28話:不幸
静寂があった。
まるで世界中の時間がとまったようだった。
あたしはただただ彼の顔を見つめていた。彼は再び顔を俯かせ、続いて空を仰いだ。
青い青い、突き抜けるような夏の青空だった。思い出したように汗が頬を伝う。なのに、体は暑さも寒さも、何の温度も感じない。
照り付ける太陽の暑さも、吹いてくる生暖かい風も、騒ぎ始めたセミの声も、全ては遠い遠い世界のことのように、あたしと彼の時間があった。
長い、静寂だった。
「………………はぁ」
永遠にも感じられた一瞬を、彼のため息が断ち切った。再びあたしのほうを向くと、
「やれやれ」
まったくもってこの場にふさわしくない厭らしい笑みを浮かべた。
「そんなことを言われて、僕が戻ると思うかい? 不幸になると言われて、わざわざよりを戻せって? そんなやつがどこにいるんだ。ばかばかしい。僕はね、たとえ――たとえ殺してでも、幸せを追求するよ」
「――――――――ぁ」
すっと、あたしと彼の間に影が落ちる。発達した積雲が、夏の太陽を覆い隠した。
あたしは何か言おうとした。何か言わなければならなかった。でも、何も言えなかった。今気づいたことが本当にそうなのかわからなかったから、もし違ったらまた傷つくと思ったから、口を動かしても、のどから空気が出ていくだけだった。
「――――」
心臓はどくどく脈打っているのに体が凍ったように動かない。言葉が出ないのがもどかしくなり、それでもこの心の中の何かをどうにかしようと、一歩前へ踏み出そうとしたとき、
「ぐっ――ぅあ――!」
空の彼方から、何かが地面に衝突した。
「っ――はぁ……っ――!」
「クロ!?」
クロだった。服はぼろぼろ、体中傷だらけで、頭から血を流している。いつもにこにこ笑っている彼女が、これほどまでに苦痛で顔をゆがめているのは初めて見た。
「クロ、クロ! しっかりして!」
「んんっ――」
慌てて抱きかかえるも、クロはぐったりとしたまま動かない。
「そんな――」
「ア、オ――大口をたたいていた割に、コ、キ、コ、こんなものですカ」
ズドン、とおよそ舞い降りるとは言い難い重量感で、テンシが元いた場所に降り立った。
「な、に――」
テンシの様子がオカシイ。神々しささえ感じた純白の羽は曇天を映し込んだように灰色に濁り、およそ羽の形を保っていない。すべてをはじくような白銀の髪は、同じくまがまがしい濁りが混ざりあっている。
変化は見た目だけではない。今までは機械のような無表情の中にも凛とした芯のようなものがあったし、その翼がなければおよそ
「へへ……まったく、あなたの言う通りです……」
「クロ!」
クロの声に、慌てて視線を戻す。
「ごめんなさい……。やっぱり八つ裂きにはできませんでした……ごほっ!」
「いいよ別にそんなこと! それより大丈夫なの、クロ!?」
せき込むたびに口からごぽりと赤黒い塊を吐き出すクロ。こんなひどい状態の人なんて見たこともないあたしにはどうすることもできず、ただうろたえるしかないという事実に恐怖すら感じる。
「あ、ぐ、げほっ。あの、ちゃんと、いえました、か?」
「言えた! ちゃんと言えたよ! クロが守ってくれたおかげで、あたしちゃんと言えた!」
「そう、ですか。それはよか、った――」
弱弱しく笑って、それきりクロは何も言わなくなった。
「クロ! ちょっと! やだ、ねえ、ねえってば!」
クロの顔にぽたっ、ぽたっと水滴が落ちる。それが血と混ざって濁り、彼女の頬を伝って落ちていく。動かない彼女の体を抱えたまま、あたしは何もできず、ただ涙を流して呼びかけるだけだった。
「ウ、ア、アクマはテンシに仇をなすもの。キリ、コ、ここで殺しておくことで、後に利に働くと判断できました」
「お、おい、テンシちゃん」
濁り切っていたテンシの羽がすうっと元の純白に戻り、もう必要ないと言わんばかりにそのまま収縮し消える。髪色も頭頂から先端にかけて白銀色に戻っていく。
「ダ、大丈夫です。多少不具合が出ていますが、すでに修復は終わりつつありますので。じきに戻ります。――行きますよ。もう用事は済んだのでしょう?」
「あ、うん……」
だめだ。彼が行ってしまう。ここで見送ってしまったら、二度と会えないと何故か確信できる。せっかくクロが作ってくれたこの瞬間を、無駄にしてしまう。
