第12話:存在理由

 最近クロと遊んでばかりだ。晩御飯の材料を買いに行ったり、ショッピングモールをふらついたりと、幾度か外出はした。楽に死ぬことを望み、そのための道具江尾そろえるために外出しようとしていたころに比べれば、ずいぶん前向きで俗な外出目的だ。


 しかし、それもたいしたことではない。相変わらずご飯はクロがつくってくれている。一方あたしは昼間からゴロゴロしたり、ゲームでクロを打ち負かしたりと、まったく生産性がない。はたしてあたしはこれでいいのだろうか。


「いや、だめだ」

「どーしたんですか」


 食後の休憩中あたしの家にあった数年前の少女漫画を懐かしそうに読んでいたクロが、満腹感からくる眠気と戦うようなだらっとした反応を示した。右半身を下に寝転びながらでかい尻をぼりぼりと掻く様子は、ただのおっさんである。痴女だったり少女だったりおっさんだったり、こいつの正体はいまだよくわからないが、こういう個性だと思えばどうでもよくなった。


 そんなことよりあたしのことだ。このままじゃ良くないことくらいわかっている。エサを与えられて遊んでいる、なんていうのは親の庇護下にある子供のすることだ。あたしはもう子供じゃないし、クロは親じゃない。実質保護者みたいになっているのは認めるけど、だからこそちゃんと独立しないといけない。


「あたし、最近ずっと遊んでいるけど、このままじゃだめだ」


 消えること、無くなることを選ばないのなら、人というのは進み続けなければいけない。止まってしまえば、死んでいるのと同じとみなされてしまう。止まる気がないなら、進み続けないと。


「何がだめなんですかー?」

 少女漫画を読んでにやにやしているクロは、あたしの言うことをちゃんと聞いているんだか聞いていないんだかよくわからない。あたしは割と真剣に話しているというのに、クロは生返事を返す。


「とりあえずニートはまずいでしょう」

「……そういえば、あなた大学生でしたね」


 はた、と気づいたようにクロがあたしの方を向く。クロの手から離された漫画のページがバラララとめくれて閉じる。ずいぶんサボってしまったけど、あたしは大学生なのだ。大学生は大学に通って勉強しなければいけない。せいぜい二週間大学に行かなかったところで単位を落とすことはないだろうけど。


「大学、か……」

「やっぱり、行きづらいですか?」

「うん……」


 このままじゃだめだ、ということはわかっている。けど、それと実際に行動できるかは別だ……なんて言い訳しているのもニートっぽいけど。もちろん大学というのは勉学をするところなわけだけど、あたしにとっての大学というのは彼と過ごす場所なのだ。それが一番大事な理由ことだったのだ。


 あたしは彼を追って今の大学に来た。彼と別れたくなくて、離れ離れになるのがつらくて。でもそのあたり彼は妥協しなかった。そういうところも好きだった。自分のやりたいことを追求する、その姿勢は憧れだった。あたしにはそういうものが特になかったから。当時のあたしの成績では今の大学は格上だったけど、彼と離れたくないと一心不乱に勉強して、どうにかこうにか偏差値一番下の学部には滑り込むことができた。あのときは親や先生にもだいぶ迷惑をかけたな。


 あたしが彼と同じ大学に行くと決めたとき、彼はたとえ離れ離れになっても、体が時間的空間的に距離をもってしまっても、二人の心は決して離れはしないよと言った。それは優しさだった。でもあたしは首を横に振った。もちろんあたしにもそんなつもりはなかったけど、でも実際は怖かっただけなのかもしれない。


 電話やメールじゃだめなのだ。直接会って、同じ空気を吸って、同じ景色を見て。そういう風でないとだめだったのだ。同じ空を見てるなんてシンガーソングライターがよく歌うけど、同じ空を「となりで一緒に」見ていたかったのだ。


 当時のあたしは自分の事を独占欲が強い女だと自嘲したけど、結局のところ怖かっただけ、いや、自信がなかったのかもしれない。自分の愛に。自分を愛してくれている彼の愛に。あれだけ大恋愛をしたと言って、深い愛で結ばれていると語って、結局は信じきれなかったのだろうか。そうだとしたら、なんて滑稽なのだろう。


