第26話 最後のキャンセル
山を降りた僕は、まるで亡霊のように住宅街をさ迷い歩いた。
僕はおそらくこのままではみぞれに通報されて警察に逮捕されてしまうだろう。何だか全ての道が閉ざされているような気がした。そう、僕はもう詰んでいるのだ。
「まぁ、でもうまくいったと言ってもいいのかな……」
少なくともみぞれの命は救うことが出来たのだから。
僕は二年前、彼女と知り合いでもなんでもなかった。それにも関わらず彼女を殺した犯人が僕の中学のときの担任で、その微かな繋がりから彼女を救うことが出来たのだから、これは本当に奇跡的と言ってもいい出来事だ。
「……」
僕はその時、頭の中にかすかな違和感を覚えた。
そういえば最初、みぞれが優奈のキャンセルによって消されてしまったとき、僕はその根本的な解決方法として、事故で死にかけていた宮野先生を助けたことをキャンセルして宮野先生を死なせ、殺人事件が起こらないようにしようとした。でもそれは叶わなかった。その理由はその時、あれは先生の勘違いで、本当は僕は先生を助けてなんていなかったからだと思っていた。助けた事実がなければキャンセルなど出来るはずがないからだと思っていた。
でも、もし先生の言っていたことが本当だったとしたら?
先生の言うことが正しくて、僕は本当に先生を助けていたのかもしれない。しかし僕にはそんな記憶はない。
これは僕の記憶と現実に食い違いが発生しているということだ。そしてこういう食い違いはキャンセルをやったときに起こることだ。
「もしかしたら僕はずっと昔からキャンセル能力を持っていたんじゃないか……?」
僕は最初、僕の記憶どおり先生の瀕死の姿を見て逃げ出してしまった。しかし、それを後悔した僕は無意識のうちにその行動をキャンセルしてしまった。僕は逃げることなく先生を助けてしまった。
僕が先生を助けたことをキャンセルできなかった理由はもしかしたらそれかもしれない。既にキャンセルしていて、その時間は自分が体験していないものになってしまっていた。だからきっとキャンセルが出来なかったのだ。
「僕はキャンセルによって先生を救ってしまっていたのか……」
先生が死んでいれば当たり前だがみぞれも優奈の兄も殺されることなんてなかったはずだ。僕と優奈が恨みあいキャンセル合戦をして殺しあうこともなかった。
「はは……つまり全ての原因は僕にあった。キャンセルの能力にあったっていうのか」
この力さえあれば僕は最高の人生が送れると思っていたのに。結局そのチカラによって僕は多くのものを失っていた。これでもかというくらい苦しめられていた。なんという皮肉だろう。
「なんとか出来ないのか。キャンセルしてしまった部分を再び変えることは出来ないのか」
あの時宮野先生を何とかして助けなかったことにしてしまえば、彼を死なせてしまえば全ては解決できるはずだ。
しかし、僕に出来ることは自分が体験したことをキャンセルすることだけだ。宮野先生を助けてしまったことはキャンセルした結果だ。僕が体験しているわけではない。キャンセルしたことはキャンセル出来ないのだ。
「だとしたらどうしたらいい……」
その事実をなくす可能性があるとしたら、更にその前のことをキャンセルすることか。たとえばその日出かけたことをキャンセルすれば僕は宮野先生に会うこと自体がなくなってしまうはずだ。そうすれば彼は助からなくなる。
しかし、その時僕は小学二学年だったはず。この能力はその時のちゃんとした記憶がなければ発動は出来ない。彼を助けなかった記憶は強く残っているが、その日の詳しい行動なんて今更思い出す事は出来ない。しかもその歳ではまだ日記なんて書いていなかった。
「……何でもいい。それに影響することをキャンセルすればいい」
だが、何がそれよりも昔だったのかもよく分からない。
「意外に思い出せないな……自分が当時にした選択なんて……」
思い出は色々と思い浮かぶが、それは別に何かを決断したような記憶ではない。たとえば遊園地に遊びに行った記憶はあるが、遊園地に行くか行かないかを決める瞬間の出来事なんて全然記憶にないのだ。
それに小学校の時に決断したことで僕は自分の人生を変えられるだろうか。当時僕は何だかんだで親の言うとおりに行動していた。どこかに行くときだって別に僕が決めていたわけではなかっただろう。
何か重大な決断をそれ以前に僕はしていなかったのか。今でも鮮明に思い出せるほど重要で未来を大きく変えるような決断は……。
「ひとつだけあるな……」
そうだ、僕は小学一年生のとき一つ大きな選択をしたのだった。それは父さんと母さんが離婚する時だ。僕はその時どちらについていくかを二人に迫られた。それは僕の人生において大きな決断であり、しかもその時のことはきちんと今も記憶にある。その時の決断、つまり母さんについていくということをキャンセルしてしまえば、当然人生は大きく変わり、宮野先生とあの時出会うこともなくなるだろう。
「でも……」
それは本当に僕の人生を大きく変えすぎてしまう選択だ。父さんについていけば住む場所が変わってしまう。今だって通う高校が変わってしまっているが、そんなことをしてしまえば小学校も中学校も変わってしまう。今の知り合いがほぼ全員他人になってしまうだろう。本当にそれでいいのか……?
