32話:約束、献身、祈り

 クロがいなくなって、ひと月が過ぎた。


「……」

 カーテンの隙間から入ってくる太陽の光は、今日も朝から元気だ。毎朝同じ時間に叩き起こされていたせいで、何もなくとも朝一番に目が覚めるようになってしまった。


「んんー……。ごはんごはん……」

 ぐぐっと一つ伸びをして、もぞもぞと布団から出る。ふわあとあくびをしながら台所へむかい、一昨日の晩の残りの肉じゃがを火にかける。一人暮らしだと、鍋物一つ作ったら結構もつよね。作るのもそんなに手間じゃないし、一回作っちゃえばあとはあっためるだけだし。


 最近あたしの部屋からは、カップ麺がなくなった。


 ぼりぼりと腹を掻きながら、肉じゃがに火が通るのを待つ。

「今日何の授業だっけ……」

 早起きや料理を覚えても、相変わらずそういうことは覚えていない。適当に朝の情報番組をつけると、昨日の事故の話やパンダの子供が生まれた話、政治家の不始末などをごった煮でやっている。


 そういえば、クロがテンシとやりあったあとは、いつの間にか何事もなかったように戻っていた。ひどく地面がめり込んでいたり、彼や彼女たちの血で濡れていたはずの惨状は、彼女たちが消えるとともに元通りになっていた。

 それに、あの時はぶっ倒れた彼が目を覚ますまでオロオロしていたので気が回っていなかったが……あれだけ派手に立ち回ったというのにまったく騒ぎにならなかった。建物の裏とはいえ平日の大学だ、目撃者なんて数えきれないほどいそうだけれど……何か人間外の力が働いているのだろう。


「よいしょ、っと」

 頃合いを見計らって炊飯器からご飯をつぎ、肉じゃがと一緒にテーブルに置く。


「いただきます」


 一人で食べる時もいただきますと言うようになった。別に親に感謝していなかったわけではないが、身近な他人にご飯をつくってもらうことで、改めて料理のありがたさが身に染みたのだろう。

 しゃばしゃばの肉じゃがをもぐもぐと食べながら、カフェ特集でレポーターがコメントしている様子をぼんやり眺める。


「へえ、意外とシック感じなんだ」

 生まれてこの方カフェーなんてお洒落な場所に行ったことない。あれ、昔彼と二人で一度だけ入ったっけ……いや、あの時は確か、二人ともそのお洒落空間に怖気づいて、結局いつもの喫茶店に行ったんだったか。どっちかっていうと『カフェ』って感じのお洒落できゃぴきゃぴしたところよりも『喫茶店』って感じのシックで落ち着いた店の方が好きなのだ。


「喫茶店といえば……」

 部屋の片隅に積まれている雑誌や地域だよりの中から一枚のチラシを引っ張り出す。それは新装開店した喫茶店の広告で、近所のようだったのでなんとなくとっておいたのだ。といっても、もうずいぶん前のものだが。

 いつかクロが、ああいうところのカウンターでコーヒーを飲むのが憧れだ、なんて言ってたっけ。そのうち連れてってあげるよって言ったけど、そのままになっちゃったな。


「あーあ……」

 食事を終え、まだ家を出るまで時間があるので布団に倒れ込む。料理はするようになったが『食べてすぐ横になると牛になりますよ!』と言ってあたしのおなかを小突く世話好きがいなくなったせいで、以前にもましてぐうたらが目立つようになってしまった気がする。


 クロのおかげで、あたしと彼はよりを戻すことができたし、その後の交際も順調だ。はじめは、互いに相手の事を信じきれなかったというばつの悪さと大見得を切った恥かしさから多少ぎくしゃくしていたが、そういうのもなんだか嬉しかった。今では前と同じように、いや前より深く愛し合っている。


 クロに世話をしてもらって引きこもっていた時の影響で、ずいぶんとだらけた人間になったあたしに少し驚いていたが、

『最近のキミはすこしきらびやかすぎてね。いや、僕のためにしてくれているというのはわかっているんだけど、なんというか……気後れしてしまって。そのくらい気を抜いてくれた方が僕も緊張しなくて助かるよ』

 などと笑っていた。


 それでも、まだ同棲はしていない。大学生のうちはまだ早いという気持ちもあるけど、なんとなく、この家をそのまま置いておくことで、クロが帰ってくるような気がしているからというのも、少なからずある。


