第16話:通学路
「しかし暑いですねぇ。大学ってまだですか」
「歩き始めたばかりでしょうに。まだよ」
雨の日以外は自転車で駆け抜ける通学路も、ゆっくり歩いてみるとなんだか新鮮だ。それに今日はクロもいるし。
「街を見ながらゆっくり歩くのもいいものよね」
「へへ、それは朝早く起こしに来てあげた私のおかぐぇっ……今日なんか直接攻撃が多くないですか!?」
「そう?」
本当はこうして緊張をごまかしているだけだ。実のところさっきから、あちこちに気をやることで緊張と不安をごまかしている。大学に行くことがこうも緊張することだったとは。
もちろん、久しぶりに登校するからとかではない。それこそ小学校の時なんかは、病気でしばらく休んだ後に学校へ行くのは変な緊張感があった。注目の的もになるし。
でもあたしはもう大学生だ。誰が休んでいるなんて誰も知らない。いい意味で他人に興味がない。すこーし休み過ぎたけど、そんなことで過度に緊張なんてしない。
緊張の原因は決まっている。実際に彼に出会ってしまったらどうしよう、ということだ。
想像の、妄想の、思い出の中の彼にいちいち過敏に反応するようなことはもう無くなってきた。でも本物の、今そこにいる彼と出くわしたら。そう思うと、心臓がきゅっと締め付けられる気分になる。
「まーいいですけどねー。私も大学とか行くの初めてですから、その案内代でチャラにしてあげます」
あたしの緊張を知ってか知らずか、間延びした明るい声を上げるクロ。あたしもそれにわざとつられるようにして気分を明るくする。
「えっ、あんた大学行ったことないの?」
「え? ああええ! 私は……あの、その、ああそうです! 専門学校! 専門学校に通っていたので! だから大学には行っていないといいますか」
「ああそう……」
まだ年上のお姉さん設定を守るんだね……。そんだけしどろもどろになってうろたえてたらバレバレなんだけど。
「ふーん」
ちょっとした意地悪を思いついた。
「ねえクロ。ちなみに専門学校って何の?」
「え? ええと」
「看護系とか? それとも美容系?」
「あ、あの」
クロは目を白黒させている。
「そういえば、専門学校と大学ってどう違うの?」
「あ、いや、その」
「ねえ、クロ? どうなの?」
キョロキョロと目をあちこちに向け、必死に何か絞りだそうとしているクロ。その様子でもう答えは見えているようなものというか、まあはっきりいってさっきからバレバレなのだが、あたしはとりあえずツッコミを入れるのを我慢して、その様子をにやにやと観察することにした。
「あ、えーっとぉ……あ、あれ! あれですよね! 大学! いやー思ったより早かったですね!」
「……」
誤魔化しやがった。ずいぶん長い間待たせたわりに誤魔化しやがった。
「……まあ、うろたえている様子が面白かったから勘弁してやるか」
「ずいぶん上から目線の者いいですね……」
むすっとしながらあたしをにらみつけるクロ。白い目で見たいのはあたしのほうなんだけど、という言葉は飲み込んで、目の前に現れた立派な門を指さす。
「ここがあたしの通っている大学」
「へぇー。広そうですね」
「まあ腐っても国立だしね。ここが一番南の端で、北の端まで歩いていくと十分はかかるよ」
「十分! ……って広いんですか? 狭いんですか?」
「えっ、うーん」
端から端まで歩いて十分って、数字でいうとあんまり広くない気がする……。
「他の大学を端から端まで歩いたことないからわかんない。例えば京都のはいくつか道を挟んで区画が別れてるし、他の大学も山の中にあるところが多いけど、ここは街のど真ん中にあるわりにほぼ一区画でまとまってるあたり広いって言っていいんじゃない?」
「ふーん」
ふーんて。自分で聞いといてふーんて。
「うわー立派な建物! 大学っぽい!」
クロはあたしのツッコミを無視して、門を入ってすぐのレンガ造りのモダンな建物に興奮する。
「これが工学部ね。正確には旧工学部本館」
「きゅう……?」
「ああ、うん。ここぶっこわすのよそのうち」
あたしの言葉に一瞬ぽかんとしたクロは、目を見開きあんぐりと口を開けて驚愕する。
「えっ、こわすんですか!?」
「うん。まだ先だけどね。ああでも、この建物は立派だし重要な建築物だから残すんだっけ? 知らんけど」
そういう情報はほとんど周知させようとしないのが大学らしいというか。まああたしにゃどうすることもできないし。京都と違ってうちは学生運動とか盛んじゃないからなあ。
「もったいない、こんな立派なものを……。因果を変えてやりましょうかね」
「なにそれこわい」
さすがに冗談だろうけど、わりとマジな顔でいうもんだからドキッとするじゃない。
「まあ必要がなければできないんですけどね。しかしもったいないなあ、こんな立派な建物群をつぶしちゃうなんて」
必要があればできるの……?
