第1戦

永町さん、教える。


 ◇



 5月下旬。

 制服にもそろそろなれてきた頃。

 この時期はどの学校も多分中間試験が始まることなんじゃないのかと思う。

 高校に入り初めての定期試験。中学で既に経験済みなはずなのに、私は妙に緊張していた。


 テスト開始3日前。

 いつもなら部室に行く曜日だけれど、1週間前から部活はない。

 なので放課後、私はすぐに家に帰ろうとした。


 教室から廊下に出ると、廊下掃除をしていたクラスメートに「委員長」と呼び止められた。総務委員になってしまった以来、私の渾名はそれで安定しつつある。


「もう帰るの? 委員長」

「うん、部活もないから」

「今日の放課後って、もしかして忙しかったりする?」

「え? いや、そんなことはないけど……」


 することと言っても、弟たちの面倒を見るかテストの勉強をするかしかない。


「お願いっ! 数学教えて!」

「えっ!?」


 いつの間にか、私は3人のクラスメートに囲まれていた。

 みんなして手を合わせて私に頭を下げている。私はそれに気付いた瞬間慌てふためいた。


「教えてといっても、私教えるの上手くないけど……」

「大丈夫! 絶対そんなことないから! お願い!」


 ジュースおごるから!と再び頭を下げられる。

 ここが廊下なせいで、通りがかる人々が一度は不審そうな目を向けてくる。


「分かった! 私でよければ」


 折れたように私が言うと、3人はハイタッチをして露骨に喜ぶ。


「委員長、確保!」


 私は背を押されたり、腕を優しく引かれたりして教室に押し戻された。

 そんなことしなくても別に逃げたりしないのに。なんて思いながら私は多分笑ってたと思う。




 ◇



 その日、教室に残ったのは私が思っていた以上に多かった。

 クラスの半分くらいは残ってたんじゃないかと思う。

 集まって勉強会をしている、というのが職員室にまで届いたのか、数学担当の先生が顔を出しに来てくれた。


「にしても、意外だな。まさか、氷上まで残ってるなんて」


 教卓に座っていた先生が、教室の一番後ろを見ながら茶化すように笑った。

 氷上――氷上勇士。

 入学したばっかりなのに、他校生と暴力沙汰を起こして謹慎処分になった生徒。

 入学したての頃は、少し怖い人なのかと周囲から浮いていたが、その事件以来少しではなく、かなり怖い人認定をされた。

 先生達も、生徒とはいえやはり暴力をする生徒には強くものを言えないらしく、あまり馴染めていなかったのだけれど、小さなきっかけからそれが誤解なのではないのかと周囲が気付き初め、今は少しずつクラスに馴染んでいる。

 確かに口は悪いけれど、でも話してみると気さくで愉快な人だったりする。私はそこまで関わったことはないけれど。

 総務委員で提出物を回収したぐらい。


「だって、謹慎中でめっちゃ授業進んで、もうワケわかんねーもん」

「だっても何も、お前が悪いんだろ?ほら、ちゃっちゃと問題解く」

「えぇ……」


 情けない声を出しながら、その人は机に突っ伏す。


「永町、悪いんだけどあいつの相手してやってくんね?」


 女子のクラスメートに教えていたところ、不意にそう言われた。

 あいつ、そう言いながら指さすのは力なく項垂れた一番後ろの生徒だった。


「でも……」

「大丈夫、いきなり手ェ出してくるような奴じゃないことだけは確かだから」

「……いや」


 それは別に怖いと思っていないのだけれど……。

 けど、先生は何度も大丈夫を繰り返した。

 そんな教卓の近くには列が出来ている。みんな教えてもらうために並んでる。


 問題児とはいえ、やはり見過ごすことは出来ないのだろう。

 それは私も同じだった。


 手が空いた私は、伏せていた彼の肩を軽く叩いた。

 机の上には一応教科書とルーズリーフが置かれていて、伏せているとは言いつつもその手にはシャーペンが握られている。


「ん?」と顔を上げた彼は、予想外の人物が傍にいたからなのか面食らった。


「私でよければ教えるわ。どこか分からないところある?」


 体して話したことのないクラスメートにいきなり声をかけられて、戸惑わせたりするんじゃないのか。なんていうのは杞憂だった。

 彼は教科書をぺらぺらとめくり、私を見上げた。


「全部」

「ぜ、全部?」

「分かるとこの方が少ねーわ」


 一瞬あ然としてしまったが、でも無理も無い話だ。

 彼が謹慎を食らったのは割と序盤の話で、その頃、数学では基礎問題を取り扱っていた。基礎が分からなければもちろん応用は出来ないし、発展問題に関してもいうまでもない。


「分かった。そっちがよければとことん付き合うわ」


 マジかよ! 神じゃん! と手を上に上げた彼に「大げさすぎ」と笑いつつ、私は近くの椅子を拝借した。


「ん、はい」

「え?」


 差し出されたシャーペンを見ながら、私は首を傾げる。


「あ、いらねェ? あったほうが便利かと思って」


 私はブレザーの胸ポケットにシャーペンが入っていたけれど、あえて彼のシャーペンを借りた。

 私がそのシャーペンを右手に持ち、少し眺めていると、いつの間にか目の前にルーズリーフが1枚置かれていた。


「いきなりで悪ィんだけど、こっから頼める?」


 彼がとある問題を指さす。

 まだページ数が二桁にも満たない、まだまだ序盤。初歩の初歩。


「もちろん」


 私は軽く袖を捲って、大問1の括弧1の問題をノートに写した。

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