 そのことは彼にも話した。あたしの中のこのどうしようもない気持ちはきっと隠し切れないし、今なら隠す必要もないと思ったから。彼は『キミの命の恩人なんだ。僕だって喜んで受け入れるさ』と言ってくれた。『僕だってあの子に、どういう気持ちを持っていたかわからなかったんだから』と付け加えて。


 最初はクロやテンシの痕跡を探そうとしてみた。けれど、あれほど超常的な存在だったのに、いやだったからこそなのか、何の手がかりも見つけられなかった。唯一手がかりっぽいのは彼女が最後に見せたあの制服だが、少なくともこの辺りでああいった制服は見たことがない。ローラー作戦で全国の制服を調べることはできるが、そもそも実在するかもわからないし、やめた。



 彼女がその願いをかなえたあと、会いに来てくれることを信じて。



 *


 今日は彼と終業時間が合わなかったので、授業のあとなんとなく町をぶらついていた。いつもはさっさと帰るんだけど、今日はちょっと散歩してみたくなるような青空だったのだ。


「でも暑い……誰だよ散歩しようなんて思ったの……あたしか……」

 いくら古い町並みだからといって、こうもコンクリートやアスファルトに囲まれていては暑くてかなわない。


「レーコーでも飲みたい気分……」

 今朝カフェの話題を見ていたからか、そんなことをつぶやく。とはいえ、あたしはこの辺りの喫茶店事情をあまり知らない。喫茶店は、目立たないからこそ静かでいいのだが、いざ行こうと思っても場所を知らないとなかなか行きにくい。


 というかそうだ。今朝のカフェに行こう。あの喫茶店の場所をメモしておいたのだ。


「歩いてもそんなに遠くない……よね」

 一度家に帰ろうかとも思ったが、よく考えるとそれは本末転倒と気づく。

 汗をかきかき、知っている道と知らない道を行く。こんなところにお地蔵さまとか、この道はここに出るのかとか、道を一本違えるだけで、新しい世界に出会えるのは楽しい。


 クロと歩いた道に出るたび、彼女の事を思い出してしまう。

 彼女のために買っておいた時計は、結局渡せずじまいだった。小さな黒い懐中時計は、今もあたしのかばんの中にある。……いつ彼女と再開してもいいように、肌身離さず持ち歩いている。

 服を買う彼女の目を盗んでこの時計を選んだときは、ささやかなお礼とちっぽけな愛情の証のつもりだった。それがどんどん膨らんで、今では大きな愛のかたまりになって、あたしの心を縛り付けている。本当は彼女を縛る鎖になるはずだったのに、あの子がここに置いていったせいであたしが縛りつなぎ留められている。彼女という存在に。


 まったく、あんたは本当に悪魔だったよ。


「あ、ここかな」

 外見はとても落ち着いた雰囲気――というか新装開店のはずなのに、もう何十年もそこにあるような佇まいである。何故か古ぼけた看板に……Votum's(どういう意味だろう?)coffeeとあるが、それ以外の店に関する情報が一切ない。そのせいか店は閑散としているようで、経営は大丈夫なのかと心配にはなるが、まああたしにとっては都合がいい。


 初めての店なので、少し緊張しながら入り口の扉を開ける。半開きくらいで店内を覗くと、外見と同じように、華美な装飾はなく落ち着いていて、ほの暗い中に暖かさを感じる不思議な空間だ。あたしが昔彼と言っていた喫茶店よりかなり大人な雰囲気で、少し躊躇する。


「いらっしゃいませ」

 カウンターに立つ青年に声をかけられる。他に店員はいないようなので、彼がこの店のマスターなのだろう。若いとはいえあたしよりは一回りほど上だろうが、しかしこの店の雰囲気からすると、やはり若いという印象だった。


「お好きなお席へどうぞ」

 そう言われてしまうと入るしかなくなる。マスターの言葉に軽く会釈を返すと、席を探してそう広くない店内を見渡す。テーブルが数席とカウンターがあるが、やはり客入りは良くないようで、どこもがらんと空いている。


 カウンターの奥の方の席に、一人の少女がいるくらいだ。


 あたしは頭が真っ白になってその少女から目が離せなくなる。少女もあたしの方を見て目を丸くし、口もぽかんとあいている。おそらくあたしもそんな顔になっているのだろう。口をパクパクと動かし、なんとか彼女の名前を呼んだ。



「ク……ロ……?」



「あちゃー……」

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