キャンセル後の人生がどんなものなのかまったく予想がつかない。僕はもう一人の僕が歩んだ人生を受け入れるしかない。それに一度キャンセルしてしまえば小学一年生から今までのことをもうキャンセル出来なくなってしまうということだ。もうそれは今から過去のことを完全にキャンセルできなくなるのと同意だろう。
「……まぁ、それもいいかな」
たぶんどんなに変わっても今より悪くなることはないように思える。このままでは僕は殺人犯として警察に捕まってしまうのだから。
それにこれは僕から始まった事件だ。なら僕が終わらせないといけない。
「よし……」
何だか一度覚悟を決めると少し心が晴れた気がした。
しかし覚悟を決めたとは言っても少し心残りはある。あの離婚時のことをキャンセルするとなれば、もうおそらく母さんに会うことはなくなってしまうのだ。あの家に帰ることもなくなるだろう。僕はそこから自分の家に向けて歩きだした。
自分の家の前についた時、日が昇り始めた。山の向こうから僕の目を焼くような強い光が差し込んでくる。せっかくここまで来たわけだけれど、母さんを起すことはやめておこう。こんな血で汚れた姿、見せたくはない。
「さようなら……母さん、みぞれさん。僕に関わってきた全ての人達」
僕は一度深く息を吸い込んで言った。
「キャンセル」
その瞬間、急激に重力が掛かる方向が変わった。どうやらキャンセルは成功したらしい。
この感触はふとんの中だ。一体どこに飛ばされてしまったのだろうか。きっとここは僕の知らない場所なのだろう。そう思って僕は体を起して周囲を見回してみた。
「え……?」
しかしそこはどう見ても先ほど外から見ていたはずの自分の家、自分の部屋だった。家具の配置などは違っているが間違いない。
「な、なんで?」
本当にあの離婚時の決断がキャンセルされたのだろうか。キャンセルされたのだとしたら、僕がこの家にいるはずなんてないのに。僕は父さんと一緒に遠い街で暮らしているはずなのに。
その時、誰かが階段を上ってくる音が聞こえてきた。自室のドアが開かれる。
「ハジメ、休みだからっていつまでも寝てちゃ駄目よー。ってあら、もう起きてるのね」
そこから姿を現したのは、もう会うことはないと思っていた母さんだった。
「か、母さん……!?」
「ん……? どうかした?」
「い、いや……」
「ごはんもう出来てるわよ。下りてきて」
「あ、あぁうん……」
これはどういうことだろうか。僕は父さんについていったんじゃないのか。
もしかしたら、あの選択のことなどどうでもよかったのかもしれない。僕が何と答えようが結局僕は母さんとこの家に住むように誘導されていたのかもしれない。
僕は部屋を出て階段を降りながら考えた。
だとしたら、これはマズいのかもしれない。僕は結局何も変えられていないのではないか? 僕は宮野先生を助けてしまっているのかもしれない。そしてみぞれか優奈の兄、どちらかが殺されてしまっているのかもしれない。もう僕にはこれ以上過去を変えることは出来ない。もしかして僕は判断ミスによってみぞれを死なせてしまったのか。
僕はそんな大きな不安を抱えながらリビングへの扉を開いた。すると、
「え……」
ダイニングテーブルの前に腰をかけている男の姿が目に入った。あれは間違いない。僕の父さんだ。父さんは椅子の上で足を組んで新聞を広げていた。
「な、なんで父さんがここに!?」
僕の言葉に父さんは怪訝そうな顔をして僕を見た。
「は? 一体何を言っているんだお前は。父さんが家にいちゃ悪いことでもあるのかぁ?」
「い、いや……べ、別にそういう訳じゃないんだけど……」
「……変なやつだな」
父さんはまた新聞へと視線を戻してしまった。一体どういうことだ。一体この世界はどういう状況にあるのだ。
そうだ、困ったときの日記頼りだ。僕は朝食を済ませ自室に戻ると自分の日記に目を通し始めた。どんどん過去に遡っていく。もしかしたらこんな風になってしまった理由が書かれているかもしれない。
「これか……」
僕は発見した。今の僕が知らない自分の過去を。
それによると僕は父さんについていったはいいが結局殴りあいの喧嘩にまで発展してしまったらしい。しかし、結局それが功を奏したようで母さんの家へと戻ることになったようだった。
それは中学生一年生の時の話だった。パラパラと日記をめくっていくが宮野先生に関する記述はない。僕は小学校一年生の時に父さんと引越しをして、宮野先生と出会うことはなかったということだろう。おそらく僕に出会わなかった宮野先生は今この世にはいない。あの交通事故で死んでしまったのだと思う。
僕はふと自室の壁を見た。そこには僕が元々通っていたはずの高校の制服が掛かっていた。どうやら結局僕は今同じ高校に通っているらしい。
これは全てがうまく行っているのかもしれない。僕は現状確認のため、更に日記を読み進めていった。
大方の日記を把握し終えた頃、家のチャイムが鳴った。その数分後、母さんが僕の部屋へと上ってきた。
「ハジメ、お客さんが来てるみたいよ」
「え……?」
「クラスメイトとか言ってたけど随分かわいい子だったわね。あの子どうしたの?」
その瞬間僕の頭に警報が鳴り響いた。これはおそらく優奈だ。彼女は殺して埋めたはずだったが、僕の最後のキャンセルによってそれがなかったことになり復活したのだ。
彼女はもちろんその記憶を引き継いでいる。あの殺しあった記憶を。
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