29話:約束したよね

「――――――?」


 おかしい。いつまでたっても痛みが来ない。あまりの衝撃に木っ端みじんになって、実はもう死んじゃったのだろうか。


 ぽつり、ぽつり、と何かが頬にあたる。雨だ。先ほどの積雲が発達を続け、空を覆う積乱雲になったようだ。ぽつ、ぽつ、ぽつ、と次第に雨粒の量が多くなり、夏特有の通り雨へと変化する。


「……あ、れ?」


 雨粒が頬を伝う。あたしはまだ、生きている。何故?


「ぐっ……」


 ぼたぼた、と妙に生々しい音が近くからした。雨の音ではない。見ると足元に、血だまりができている。うわあと思って体をまさぐってみるけど、手のひらは赤く染まらない。



「あたしの、血じゃ、ない?」



 ――そんな。だとしたら。


「キミは……何を、して……るんだ」


「あ、あ――」


 その血だまりは、彼のものだった。


「そんな、どう、して」


「どうしても、くそも、ないよ……っ。キミは、幸せに、いき、なきゃ……」


「何!? わかんないよ、どういうことっ!?」


 わからない。ついさっきまで、あたしがグサッと刺されて、彼が涙ながらに本心を告げて、クロが無事に帰って……って、そういう話だったはずなのに!


「なんで、っ、わからないかな。キミは、はっ、優しすぎるんだよ、うっ、ぐうううっ!」


 絶叫とともに彼が膝から崩れ落ちる。テンシが武器を引き抜いたのだ。


「テンシは人間を幸せに、そう、幸せにしなくては、テンシは、わたしは……っ!? そんな、あれ、そんな、これは、しあ、死、幸せ、なんかじゃ――!?」


 血濡れた武器を見てテンシは錯乱している。羽の形は保てず、暴走するかのように噴出と消失を繰り返しており、自らの行いの矛盾に混乱し苦しんでいるようだった。


「ぐふっ、はぁ、っ。か、彼女は、テンシ、ちゃんはね、僕に、言ったんだ、あっ」

「なに!? 何を言ったの!?」


「僕ら、僕らが一緒にいたらっ、はぁ、はぁ、キミが、不幸に、なるって――!」


「え――?」


 あたしが、不幸になる?


 彼が、ではなく、あたしが?


 だから、だから――。


「だから、別れたっていうの!?」

「そう、だよ。だって、キミを、キミを……!」


 愛しているからと、彼はとぎれとぎれの声でつぶやいた。


「あたり前だろ、キミが不幸になるとわかっていて、どうして僕が、一緒にいるっていうんだい……」


 それは、つまり――。


 つまり、あたしたちは同じことを考えていたのだ。愛しているからこそ、相手の幸せを願って自ら身を引こう、と。


 馬鹿なことだ。まったく馬鹿なことだと言える。クロの言う通りだった。愛しているからこそ、ともにいることを願わねばならなかったのに。


「バカ! ばかばか大馬鹿やろう! どうしてあたしとおんなじ考えに陥るのかな! このばか!」

「……」


 彼はもう言葉を発せないほどに弱っているみたいだった。でもだめだ。彼をつなぎとめるために、彼とともにいるために、伝えなくてはならない。


「愛する人と離れ離れになって、それが幸せなわけないじゃない! そんなこと、考えなくてもわかるでしょう!? たとえお互い何事もなく、天寿を全うしたとして、実際に死の間際に、ああ幸せな人生だったと思ったとして、それでが幸せだと思う!? たとえ何か大変な困難が待ち受けていて、たとえそれで死ぬほど苦しくても、死んだ方がましだと思ったとしても、それでも愛があれば生きていける、それくらい愛し合えることが幸せってことじゃないの!?」


 自分でも何を言っているかわからない。彼の耳に届いているかもわからない。あたしは涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、それでも最後まで言い切らなければ、と必死に言葉を紡ぐ。


「あんたがこうしてあたしをかばってくれたのは、そういうことじゃないの!?」


「――――ああ、その通りだ」

 声にならないようなつぶやきが、彼の口から零れ落ちた。


「ごめんなぁ……。でも、僕が愛しているほど、キミが愛してくれているのか、わからなかったんだ……。難しい、ものだねぇ……」

「ばか……っ! あんたの愛なんかより、あたしの愛の方が何万倍も重いのよ!」

「はは……そんなことは、ないよ……僕の方が、何億倍も重いさ……」

「ばかばか! そんなこと言っている場合じゃないでしょ!」


 いよいよ彼の力が抜けて、あたしも支えられなくなってきた。必死になんとかしようとするが、気ばっかり急いてなにもできない。


「ああ……、でも、僕の愛が、一方通行じゃ、なくてよかった……。最後に、それが聞けて、よかったよ……」

「何を、何を言ってるの! ねえ、しっかりしてよ!」


 ふざけないで、今言ったばかりじゃない! 一緒じゃなきゃ幸せじゃないって、今わかりあったばかりじゃない!



「ありがとう……愛してるよ……」



 最後に彼に触れられた唇には、まるで口紅のように、彼の生きていた証がべったりと塗られた。


「え、うそ」

 彼はあたしの胸の中で、倒れたまま動かない。


「あれ、おかしい、な。ありえないでしょ。こんな、こんな――」


 違う。だめだ。そうじゃない。そうなっては何もかも台無しだ。彼が、クロが、命を張ってくれた意味がなくなる。


「あ、あはは――っ!」


 そんなこと、させない!


「そうだよ。幸せだよ。愛する人があたしを命がけで守ってくれた。幸せなことじゃない。愛する人があたしの胸の中で眠っている。幸せなことじゃない。愛する人に愛しているって言ってもらえた! 幸せなことじゃない!」


 だから、だから!


「あたしは幸せになった! 世界で一番幸せな女だ! ね、クロ! あたし、幸せになったよ! ねえ、あんた前に、あたしが幸せになったらお願い一つ聞いてくれるって言ったよね! なんでも聞いてくれるんでしょう!? だったら、どうか!」


 どうか、お願い!


「あたしを不幸にさせないで! あたしを、幸せにして! あたしを幸せにしてくれる、彼とクロあんたをたすけて!」


 あんたたちをたすけるためなら、あたしは悪魔に魂を売ってもいい。


「お願い……お願い……!」


 ぎゅっと手を組んで願う。どこにいるかもわからない神様なんかじゃなく、人の幸せを勝手に測る天使でもなく――つらい時、苦しい時、死にたいと思ったその時に、いつもあたしの隣にいてくれた、優しく寄り添ってくれた、あの素敵なアクマに。


 雨が降り注ぐ。びちゃびちゃと隙間なく地上を濡らす。厚く空を覆う薄汚れた灰色の雲は、その一片にも間隙を生み出さない。


 ――はずだった。



「――やれやれ。あなたの愛は、なかなかに業が深いようですね」

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