? 新撰組とかどうよ?」
聞くと、幸村は一番初めのページを開いた。
序章と書かれたそのページの初めの台詞に、「池田屋」という言葉が出ていた。
恥ずかしながらそこで何が起きたのかは詳細に話せないけれど、それが何なのかは私も知っていた。
「面白い?」
「別に」
なんて幸村は言ったけど、その口元が僅かに綻んでいるような気がした。
この男なら、「面白くなかったら読まねーだろ」とか言いそうだしね。
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