25話:前提条件

「んあ?」


 あれ、あたし……。

 いつの間にか眠っていたようだ。外はすでに薄暗くなっており、台所の方からクロが料理をする音が響いてくる。


「んんっ……」

 変な体勢で寝ていたのか、体はギシギシ、頭もなんだか靄がかかったようにぼんやりしている。ふらふらと立ち上がり、台所を覗きに行く。


「クロぉ~。あたし……」

「あ、お、お目覚めですか!」

 あたしが声をかけると、クロは驚いて包丁を持ったまま肩を飛び上がらせた。あぶねえ。


「……どうしたの」

「え、いえいえ! 何でもないですよ?」

 なんだか挙動不審だけど……。いや、挙動不審なのはいつものことか。


「と、ところで、体調とか大丈夫ですか?」

「え、まあ別に普通だけど」

 若干寝違えてる感じはあるけど、特に不調はない。変なことを聞くやつだ。


「そうですか。頭が変とかないですか?」

「頭が変なのはあんたでしょうこの乳悪魔」

 なんて失礼なやつなんだ。


「乳悪魔ってなんですか……。不調がないようでしたらよかったです。――さあ、ご飯出来ましたよ。食べましょう。食べ終わったら、お話しなくてはいけないこともありますので」


 *


 食事のあと、クロはあの浮気相手の女――テンシという存在について語った。ご飯を食べたところだというのに、おなかの下の方がすうっと冷える感覚に陥る。


「そんな……じゃああたしが彼と一緒にいたら……」

「それは違います」

 あたしの思考を先読みするかのように、クロが遮った。


「テンシはシステムです。それも人間には及びつかない、超常の存在である天の生み出したシステム。そのシステムがあなたがたを引き裂いたというのなら、あなたたちが伴にいると、きっと大変な試練や困難が待ち受けているということなのでしょう」


「だったら……」


「でもね。それって天が観測した数値に基づいて計算された、客観的な事実でしかないんですよ」


「……どういうこと?」


 どう受け止めていいかわからない。なんとか絞り出した声も若干震えてしまう。混乱する頭をどうにか落ち着かせて、クロの話すことをせめて聞き逃さないようにする。


 クロはこくりと頷き、右手の人差し指を立てる。


「例えば、辺境の地に住んでいる部族の人たちがいるとします。そこには電気もガスもない。水も遠くの川まで汲みに行かなくてはならない。食料も、自分たちで狩りに出なければならない。野生の動物に襲われることもあるでしょう。病気になっても満足な治療も受けられないかもしれません」


 クロはもう一方の人差し指を立てる。


「一方で、とても裕福な、例えば王族に生まれた人がいるとしましょう。電気もガスも無尽蔵に使えるし、水だって蛇口をひねればいつでも清潔なものが手に入る。毎日たらふくご飯も食べられます。お城の中は安全で、病気もケガも、すぐにかかりつけの医者が診てくれる」


 クロは両方の指を振り、そしてあたしに問う。


「どちらが不幸だと思いますか?」


「それは……」


 彼女が何を言いたいのかよくわからない。が、きっとこれは大切な問いのはずだ。


「それは、わからないんじゃないかな」

 そりゃあ電気もガスもない場所なんて不便でしかないし、何もしなくてもご飯が食べられるなんてうらやましく思える。でも、


「その人たちが幸せかどうかは、その人たちにしかわからないよ」


「その通りです。自然とともに生きていることを幸せだと思っているかもしれないし、城から一歩も出させてもらえないことを不幸だと感じているかもしれない。それも、一人ひとり感じることは違うのです」


 クロはすっと目を閉じ、小さくため息を吐いた。


「それは、あなたと彼のことも同じですよ」


 深い闇夜が明けるかのように開かれるクロの瞳が、あたしの目をくぎ付けにして離さなかった。


「先ほども言った通り、テンシが現れたということは、あなたと彼の間に何か大変な困難が待ち受けているという客観的事実が観測されたということでしょう。でも、?」


 その一言は、あたしの心を揺さぶるのに十分だった。


「確かにテンシは人とは異なる超常の存在ではあります。でも結局はでしょう。もし適当な赤の他人に『彼と一緒にいると不幸になるから別れなさい』と言われたところで、あなたは聞く耳なんて持たないはずです。だってあなたは、彼の事をそれほどまでに愛しているはずですから」


