22話:空蝉の記憶

「――っ」


 涙が頬を伝う感触があった。これは誰の涙なのだろう。目を開くと、そこは見慣れたあたしの部屋の天井だった。


「あ、気が付きましたか?」


 目だけ動かして横を見ると、クロが心配そうな顔をしてあたしの顔を覗き込んでいた。


「お水飲みます?」

「……うん」

 再び視線を天井に戻し、あたしは力なくうなずいた。


「はーい。少々お待ちを」

 そう言ってクロはぱたぱたと台所へ歩いていく。


「はぁ……」


 頭を押さえながらのろのろと体を起こす。さっきまですごく幸せな夢を見ていた気がするけど、今は頭にぼやっと靄がかかったようになっているせいで何も思い出せない。それどころか、なんだか体にずんと重しがのしかかっているように気分が悪い。なんであたしこんなことになってるんだっけ。


「大丈夫ですか? はいお水」

「ありがとう」


 クロに差し出されたグラスを受け取り、少しだけ、唇を湿らせるように水に口をつける。その刹那。


「あ……」


 そうか。

 そうかそうか。


 よく、思い出した。


「あたしは、だめだったんだね……」


「……」

 クロは困ったような笑顔を浮かべて、それでもあたしから視線を外さないまま言った。


「そう……ですね。だめでした」

 だめでした。彼女はその事実をはっきり告げ、そしてあたしに頭を下げる。


「すみません。私が少し早まってしまったようです……」

「いや……あたしが行くって言いだしたんだし」


 そうだ。彼女が謝ることなんてない。確かにあたしに大学へ行くように勧めたのはクロかもしれないけど、それを受け止めて行くと決めたのはあたしなのだから。


「いえ、そういう管理も含めて私はあなたの担当ですので。――今日はただ講義へ出るだけのつもりだったのですが……私も初めて大学に行ってみて舞い上がっていたのでしょうか。私の不注意で彼と鉢合わせてしまった。やはり私の責任です。本当に申し訳ありません」

「うん……」


 彼女はあくまで自分の責任と言い張る。しかし、今クロがいなかったら、きっとあたしはショックで立ち直れなくなって、今度こそ方法なんて選ばずにすぐに死を選んでいたことだろう。


「ありがとうね、クロ」

「いいえ……。そんな、私はお礼を言ってもらえる立場じゃないです……」

「そんなことないよ」


 そもそもすでに、彼女はあたしの命の恩人なのだから。


 そんなそんな、と二人して頭を下げ合っているのは何とも気まずい。クロも同じ気まずさを感じ取ってか「お、お茶入れますね」とほとんど減っていなかったグラスをあたしから取り上げ、台所へぱたぱたと歩いていく。


「……はぁ」


 彼の姿を見たのは、すごく久しぶりな気がした。実際はひと月も経っていないはずなのに、もう何年もあっていなかったように錯覚していた。


 彼は、笑っていた。新しい彼女と隣り合わせに座って、お弁当を食べながら笑っていた。あたしには作らせてくれなかった、手作りのお弁当を食べながら。


 その笑顔の奥にどのような感情が潜んでいるのか、今のあたしにはもうよくわからない。彼の事を盲目的に信じてきたわけではなかったけど、笑顔をただの笑顔ととらえるくらいには彼の事を信じていたはずなのに。


「信じられないというのは、こうもきついもんかね……」


 そう口にした瞬間、ぐらり、と視界が揺れたような錯覚に陥る。うっ、と鈍いうめき声がのどから漏れてしまうのをなんとか我慢する。これ以上クロに心配をかけたくない。


「……ふぅ」


 これほんと、目が覚めたときにクロがいなかったらどうなっていたかわかんないな。出会ってまだ数日しかたっていないのに、彼女の存在はあたしの中でとても大きなものとなっていることがよくわかる。


「お茶入りましたよー。……まだちょっと顔色悪いですね。ほら、お菓子でも食べて元気出してください」

「あたしは子供か……」

 そしてあんたはあたしの母親か。お盆に冷たい麦茶とお菓子を乗せて持ってきたクロを、ちょいちょいと手招きする。


「なんです?」

「ここ」

 そしてあたしの側の床を座布団でべしべしと叩く。


「いいから座れ」

「なんですかもう……って」


 座布団に行儀よく正座したクロの柔らかい脚を枕にするようにもたれかかる。今日のクロは見た目相応の包容力がある雰囲気だったので、あたしもそれに甘えることにした。突然の事にクロは目を丸くしていたが、すぐにその表情を崩し、呆れたような声を出した。


「ほーら、子供じゃないですか」

「うっさい」

 頭上にある脇肉をつねる。


「今日くらいいいでしょ。――お願い」

「まったく……甘えたさんなんだから」


 そう言って呆れつつ、クロはあたしの頭を優しく撫で続けてくれた。彼女の指が触れるたび、あたしの中の暗い感情が溶けてなくなっていくようだった。


「そういえば、あたしはどうやって帰って来たの? 全然覚えてないんだけど……」

「え。ああまあなんていうか、私の魔法でちょちょいっとですね」

「魔法って……あんた悪魔じゃなかったっけ?」

「アクマに魔法ごときが使えないとでも?」

「そりゃそうか」


 こうやって軽口をたたき合える人がいるだけで、ずいぶん心が楽になるものだ。こうしてクロにもたれかかって髪を撫でられていると、心地よいまどろみへと落ちて行ってしまいそうになる。


「ねえ、クロ。あたし頑張るよ」

「ええ、最後までサポートさせていただきます」


 にっこりと微笑みかけてくれたクロに笑い返し、自然と閉じていく瞼に抵抗することなく、あたしはそっと目を閉じた。



「あっ、ちょ、ちょっとまって、そのまま満足げに目を閉じないでください」

「どうしたの?」

「あの……。ちょっと正座はきついというか、頭が重いというか、端的に言って今すごい痺れの波が来そうになっていまして……」

「……」

「あ、ちょっと無言で目を閉じないでくださいよ!」

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