26話:テンシ
あたしが引っかかっていたこと。それは、とても単純なことだった。デリヘルだのテンシだのと埒外の出来事に紛れてしまっていたけれど、一番はじめに考えなければいけないことだった。彼がテンシから何か――あたしたちが一緒にいることで、彼が不幸になるのだと聞いていたのだとしたら。その結果彼が浮気していたと言い出したのなら。
思えば二つ目の作戦は、彼が何故浮気したのかを聞きだすことだった。あの時とは意味合いが違うけれど。彼が何故浮気などと言いだしたのか、それをきちんと聞く必要がある。
あたしたちは――あたしは、彼がどう思っているのかを考えていなかったのだ。
だからあたしは、彼ともう一度話をする必要がある。
話を、しなくてはならない。
「すみません。私、すっかり見落としていました。テンシが元カレさんと一緒にいるということは、必ず何かしら干渉されているはずなのに」
「いや、そもそもあんたが話してくれなきゃ、あたしはわからなかったもん。……でもどうしよう。どうやって彼と話をすればいいの」
別れたきっかけはあの女のせいかもしれないということはわかった。けど、だからといって彼と何を話せばいいのか、彼とどう話をすればいいのかわからない。
「そこは私におまかせください!」
「え、何を?」
この流れで急に何を任せろと?
「テンシは私が相手します。なるべく長く引き離すので、その間にあなたはゆっくり話をしてください」
「えっと……」
あたしが心配してるのは……。
「ご心配なく。実は私、こう見えて強いんですよ?」
「……ふふっ」
そういうことじゃないんだけど。
「そうね。あんたのそのデカい乳は向かうところ敵なしでしょうね」
「むぅ! 本当に強いんですよ私!」
「はいはい。期待してるわ」
見当違いの励ましでも、励まされるあたしは単純だろうか。クロの言葉には、何故だか大丈夫だという気持ちにさせられる。いままでも、今回も。
「じゃあ明日。昼休みに。あんたはあの女を八つ裂きに、あたしは彼と話を」
「いや八つ裂きにはできませんって……でも、はい。私はテンシを、あなたは彼を」
あたしはグッと拳を突き出す。やっておいてちょっと恥ずかしくなる。クロは一瞬目を丸くしたが、すぐにその意図をくんでくれた。
「まるで戦場に行くみたいですね」
「戦場だよ。あたしにとっては」
こつん、と拳を合わせ、二人笑った。
*
「……」
通い詰めたこの草葉の陰も今日でお別れになるかもしれないと思うと感慨深い。
「今日もいるね。一緒に」
「はい」
「やっぱり八つ裂きにしようよ」
「私はあなたが私の予想以上に前向きになってくれて嬉しいです」
でしょ、と笑う。きっと、自然に。
「さて」
「大丈夫ですか? 息整いました? 吐き気ないですか?」
「大丈夫。あんたのおかげでね」
「それはよかったです」
えへへ、と笑うクロを見て、つい――よぎってしまった。
「ねぇ。クロはあたしの心の傷を癒して、あたしを――幸せにするのが仕事なんだったよね」
「はい。幸せ、届けます。愛と信頼のデリバリーヘルス、クロちゃんですから」
「その設定まだ生きてたんだ……じゃなくて。じゃあ……」
じゃあ、あたしが幸せになったら、あんたはいなくなっちゃうのかな。
なんか。なんか、それは。
「……」
「?」
でも、それを言ったら、きっとクロを困らせてしまう。クロのしてくれたことを、台無しにしてしまう、気が、して。
「じゃあ、クロ。あたしを、幸せにしてね」
「はい、もちろんです!」
その気持ちをそっと、胸の内に閉じ込めた。
「じゃあ行きましょうか」
「うん」
本当は、大丈夫かと言われるとそんなことはない。心臓が痛いほど鼓動しているし、じっとりと嫌な汗さえ感じている。手足は震え、今ここにいることさえおぼつかない。
でも、クロが心配するなと言ってくれた。ならあたしは、それを信じて前へ進むだけだ。
「行こう」
*
「……どうも、おふたりさん」
「なっ――!」
突然現れたあたしたちに、彼は目を丸くして言葉も出ないようだった。
「……」
一方テンシは、その憎たらしい顔をピクリとも動かさなかった。やはり八つ裂きに――。
「な、なんで、ここに」
「あんたの横にいるテンシとかいう泥棒猫を八つ裂きにしにきたのよ。こいつが」
「ちょっとー! できませんってばー!」
後ろでクロが喚いているが無視する。
「なんでキミがそれを――」
「知ってるわよ。この巨乳悪魔が教えてくれたから」
「――!」
あたしが親指でクロを差した途端、テンシの目つきが変わった。
「――アクマ、だったのですか」
「ええ。テンシ様は何故か気が付かなかったようですが」
クロはあたしを庇うように一歩前へ出る。クロの背中からぶわっと黒い何かが溢れ出し、翼の形に収縮していく。彼女のつややかな黒髪はその黒さを増し、すべてを飲み込むような常闇色へと変貌する。彼女が手を一振りすると、その伸長ほどもある大きな、いかにも悪魔らしい三又の槍がその手に収まった。
こいつ、本当に人間じゃなかったのか。実際に人間ではありえない光景を目の当たりにすると、さすがに驚きはする。けれど、それだけだ。
「どうやって隠していたのですか。わたしの目を欺くなんて」
「わざわざ敵に塩を送ると思います?」
テンシも背中から純白の羽を広げ、手に薙刀のようなものを持った。髪色は、まるでクロと対極を示すように、すべてをはじき返すがごとくの白に変化する。戦う意思を見せたテンシに対し、クロは三又の槍を構えなおす。
「この方が――私の親友が、彼と話をしたいと言っています。私はそれを全力で助けます」
「無駄なことを。天のもたらす結果は絶対だというのに」
テンシの無機質なのに鋭い眼光にあたしは気圧される。埒外の存在だと実感した途端、よくわからない恐怖がこみ上げてきそうになる。
「……ふん」
その恐怖を鼻を鳴らして吐き捨て、あたしはテンシをにらみ返す。
「あたし、無宗教なの。
「……いいでしょう。では」
動きを挟む暇もなく、テンシがあたしの顔面めがけて薙刀を突き出す。
「ひ――」
「させませんよっ!」
切っ先が触れるか触れないかというところで、クロの三又の槍がテンシの薙刀を封じる。すうっと血の気が引いて倒れそうになるけれど、両足に力を込めてぐっとこらえる。
「テンシは人間に直接干渉しないはずでしょう。そういうもののはずだ。――あなたはいささかイレギュラーなようですね」
「何を言っているか、よくわかりませんね。人間の幸福のためには手段を選ぶ必要はないでしょう」
突き出した薙刀を引き戻し、テンシは狙いを完全にクロに向ける。
「……いいでしょう。まずはあなたから倒さねばならないようです。そのためにはここでは狭すぎる」
言った瞬間、土煙を残してテンシは消えた。
「クロ……」
あたしはつい、彼女の名を呼んだ。
「ちょっと行ってきます。なに、大丈夫ですよ。私は強いですから」
えっへん、と力こぶを作ってみせ、あたしに微笑みかけた。
「――頑張って、私の親友」
そう言ってクロも空の彼方へ消えてしまった。
「……ありがとう、あたしの親友」
ここからは、あたしひとりの戦いだ。
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