 そうだ。誰かに『不幸になるから別れた方がいい』と言われたところで、あたしが簡単に別れようとするはずない。だって彼の事を愛しているから。たとえあたしが客観的に不幸になっていったからって、それで後悔なんてしない。だって彼の事を愛しているから。


「でも……」

 でも、だよ。


「彼が不幸になるというのなら。たとえ二人が不幸だと思わないのだとしても、それでも彼が客観的に不幸だと思えるような状況に至るのなら――あたしは納得するしかないよ。だって、だって……彼の事を愛しているもの」


「それは……!」

 一瞬、泣き顔とも怒り顔とも思えるような、複雑な表情を浮かべるクロ。でもすぐにもとの真剣な顔に戻る。


「……それは、そんなものはただの自己犠牲だ。だってそれでは、あなたが幸せにならない」

「たとえそうだとしても、あたしは彼の幸せを望むよ」


 あたしが不幸になったって、あたしは彼と伴にいることを選ぶ。でも、彼が不幸になるというのなら、あたしは彼と別れることを選ぶ。それがあたしの愛だ。


「先ほども言ったでしょう。前提が違うのです。テンシに定義された不幸と実情は異なるのだと、他人の思う不幸と本人の思う不幸は異なるのだと、あなたも理解しているでしょう」


 クロとあたしは平行線だ。どちらかが折れるまで、決して交わることはない。


「それでも、困難が待ち受けていることに違いはないんでしょ。それがわかっているのなら、あたしは身を引く。あたしと別れて他の女とくっつくことが彼の幸せなら――」


 延々と交わらない二本の線。ふと、そこに黒いシミのようなものを感じた。一度気になると、そのシミはどんどん存在感を増す。


 なんだろう、何か……何か大事なことを忘れている?


「待って、クロ」

「なんですか、今は――」

「お願い」

「――わかりました」

 あたしのただならぬ様子に、クロもおとなしく言葉を収めてくれる。


 彼女との議論を一度止め、何が引っかかっているのか、混乱した頭を何とか落ち着かせて考える。なんだ、何が引っかかっているんだろう?


 思い出せ。これはとても――大事なことだ。


 話の始まりはクロが突然現れたことだった。この女はあたしの心の傷を癒すとかなんとか言って我が家に通い詰め、挙句にあたしを大学に連れ出した。でも大学で彼と泥棒猫が一緒にいるのを見て倒れて、それでも何とか乗り越えようとして。そしたら例の泥棒猫がテンシだとかなんとかクロが言い出して、あたしが彼と一緒にいると不幸に――。


「――


「え?」

 言いつけ通り黙っていたクロだったが、あたしが急に声をあげたことで、つられて思わず声を発したようだった。


「あたしたちは大事なことを忘れていたんだよ。始まりはクロ、あんたが現れたことじゃない」

「え……あっ!」


 そう。クロが押しかけてきて肉じゃがが美味しいとか、テンシが愛しの彼と一緒にいて八つ裂きにしてやりたいとかそういうのは関係ない。それは、この物語の始まりではないのだ。


「始まりは。それもこっぴどくね」


 そう、この一連の話はあたしが彼に振られたことを前提にしている。けれど、本当はそうじゃないとしたら?


「もし彼の言う通り、彼があたしに内緒で半年も浮気していたのなら、刺し違えてでもあの泥棒猫を殺すしかないけど」

「……」

「でも、あの女はテンシとかいう、ただの人間ではないなにかなんでしょ。だとしたら彼の浮気は本当に半年前から? そもそも浮気なの?」


 テンシに何か吹き込まれている可能性は大いにある。もしかしたら何か洗脳されているのかもしれない。そうなると、前提は変わってくる。


「とりあえず、テンシを八つ裂きにして」


 そうすれば彼の洗脳もとけるかもしれないし。


「それから――彼と話をしよう」

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