「あたし、フられたんだよね……」


 そう。あの大学はあたしが彼と一緒にいたかった場所。つまりは彼と顔を合わせてしまう可能性があるということだ。それにたぶん、あの浮気相手も。そんなところに――。


「……行きましょう。大学」

「え?」

「行くべきです。いいえ、行かなきゃだめだ。それはあなたが真に幸せになるために必要なことです」

 今までもたまに見せていた、クロの力のこもった言葉にあたしはすこしたじろぐ。


「あなたは、私と遊んでいる時は普通に楽しんでいるようでした。オセロでも、テレビゲームで遊んでいるときも、お買い物をしているときも――」


 ここ数日を思い返すように言葉を重ねるクロ。彼女の言う通り、あたしはこの数日、彼女と遊んでいて楽しかった。自分でも薄情な女だと思う。けれど、クロと遊んでいるときは彼のことを忘れていられたのは事実なのだ。


「でもそれは表面上の、気分の問題でしかないのでしょう。あなたの心の傷を癒せているとは思えません。あなたが心から幸せだとは思えないのです。――不甲斐無いことですが」


 クロの言葉は、先ほどの力強さとは打って変わって尻すぼみになっていった。本当に申し訳なさそうにしょげてみせる。あたしは慌てて、腕を振って彼女の謝罪を否定する。


「不甲斐無いなんて! あんたのせいじゃないよ! ……これはあたしの問題なんだから」

「しかし……」

 あくまで自分の責任だと言わんばかりの表情をするクロに、おもわず言葉が漏れ出してしまう。


「確かにあんたと遊ぶのは……不本意だけど楽しいよ。でもあんたの言う通り、確かにそれは気を紛らせる程度でしかない。これを乗り越えるには、この痛みを乗り越えるには、結局あたしがなんとかするしかないんだ。それにね――」


 恥ずかしいけど、あたしは真っ直ぐクロの目を見て言った。ここで言わなきゃどこでいうんだと、ここで自分の気持ちを言葉にしないと女が廃ると思ったから。本当に、心の底から恥ずかしいけど。


「――こんなことを思えるようになったのはあんたのおかげなのよ?」


 あたしのために、いろんなことに気を使ってくれたのがクロ。おいしいご飯を毎日つくってくれたのがクロ。あたしの選ぶ服を着たいと言ってくれたのがクロ。世界に絶望しかなくて、自分が消えるしかないと思っていたあたしを引き留めてくれたのがクロ。乾ききってもう何も感じないと思っていたあたしの心がまだ枯れていないとわからせてくれたのがクロ。


 あたしに、幸せになれと言ってくれたのが、クロ。


「……、ありがとうございます」


 まさかあたしが面と向かってこんなことを言うとは思っていなかったようで、クロは一瞬面食らっていたが、すぐにかわいらしく頬を赤らめて恥ずかしそうにしていた。でもあたしのことばを、なんていうか、これはあたしの妄想なのかもしれないけど、ちょっと誇らしげに受け止めているようにも見えた。


「……っ」


 その様子を見て、改めて自分の言葉に恥ずかしさを覚えたというか。クロが恥ずかしがっているのが伝染したというか。結局目をそらしてしまう。


「……」

「……」

 しばらく二人でもじもじと恥ずかしさに悶えた後、あたしは言った。


「……行くよ、大学」

「――!」

 ぽつりとつぶやいたあたしの言葉に、クロががばっと顔をあげる。


「あたしは行く。まだ怖いけど。もし彼に出会ったらどうしていいかわかんないけど。……でも、いつまでも逃げているわけにはいかない」


 彼に会わないようにするだけなら、いくらでも方法はあるのだろう。それこそ、クロのよくわからない能力ちからで彼と出くわさないようにしてもらうこともできるかもしれない。あたしが頼めば、きっとクロは何とかしてくれる。


 でも、それじゃだめなんだ。きっとクロなら、あたしから彼の記憶を全て消し去ることだってできるのだろう。根拠があるわけじゃない。そんな気がするというだけだけれど、でもきっと彼女はなのだ。そういうものだと――思うことにした。


