31話:あたしの愛

「っ……」

 テンシが消えると同時に、糸が切れたように彼も動かなくなった。


「え、ちょ、ちょっと!」

「大丈夫です。先ほど送り込んだのはエネルギーだけなので、それを使って体を修復するために、眠りにつかれたのでしょう」

「そ、そうなんだ。よかった……」

 またさっきみたいになってしまうんじゃないかと思った。


「さて」


 クロが懐からとりだした懐中時計を見つめている。その立ち姿を見て、終わりが来たのだと悟る。


「……もう、いっちゃうの?」


 この関係に。クロとあたしの、この時間に。まだ夏も始まったばかりの、とても短くて、でもかけがえのないこの生活に、幕が下りる時が来たのだと。


「あなたに対する任務は達成されました。非常に心苦しいですが、次へ行かねばなりません。あなたのように苦しんでいる人が、他にもたくさんいるので」


 そっか、そうだよね。クロはあたしの心の傷を癒して、幸せにするために来たんだもんね。幸せになったあたしに、もうクロは必要ないんだもんね。


 ありがとうクロ。あたし今、幸せだよ。これからもっともっと幸せになるから、クロも頑張ってね。


 あ、そうだ。あたし、あんたのために時計を買っておいたんだ。動かない時計も大事だろうけど、ちゃんと動く時計も身に着けないと。時計は今を生きる証だよ。あんたに似合うと思って選んだからさ。帰りにちゃんと、貰って行ってよね。


 あたしからのお礼だよ。



「……………………やだ」



 言えなかった。言わないとと思っても、どれだけ口を動かそうとも、喉を震わそうとも。そんないい子のセリフ、あたしがクロと別れることを何とも思っていないようなセリフ、言えるわけなかった。


「やだ、やだよ! クロともうお別れなんていや! あんた、あたしの気持ち、とっくにわかってるんでしょ!?」


「はて、なんのことやら……」



「あたしの愛が、業が深いってわかってたもん」



「――」

 クロが少し頬を赤く染める。あたしはこれどころじゃないくらい真っ赤になっているのだと思う。


「だいたい、あんたが悪いのよ。人が弱ってるときにやってきて、美味しいご飯までもってきてさあ! あたし大好物なの、肉じゃが! わかる!?」

「いやちょっと文脈が崩壊しててわかりませんが……」

「わかれよ! いやわかってんでしょ!? だってあんたアクマだもんね! なんでもお見通し! それに顔赤いし!」


 ぐぬ、と言葉を詰まらせるクロ。ふぅ、とため息を一つ吐き、諭すようにあたしに語りかける。


「……そういう仕事なんです。弱っているところに付け込んで、懐柔する。だから『アクマ』なんて呼んでるんでしょうね。それに」


 こほん、と咳ばらいをして言う。


「彼氏さんの浮気には腹を立てたのに、自分がやってちゃ世話ないですね」


「…………お、女同士だから浮気じゃないし」

「最近はそういう性別の差とかをなくそうって意見が多いですよね」

「ぐっ……」

 性差の話をまさかこういう観点から攻められるとは。


「で、でも浮気じゃない! 浮気ってのは、ほかの人に気が移ることでしょ。あたしがこの人を愛して愛して愛しまくっているのは変わらない。でもそれとは別のところから、あんたへの愛があふれてやまないのよ!」

「むぅ……」

 どうだ! この国では結婚は一人としかできないけれど、愛は一人に限るなんて法律はないんだから!


「本当に、あなたの愛は業が深いようですね」


 えへへ、と年相応――今の姿にふさわしい、柔らかい顔になったクロが笑う。ああ、でも、なんでそんなに……悲しそうに笑うの。そんな顔で、そんなことを言うの。


「あのね、私には、好きな人がいるんです」


 ふう、とため息をついて、彼女はを語りだす。


「でもその人は、もうずっと眠ったままなの。……私のせいで」


 クロは再び、先ほど見ていた懐中時計をとりだし、あたしに文字盤を見せる。その針は、五時を指したまま動きを止めていた。


「これは……?」

「この時計は、人を救うたび――人を幸せにするたびに進んでいく。そして、この時計がもう一度十二時を指した時、私は再び彼と話すことができる。……そういう契約なんです」


 クロは口元をきゅっと結ぶ。以前彼女が、悪魔の契約とこぼしていたことを思い出した。クロは自嘲するような笑みを浮かべ、言葉を続けた。


「私が人を救うのは、結局は自分のためなんですよ。あなたのもとを訪れ、あなたと共に過ごし、あなたを幸せにすると誓ったことも、すべて自分のため。あなたの耳に心地よい言葉を並べ、あなたがしてほしいことをすることで、あなたからの信頼を得る。自殺寸前まで追い込まれて心が弱り切っていたあなたにつけ入るのなんてたやすいものでしたよ」


「……」


「あなたをを対象のもとへけしかけ、どう変化するか観察した。まさかあれほど精神的ダメ―シを受けるとは予想外だったけれど、今後の対処と解決への道筋を立てることはできた。途中テンシの介入を確認したため、計画を変更。最終的にテンシと交戦することをやむなしとし――」