「クロ――」
早く行け、とクロに言われている気がした。あなたはあなたの幸せを追求しろ、と。
「――っ!」
クロ。ありがとう、クロ。あたしの親友。あんたのおかげであたし、ほんの少し強くなれた気がするの。だから、ちょっとだけ待っててね。
ごめんね。すぐに行くからね。
「待ちなさい……!」
クロの体をそっと地面に横たわらせ、両足にぐっと力をこめ立ち上がる。恐怖で足が震える。彼と対峙したときは足が震えたりしなかったのに。この女と対峙すること自体を本能が拒んでいるかのようだ。
でも、やらなくてはいけない。クロはあたしを守ってくれたもの。
「――」
テンシが振り返る。何も映りこまない瞳に見透かされ、ぐらりと足元がゆがむ。いや、そんなものは錯覚だ。今のあたしにはそんなもの効かない。
拳は握った。涙は止めた。今度はあたしがクロを守る番だ。
みんなで幸せになるために。
「――何か?」
「何か、じゃないわよこのクソ女! あたしの愛する彼氏と、あたしの愛する親友、二人もあたしから奪いやがって! あんただけは八つ裂きにしても我慢ならない!」
激昂するあたしに対し、テンシは元の冷静沈着で感情の一切ない声で返答する。
「やめておきなさい。人間では私にかなうわけありません」
「うるさいな、わかってるよ泥棒猫! おかげであたしは今不幸のどん底よ!」
「――フコウ」
テンシがたった三文字の言葉を復唱する。ズン、と再びテンシのプレッシャーが増し、あの純白の羽が現れる。
やっぱり……! あたしは自分の読みが当たったことに確証を得て、ゴクリとつばを飲み込む。
「そう、不幸、不幸なの! 不幸で不幸で、きっとこの先どう生きようと、きっと不幸なままなんだ! あたしが幸せになる道は、もう一つしか残ってない!」
「……やめろ!」
彼が何かに気づいたようだ。そうだよ。さすがあたしの彼氏。でももう遅い。
「あたしを殺しなさい、テンシ! 絶望の世界からあたしを解き放って! それこそあたしが幸せになれる、たった一つの方法よ!」
「シ、あわ、せ――」
テンシは問答無用で幸せにするシステムだと、昨日クロが言っていた。ならば、死ぬことこそが幸せだと思わせれば、テンシはあたしを殺そうとするだろう。これが一つ目の賭け。
二つ目の賭けは、やはり彼は本意からあたしを振ったのではないということ。彼があんな表情をしたことは今まで一度もなかった。クズを演じることであたしにあきらめさせようとしたのだろうが、そもそも彼にはそんなもの似合わないのだ。まだただの浮気だと言われた方が信じられる。彼が優しすぎる人間ということくらい、あたしは十分すぎるほど知っている。あたしが死にそうになってまで、彼は本心を隠そうとしないだろう。
最後の賭けは、クロのことだ。彼女はあたしを幸せにするまで付きまとうと言っていた。ならあたしが幸せになればあたしから解放されるはず。解放されたからといってどうなるかはわからないけど、きっと自分の居場所に帰れるだろう。それが彼女を回復させる手立てになるかもわからないけど、やらないよりましだ。
この状況を打開する策はこれしかなかった。うまくいくかなんてわからない。けど、恩人を、親友を、愛する人を見殺しにするくらいなら、あたしは進んで命を差し出そう。
「さあ、殺せ!」
キリキリキリ、と機械仕掛けのようにテンシが薙刀を構える。
「幸せ、しアワセ、しあ、わ、あああ、あせ、テンシは人間を幸せに、人間を導く存在、テンシは人間を幸せに、し、シア、幸せに、導くテンシは、テンシは人間を、おお、しあ、しああああああ、幸せに、導く!」
ごう、と風が吹いた。
ああ、あの武器は痛そうだ。クロはよくあんなのと戦ったよな。すごいよクロ。いやーしまった、甘く見てた。どっかぶすっとやられても、ものすごく痛いだろうけど死にはしないかなと思ってたけど……こりゃあ死んじゃうよ。だって狙いが真っ直ぐあたしの心臓に向いてるんだもん。絶対死んじゃう。でもまあ。
クロが助かるなら、何でもいいかな。
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