 そのクロが、決してそうしようとしないのは、きっとそうしては真に幸せになれないからだ。ならば、あたしは彼から逃げているだけではいけない。いつまでも逃げ回ってちゃ、何も解決しない。何も始まらない。


「……」

 クロは黙っている。きっと、あたしが今大学に行っても大丈夫なのかとか、彼と出会ったときどう動くべきかとか、そういうことを考えてくれているのだろう。彼女はいつだって、あたしのことを考えてくれていたのだから。

 少しの沈黙の後、クロが口を開いた。


「……わかりました。私もついていきます」


 それは、あたしと同じくらい……もしかしたらあたし以上に決意を固めた表情をしていた。あたしに大学へ行けと言った手前、あたしが腹をくくったなら自分も腹をくくらなければというような……。

 いや、きっとそんなんじゃないな。クロは単にあたしのことを自分の事の様に想ってくれているだけだ。彼女は優しいから。


「ついてきてくれるの?」

「ええ。まあ、何かの拍子に勝手に死なれては困りますしね。仕事に失敗して怒られるのは私ですから」

 急に皮肉っぽい言い方をするクロ。困るとか怒られるとかもきっと事実なのだろうけど、本心ではすごく心配してくれているのだろう。ほとんどは照れ隠しだ。絶対。


「……ありがとうね」


 あたしは、もう感謝の言葉をためらわないことにした。はっきり言うのはちょっと恥ずかしいけど、あたしのこの感情を感謝だとするには、その言葉を重ねるのが一番だと思ったから。


「……いえいえ。それでどうします? 今から行きますか?」

「え、今から?」

 クロの唐突な提案(いや別に唐突なわけじゃないんだけどさ)に思わず聞き返してしまうあたし。


「善は急げ、と言いますし」

 いや、そうなんだけど。なんていうかその、心の準備というものが……。


「今日はその……もうご飯も食べたし……」

「まったく引きこもりまっしぐらですね」


 はぁ、とわざとらしくため息をつくクロ。まずい。これはトラウマがとか心の傷がとかいう話以前に、連日の引きこもりのような生活、もといニートのような生活があたしの肉体及び精神に多大な影響を及ぼしている。簡潔に言うとクロの言葉通り引きこもりまっしぐらだ。

 どうにも何か目的をもって家を出る、という行為が非常に億劫になっている。早く何とかしないとまずいぞあたし。


「じゃあ、わかりました。何かご褒美を設けましょう。ご褒美があればあなたもやる気が出るでしょう?」

「あたしは子供か」

「大人も子供も扱い方は変わりませんよ」

 ちぇ、急に大人ぶりやがって。これはやる気の問題じゃなくて体質の問題だっての。


 思い返せば、そもそもあたしの行動原理って彼なのよね、高校で彼と出会ってからは。それまではそんなに積極的に行動するタイプでもなかったし。というわけであたしが今だらけているのは当然の帰結というか、生まれ持った使命というか、信念というか、魂に刻み込まれた――。


「では、あなたがちゃんと幸せになったら、あたしが何でも一つお願いを聞いてあげます」

「今なんでもって言った?」

 クロの言葉にすさまじい勢いで食いつくあたし。


「ええ、言いましたとも。私にできないことはないのです。所詮あなたが思いつくようなことなら、なんでも聞いてあげますよ」

「ふーん。言ったわね。じゃあじっくり考えさせてもらうわ……!」


 言質はとった。覚悟なさい、クロ。……なんて、幸せになったうえお願いまで聞いてくれるとかずいぶん虫のいい話だ。そんなにたくさんクロにしてもらうわけにはいかない。


 あたしが幸せになることでクロにどういう益があるのかわからないけど、クロのためになるならあたしは全力で幸せになる。そして幸せになった暁には、幸せになったんだからあんたにお願いすることなんてない、って突っぱねてやろう。


「そのかわり、ちゃんと幸せにならないとだめですからね? 手始めに明日からしっかり大学へ行きましょう」

「うへー」


 それに、あたしの願いは、きっとクロにはかなえられない。ただ彼女を困らせてしまうだけ。なら、この願いは、この想いは伝えない。伝えることはできない。


 ――ずっと一緒にいて、なんて。

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