「やめて!」

 淡々と、機械が報告書を読み上げるように言葉を連ねるクロ。それに我慢できず、あたしは静止の声をあげた。


「わかったでしょう。私があなたにしたことは、所詮私の欲望をかなえるため。そのための任務、仕事、作業でしかない。あなたが私に好意を持つのは当然です。だってそうなるようにしたんですもん。そうしないと仕事にならないから、そうしただけ。だから――」


「そういうことじゃない!」

 気づけばあたしは、彼女の頬を平手打ちしていた。勝手に動いた自分の手に少し動揺する。当然頬を張られたクロは突然の事に目を丸くしている。


「――痛いんですが」

 しかし、すぐにもとの硬い表情に戻す。それにまたあたしは苛立つ。


 あたしの言っているのはそういうことじゃない。ばかげたことをぬかすこのアクマに、もう一言かましてやる。


「あのねえ! あんたの目的が何だとか、自分のための行動だとか、そんなことどうでもいいの! そりゃあんたはあたしが言ってほしいことを言って、してほしいことをしてたんでしょう。でもそれの何が悪いの!? 突然現れて、あなたを救いますなんて言われても信用できないもん。あたしがあの扉を二回開くことはなかったもん! あたしがもう一度空を見上げることはなかったもん!」


 止まらない。あたしは彼にしたのと、もしかしたら同じくらいの熱量で叫ぶ。そうさ、そうだよ。あんたのしたことは、何も悪いことじゃないじゃない!


「自分の欲望をかなえるため? だから何? 無条件で、何の対価もなく人助けをするなんて、そんなの人間のできることじゃない。漫画や小説の話ならまだしも、そんなのはじゃない。それこそ、天使や神のすることだよ。自分のためって言われた方が、よっぽど信じられるし、人間らしいよ! それにね! それに……!」

「――」


 信用とか信頼とか目的とか欲望とか契約とか言葉とか任務とか、そんなことはどうだっていい。



「あんたの作ってくれた肉じゃがに、愛情がこもってなかったなんて言わせない!」


 あんな美味しいものを、愛情もなしに作れるわけがないのだから。



「……やれやれ。あなたは本当に」


「業が深いって? ふん。あんたも同じよ。ただの焼き増し、いや劣化コピーじゃない、こんなの。あんたがあたしのためにわざと言ってることくらい、今のあたしにはわかるっての」


「そう……でしたね。その通りです。いやはや私も、すこし詰めが甘かったですね」


 先ほどの嘲るような表情は消える。あたしの胸に一縷の望みが灯る。


「まったく、そういうことにしておいてくれたら楽だったのに」


 しかし変わって表れたのは、結局、別れを告げるために生まれてきた笑みだった。


「ごめんなさい。私は往かなければならない。悲しんでいる人がいるからじゃない。苦しんでいる人がいるからじゃない。私のため。再び彼と言葉を交わすため。そのために行くの。だから、あなたの愛は受け入れられない」


「………………そ、っか」


 そっか、そうだね。愛する人のためだもの。それじゃあ……仕方がないね。


 彼女が今度こそ本心から告げていることがわかる。わかってしまう。だってあたしは、クロのことを愛しているもの。……わかってしまうからこそ、彼女を引き留めることはできない。あたしが愛するクロが、愛する人のために往くというのなら、あたしはそれを引き留めることはできない。


 夏の雨はもう通り過ぎてしまったようだ。どんよりとした灰色の雲を、一筋の光が切り裂いていた。その光がクロを背後から照らす。あたしはまぶしくて目を細めた。


 光の中にいるクロはまるで――。


「綺麗……」

「こういうの、天使の階段、っていうらしいですよ」


 額に手をかざしながら空を仰ぐクロを見て、あたしは自然と、しかし今度こそはっきりと理解した。


「行くんだね」


 あたしは短い一言で。


「はい」


 クロはうなずく。いつものように。


「ねえ、もし」


「なんですか?」


 最後に一つだけ、聞いておこうと思った。


「もしあんたが役目を終えて、あんたの願いが叶ったら。そしたら、またあたしの世話焼きに来てくれる?」

「……やれやれ、そういうのはそこの彼氏さんにでも頼めばいいでしょう」

「この人、料理はからっきしなのよ。もちろんあたしも」

 膝の上でぐっすり寝ている彼の頭をポンポンと叩く。


「はぁ、まったく。……、料理くらいできるようになっていてくださいね」


「……やだよーだ!」



 笑おう。あたしもクロも、にっこり笑ってお別れしよう。



「彼氏さんと仲良くね。私がせっかく戻してあげたのに、別れたら承知しないからね」


「問題ないわ。あたしたちの愛は、二度と引き裂かれたりしない。一度だって引き裂かれたことはないんだから」


 もちろん、あんたともよ、クロ。



「ありがとう」


「こちらこそ」


 言葉は少なかった。でも愛は限りなくあった。



 そしてクロは、夢のように消えた。

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