19話:命を吹き込む
画用紙に線がひかれていく。その筆に一切の迷いはなく、真っ白だった紙上が意味を持った境界線で区切られていく。
彼の手によって何もない画用紙の上に次々とモノが生み出されていく様子を、だまって眺めているあたし。さっきからあたしの視線は彼の手にくぎ付けだ。
「ほぉ……」
ついため息が口から漏れてしまう。美術の授業でもとにかく下描きに時間がかかるあたしにとっては、彼の迷いのない手の動きによって描かれていくありさまはまるで魔法のようだ。
「下描きだから適当に描いてるんで、これ通りに塗らなくていいからね」
あたしに向かっての言葉だというのに一瞬気が付かなかった。だって彼の顔は画用紙の方を向いたままだったし。あたしもそれに見とれてしまっていたし。
「いや、そんな、これ通りにするのも無理なんだけど……」
「うん。だからこれ通りにしなくていいよ」
どうして天才肌のやつって話が通じないんだろうか。今まで、すごいなあなんでこんなすらすら描けるんだろうすごいなあ、と感心していたわけだけど、今のかみ合わない会話を通して、感心より呆れが増してきた。
こいつ……と眉をひそめつつ、視線を彼の手元から顔へと移す。
「……」
画用紙に向かい合う彼の真剣な表情を見ると、のど元までこみ上げた文句も引っ込んでしまった。今話しかけたら絶対怒られる。彼はそんなことで怒るような人ではないけど、あまりに集中していたのでじゃましたら怒られると思うぐらいの緊張が走った。
それにしても、人が仕事をしているのを何もせずに横で見ているというのはなんだか落ち着かない。『あいつさぼってんぞ』と思われないように、より画用紙に近づいて、眺める。
まあしかし、本当に迷いがない。消しゴムなんて使うどころか、筆箱から出してすらいない。まるで絶対に筆を止めてはいけないという一種の強迫観念にとらわれているようだ。
「……まあこんな感じでいいか。下描きだしね」
ずっと四つん這いで画用紙に向かっていた彼が面を上げる。コキコキと肩を鳴らし、ふぅと一つため息を吐く。
「はぁー、すごいね。こんなにサッサッと描けるなんて」
「下描きは確かに大切だし丁寧にやるべきだけど、あまり時間をかけすぎていても進まないからね。丁寧かつ素早く描かないと。それに今回はモノが大きい分全体のバランスの方が重要だから。細かいところまで描き込んでいたらさすがにしんどいよ」
そりゃそうなんだろうけど、あたしにはそれができないっつってんのよ。それが出来たら苦労はしないのよ。
「ふーん……それで、わたしはこれに色を塗って行けばいいわけね。なにで塗ればいいの?」
「あ、そうだね。おーい、これ色塗るのはポスカでいいの? マジック?」
横で作業していた別のグループの子に聞きに行く彼。いや、そこはあんた把握しときなさいよ。色塗りしてってあたしに頼んできたくせに。
「オッケーありがとう。――色塗りはポスターカラーだって。はいこれ、学校のやつ。これ使って」
「わかった」
いやわかってない。
「ま、待って待って。色とかわかんないって」
「えーっと、この辺が緑、この辺は青、でこの中は赤かな。ここら辺は後で黒を塗るから空けといて」
線によって仕切られた囲いごとに彼が鉛筆でうっすらと色の名前を書きこんでいく。何色を塗るかくらいわかるだろと思うかもしれないが、画用紙一枚に描かれているのは背景の一部でしかないので、彼らの頭の中にある全体像のわからないあたしは色もよくわからないのだ。最終的にはこういう画用紙をいくつもつなげて一つの背景絵にするみたい。
それに、ぶっちゃけ何が描かれているかよくわからない。はじめは森の木とかお城とかそういうのを描いているのだと思っていたけど、どうもそんな感じじゃなくて、なんていうかこう……放射状の……太陽みたいな? いやわからんわこれ。少なくとも何か具体的なモノを描いているのではなく、抽象的なものを描いているのだろうことはわかる。
