第9話:日課
このところ忘れていたが、風呂のあとに欠かさぬ日課があった。
「……くっ」
洗面台の鏡に映った一糸まとわぬ姿のあたしは苦渋の表情を浮かべている。何かの間違いだと思いたいあたしは、体の水分を今一度しっかり拭い、再び世界を縛る法則を数値化する機械に足を乗せる。
「ばかな……」
表示された数値は、あたしに働く重力が国際キログラム原器5個分増加した現実を突きつけていた。
「そりゃあまあ、クロにご飯をつくってもらってばかり家からも出なけりゃこうなることはわかってたけど……」
認めたくない。けど、足元の体重計は非情だ。いくら体を拭こうが片足で立とうがその数値は変わらない。
まずい。これはまずい。自らの腹肉をつまんで、改めて自分の体が堕落してしまったことを痛感する。本当にまずい。
「この肉が、もう少し上にいけば……」
あたしの日課は、主に胸部周辺の質量を増大するストレッチを行うことである。豊満になるのは腹でなく胸にしていただきたい。悲壮感漂うこの胸に少しでも肉を移せないかと必死になって体をまさぐっていると、
「いくら暑くなってきたからといって、さすがに裸のままだと風邪ひきますよ」
「ひゃあああ!?」
先に帰ったはずのクロが鏡に映っていた。
「そんなに驚かれるとこちらがびっくりしますよ」
慌てて後ろを振り向くと、目を丸くしたクロが脱衣所の入り口に立っていた。
「な、なな……!?」
なんで、という言葉を出す前に、自分が裸であることを思い出して体を腕で隠す。
「そんなに慌てて隠さなくても。女同士で裸くらい」
「ほ、ほっといて!」
クロの呆れ顔を尻目に、あたしは慌てて下着をつける。
「そ、それよりクロ、帰ったんじゃなかったの」
「いやあ、忘れ物しちゃいまして」
「そ、そう」
てへへ、と頭を掻くクロの仕草に、いやに目を奪われてしまう。
「……そう見つめられると気恥ずかしいのですが」
「あ、や、何でもない。それで、忘れ物はあったの?」
「あ、はい。ありましたありました。時計、ポケットから出したまま忘れちゃって」
見るとクロの手には、今どき珍しい懐中時計が握られていた。そのくすんだ金色の時計はいたって簡素なつくりで、竜頭の付属物から短いチェーンが伸びているだけだ。
「明日回収すればいいのに」
「まあ、そうなんですけど」
と言いつつも大事そうに畳んで懐にしまう。
クロはこれをいつも持ち歩いているようだったが、実際に使っているところは見たことがない。それもそうだ。だってその文字盤は動いていないのだから。
「壊れているのに、買い替えないの?」
「ええ、まあ。これはおまもりみたいなものなので」
そう言うクロの表情は、普段朗らかで飄々としている彼女が見せたことのない、愛おしさの中に憂いを帯びたものだった。あたしはその顔から今度こそ目が離せなくなる。
「ふーん……」
何だろう、この感じ。
好きじゃない。
*
「買い物に行こう。クロ」
次の日も朝から強い日差しがあたしの部屋を焼いていた。すごくめげそうになったけど、なんとか自分を鼓舞してクロにそう切り出した。
「いいですけど、どちらへ?」
「えっと、モールのほうまで」
「まあ……大丈夫でしょう」
あたしのことを心配してか一瞬渋い顔をするクロだったが、すぐに表情を崩した。
最低限の身だしなみだけ整えて、初夏の太陽のもとへ素肌をさらす。
「暑くなったもんだ」
「そうですねえ。コンクリートジャングルですねえ」
あたしとクロはちぐはぐな会話をしている。まだ夏本番でもないのに、すでに熱が思考を奪っていく。最近の夏はやる気を出し過ぎだと思う。
「この辺りは海が近いからか、空気がじっとりしてるよね」
「そうですかね。言われてみれば」
「あたしの地元の夏はもっとカラッとしてたから、余計にそう感じるのかも」
「まあこの辺りは海風も強いですしねぇ」
国道沿いを、大学のある方とは逆に歩いていく。ショッピングモールまでは徒歩で三十分ほどかかるが、しゃべりながらだとそれほど苦ではない時間と距離だ。
「そういえば、この辺の道って南北に通ってないから上がる下がるって言いにくいよね。あたし的には今下がってるつもりなんだけど、正確にはこれ南西向いてるんだもんね」
「海岸線が湾曲してますからね。地形に沿って作るとどうしてもそうなります」
他愛のない話をしながら、背中にじっとりと汗をかきつつ歩みを進める。そういえば、砂浜の方へドライブしていったこともあったっけ。
「しかしなんでまた急に買い物行こうなんて言い出したんです?」
「え、いやまあ、服でも見ようかなーなんて」
「そうですか。でも高々5キロで服のサイズはそう変わらないでしょうに」
……。
「あ、それともこうして歩いていくのが運動になるという魂胆でしょうか。さすがにそれは甘いのでは」
「い、いつの間に見てやがった!」
「あなたが馬鹿みたいに何度も体重計に昇り降りしてたので、後ろからこっそりと」
「なんて悪趣味な奴だ!」
訴えてやる!
「まあまあそう怒らずにっ。大丈夫大丈夫。5キロなんて誤差ですよ、5キロなんて」
「あんたそれでも女か。あと5キロを強調するんじゃないわよ」
「でも服着てかばんを持てば5キロ増えるでしょう? 考え過ぎなんですよ」
そりゃあ……いや、結局絶対量は増えているんだから関係ないだろ。騙されるところだった。
「そうでしょうか? まあ今のあなたは単純な運動不足ですからあれですけど」
「……」
「綺麗でいようという心がけは殊勝なことですが、世の女性は少々そのことに時間と労力を割きすぎだと私は思うのですよ」
何か思うところがあるのか、急に語りだすクロ。
「だいたい学生時代はろくに化粧なんてしないくせに社会に出たとたん急に化粧しないといけないみたいな風習なんなんですかねあれ」
「あんた十何歳じゃなかったっけ」
「何のことでしょう」
こいつ本当に何歳なんだ……?
「ていうか、まさかだけど、今あんたって化粧は……?」
「ちょっと乾燥肌なので化粧水はしてます」
「それだけ?」
「あ、あとリップクリームは持ってます」
「それは化粧とは言わない!」
そんな馬鹿な。こいつこれですっぴんだったのか。
「うわ、ほんとだよく見たらシャドウもチークもしてないじゃない! はあ!? ふざけんなよ!」
「いひゃいでふ」
あたしになすがままに頬を引っ張られているクロ。なんてもち肌……!
「信じられん……。なんだこれ、小学生か?」
うにうにと肌をこねくりまわす。なんて羨ましい。
「あの、さすがに道の真ん中で向き合って止まっていると変に思われると思うのですが……」
「……」
衝撃の事実に周りが見えなくなっていたが、傍から見ると歩道の真ん中で向き合って顔を寄せている女二人という構図だった。というかいつの間にか目と鼻の先にクロの顔があって、脳内に天変地異が起こる。暴風雨や落雷、大地の隆起・沈降、荒ぶる神羅万象を一瞬で鎮め、素知らぬ顔ですべてをなかったことにすることにした。
「……さあ、運動だ運動」
「指摘されて恥ずかしくなったんですねわかります」
そうだけど違う!
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