「さっきのあたりが工学部で、この辺りから理学部ね。もうじきこの辺りも立ち入り禁止になるのかなあ」
「こっちの方は普通の校舎って感じですね。で、あなたの学部はどこなんですか? 文系っていうのは聞きましたけど」
隣を歩くクロが首をひねる。
「あたしは文学部だからまだ先だよ」
「文学部? へぇ、意外」
「どういう意味」
「よーし行きましょー」
「ちょっと」
文系地区に着いたあたしたち。まだ一限の授業が終わっていないので、食堂で休憩することにした。
食堂っていってもそんな立派なものではない。中央食堂も理農食堂も何かしら建物の一階に入っているんだけど、文系地区の食堂はなんていうかプレハブ小屋みたいだ。ご飯も食堂で作ってるんじゃなくて、お弁当屋さんが来るし。
彼が理学部っていうのもあるけど、あたしはよく理系地区の方の食堂を利用している。ぶっちゃけこっちの食堂よりもなじみがあるかも。
「ほほう。これが学食というやつですね」
「別に感心するようなところではないと思うけど」
あたしも入学当初は、
『これが大学! これが大学の食堂!』
『これが
とか言って彼と騒いだこともあったけど、さすがに三年も通っていたら日常になってしまった。鶏南は大学関係ないか。
「こういうのってもったいないよね」
「?」
「ああいやこっちの話」
いつだって初めてはどきどきするし、わくわくする。もちろん緊張や恐怖もあるけど、多くの場合は興奮と期待。でもそういうのって、いつの間にか忘れちゃったり当たり前になってしまうのよね。こういうの、もったいないと思う。初心忘れるべからず、とはよく言ったものだ。あれ、ちょっと意味違うかな。
でも、忘れないと次のドキドキは得られない……のだと思う。残念だけど、それが人間なんじゃないか。次にそのドキドキを得られるのは、手の届かない過去になってからだろう。あの頃はよかったと振り返り、当時のあたりまえを思い返して懐かしむ。知ったような口を、と自分自身にあきれるけれど、最近は高校の時の出来事や地元の友達を懐かしいと思うようになってきた身としては、あながち他人ごとではなくなってきている。
――まあ、今思い返すものはドキドキじゃなくてズキズキなんだけど。
「……はぁ」
くだらない洒落を言って傷ついている場合じゃない。
「あ、そういえば二限の授業ってなんですか?」
あたしの考え事はいざ知らず、自販機で買ったコーヒーをまずそうに飲んでいたクロが思いついたように聞いてきた。
「あーなんだっけ。フランス文学とかだったと思う」
「うぷぷっ。あなたがフランス文学ですか。ぷぷーっ」
「おいこらなに笑ってやがる」
「いやだってですよ」
とかなんとか話しているうちに、学生が教室から出てきた。一限が終わったようだ。正直わざわざ一限から出てきている文系学生はあまり多くない。そもそも時間割に入っていないことも多いし。あたしも一限が入っているのは週一日くらいだけど、これでも授業取ってる方なのよ。
「はぁ。一限も終わったみたいだし、行きますかね」
「なんでそんなにやる気ないんですか。ここまで来たんだから頑張っていきましょうよ」
「うええ。めんどくさい」
自分でも今までどうして授業を受けられていたのかわからない。よくこんなんで大学来たわねあたし。
「最初は下心でも、自分が何をどう学ぶかですよ。学びはいつ、どこからでもできるのです。その気になれば」
「うっ」
至極当然でございます。何も言い返せない。
「わかったわよ。ちゃんと授業受けます」
「そうですそうです。行きましょう、フランス文学の授業(笑)」
「おい笑うな」
「あ、断っておきますが科目を笑っているのではなく、あなたがフランス文学の授業を受けているということを笑っているだけですからね。物事には似合う似合わないということがあります」
「おいわざわざそんな注釈を加えるな」
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