というわけで、決してあたしが一人色も塗れない美術選択者というわけではないことをわかっていただきたい。森を赤で燃やし尽くしたり、西洋のお城をいぶし銀に染め上げたりはしない。いやむしろそういう奇抜な感じは独創性があっていいのではないか。常識にとらわれているのはあたし……芸術は爆発……。
「じゃあ僕はこっちから塗っていくね。キミはそっちの方からお願い」
「はーい」
きっと色の具合を聞いても『大丈夫、塗った色がその色だよ』とかわけの分からない言いそうな流れだったので聞くのをやめた。気にいらないところがあれば彼が勝手に修正するだろう。
緑色から塗ろっかなー。こういうのは気分気分。チューブから絵具をにゅるにゅるとパレットに出し、適当に混ぜて慣らしてから画用紙へ向かう。この紙に筆をつけるまでの瞬間がいつも長いあたしだけど、隣の彼がすでに一区画塗り終わっているのを見るとぼんやりしてはいられない。とりあえず一番広い『緑』指定のところへ筆をおく。
「……」
よし、水の加減は問題ない。枠の縁取りをして、それから中を塗っていく。小学校くらいで習ったことって思い出としては残ってなくても頭のどっかに残ってるものよね。あれ、小学校だっけ習ったの。幼稚園? お母さんだっけ?
まあいいや。次々塗ろう。無心で塗ろう。なんせ、人が足りないからってほとんど話したことのないあたしの手を借りようとするくらいなのだから。あたしがあれこれ考えて手を止めるより、後から修正してもらうほうが早いでしょう。
「……あんたって美術部かなんかだっけ?」
「僕は絵は好きだけど、美術部じゃないよ。絵は趣味程度」
「ふうん」
彼は自分から話しかけてくることはあまりなかったけど、こちらから話しかけると邪険にせず応じてくれる。無心で塗ると言ったけど、無言で作業を続けるのは少々退屈だったので、会話が成立してほっとする。するとだんだん(あたしが一方的に感じているだけの可能性のある)緊張が解けてきて、話も筆も進むようになってきた。
「美術部じゃないんなら何部なの?」
「カードゲームとかボードゲームとか、そういうテレビゲームじゃないアナログなゲームで遊んだりする部活やってる」
「そんな部活まであるのかこの高校……」
ぬりぬり。
「えっ、自分たちで新しいゲームを作ってるの?」
「そうそう。カードにしてもすごろくにしても、イラストは不可欠だからね。そういう楽しみがあるから入部してね。うちの美術部はレベルが高すぎて、僕みたいに趣味でちょっと絵をかきたい人にとっては厳しすぎたってのもあるんだけど」
ぬりぬり。
「へえ、そんなに売れたの? すごいじゃん」
「先代は同人イベントでぼろもうけして、そのまま商標登録とって起業しちゃったらしい。そこまではいかなくても、僕らもそれくらい面白いゲームが作れたらって思ってるよ」
「ふーん。できたらやらせてよ。わたしも結構そういうの好きだしさ」
ぬりぬり。
思いついたようにあたしが気になったことを質問し、彼が作業を続けつつぽつぽつと答える。
「ここの色、こんな感じでいい?」
「えっとね、もうちょっと赤を足してもらって……」
しばらくそんな感じで作業を進めていると、だんだん塗り慣れてきた。はじめは全部彼の修正に任せようと思っていたけど、やっているうちに自分の中に欲が出てきた。どうせやるなら積極的に参加する方が楽しいもんね。
そうしてしばらくの間、彼とおしゃべりをしながら色を塗り続けた。恋人未満どころか友達ですらなかったあたしたちだけど、互いに歩み寄りすぎないままの共同作業に奇妙な居心地の良さを感じていたのだった。
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