18話:物語が始まる瞬間

 夢を見た。


 彼と幸せだったころのあたしの夢。

 世界が輝いて見えたころのあたしの夢。

 ……何も知らずに騙されていたころのあたしの――。


 ――夢、じゃない。

 これは、現実であり、事実であり……過去だ。


 あたしが初めて彼に出会った時のことは、実はよく覚えていない。それぐらい、出会いの印象は薄かった。彼の影が薄いというわけではなく、お互いに特に興味を持っていなかったというだけだ。


 明確なは覚えていないけれど、出会ったのは高校入学後のことだ。クラスが同じだったんだけど、特別目を引いたり印象に残った感じはなかった。自己紹介の時も、その他大勢と同じように聞き流していた。


 つまり、ヒトメボレなどではなかった。運命の赤い糸は垂れ下がってなんかいない。神様が勝手に結んでくれているなんて、そんな都合のいいことはないのよ。


 運命の赤い糸はね、自分で結びにいくの。でもその時は結んでる自覚はなくて、気が付いた時にはがっちり結ばれているものなのよ。


 彼とちゃんと話したのは、たぶん文化祭の準備の時だ。高校生にもなってクラスごとに劇を強要する我が母校だったが、そうはいってもうちは真面目な校風で通っていたので、表立ってさぼったり、邪魔をするような生徒はいなかった。


「はーいじゃあ何をやるか決めまーす」

「台本はどうしよ~」

「このクラスには文芸の神がいるだろ」

「えっ私が書くの!? ……まあやってやろうじゃない?」


 脚本も演劇もできるわけないあたしは、しれーっとした顔で座っていた。うちのクラスはみんな演じることとかそういうのにやる気のある方だったらしく、気がつけばあたしは裏方になっていた。


「裏方とは……」


 ぶっちゃけ話を聞いていなかったあたしだが、こちらがとくに考えなくても向こうからオーダーしてくれるらしい。『こちら』とか『向こう』とか言って区別している時点であたしのやる気というか意識が知れるというものだ。いやべつに「こんなのやってられっかよォ」みたいな不良的思考なのではなく、クラスの彼ら彼女らの熱気が予想以上で……。


 思い返せば、この時のあたしは多少根暗に見えたかもしれない。本人からすれば、全体の一部でいるよりは一人で黙々と作っていくのが好きなだけなんだけど……そういうのを根暗って言われるのは心外だわ。


 ああでも、話を聞いていない時点でだめか。『みんなでやろう』という企画に消極的な参加の仕方をしているのは良くなかったよね。やりたくないわけじゃない。これやってって言われればやるんだけど、だからって何か始めることはできないあたしだった。


 裏方の仕事は、小道具の作成と背景の絵を描くことらしい。所詮高校の文化祭だと軽く見ていたけれど、うちの高校にはこういうお祭りが好きな連中が集まっていたらしい。そういえば変な文化系の部活がやたら多かったっけ。家が近いからという理由で選んだ高校だったので特色とか全然気にしてなかったけど、この高校はそういう変な人々が集まる校風だったのだ。


 みんなそれぞれ、自分の得意なものや好きなものがあるし、苦手なものや嫌いなものもわかっている。自分の得意分野があるから自分に自信が持てるし、自分が苦手なものを得意とする相手を尊重できる。世間では変なやつだと避けられたりつまはじきにされる連中も、ここではみんな生き生きとそれぞれを活かしている。


 それに比べてあたしは、特別得意なことがあるわけでもないし、好きなものもない。うちの高校にしては珍しい、平凡な人間だった。それも普段の生活の中では目立たないけど、文化祭の様に勉強以外の個性を発揮する場ではとたんに何もできなくなる。それをこの時痛感した。


「あ……」

 何かやろうとしても、みんな自分のやるべきことを自分でわかっているもんだから、あたしのことなんて気にしていない。各々が動き始める中で、あたしだけが戸惑い立ち尽くすだけだった。このままだとあたし――。


「ねえ」

「……え?」

「キミ、手が空いているなら手伝ってくれない?」


 それが、彼だった。


 彼の担当は背景の絵だった。美術、音楽、書道の三芸術科目の中でも美術を選択するくらいには絵が好きだった彼は、喜んで背景担当になった……のはよかったのだけど、うちのクラスには偶然美術系の生徒が少なかったらしい。一方で、脚本側は場面転換のための背景をたくさん要求してきたので、担当の生徒の数が足りなかった。


?」

「うん」


 そこで手持ち無沙汰そうなあたしに声をかけたというわけだ。


 あたしも授業では美術を選択していたから、それもあって声をかけられたのだと思うけど、それもこの三つの中なら美術がましかなあという消去法で選んだ程度だし、他の子ほど絵が得意というわけでも好きというわけでもなかった。


 とはいえ、実際「人が足りてないんだ」と言われて連れていかれた先で、少数でいくつもの背景を作っている様子を見せられてしまえば「わたしは絵が上手なわけじゃないから無理」とは言えなかった。


「わ、わかった。けどわたし、絵はあんまり――」

「そうなの? まあ大丈夫大丈夫。気にしないで作ってって」

「え……でも……」


 口ごもるあたしの様子を見て察してくれたのか、彼は「じゃあ」と言ってこう提案した。


「僕が下絵と色の指定をするから、キミは色を塗っていってもらえるかな。大丈夫、多少はみ出したり色が変でもいいから。展覧会と違って、お客さんは細かいところまで見えないからね」


 そういって彼はにっこりほほ笑む。


「まあ、気楽にやってよ。……だからといって手は抜かないけどね」

 その微笑みと裏腹に、彼の真剣さにどきりとする。


「う、うん。やってみる」


 それから、彼とあたしの共同作業が始まった。

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