第8話:外出

「お買い物に行きませんか?」


 クロがやってきて一週間。お昼にそうめんを食べていると、彼女が唐突に提案してきた。


「買い物?」

「はい。だってあなたもうだいぶ家から出てないでしょう。たまには運動もしないと健康によくないです。だから買い物に行きましょうよ」


 最後に家を出たのはベランダから脱出を図ろうとしたときだ。


「外、か……」


 クロが朝昼晩とご飯をつくってくれるので現状引きこもりのような生活をしているが、あたしは別に外に出たくないわけではないのだ。確かに世界のすべてを呪った時もあったが、今はそんな思いはない。あまり。クロとの日々を過ごすにつれて、死にたいと思っていたのが昔の事に思えるくらいには、心にごまかしが効くようになっていた。


 問題は、外に出ると彼との思い出が押し寄せて来るということなのだ。


 大学とその周辺はもちろんのこと、都市部の方や観光地も余すところなく彼との思い出であふれかえっている。多少心をごまかせているからといってこの部屋から出てしまえば、水で固めた程度の砂の心はもろく崩れ去ってしまうだろう。


「心配、ですか?」

 クロが箸を止め、真っ直ぐにあたしを見る。

「うん。まあ、ね」

「そうですか……」


 クロは顎に手を当て何かを思案したのち、大丈夫ですよ、と軽く言い放った。

「大丈夫。私がついてますから」

「クロ……」


 普通なら、あんたがついていたからって大丈夫な保証はない、なんて文句も言いたくなるところだが、不思議とそういう反論は出てこなかった。彼女の『大丈夫』には、そういう疑問や不安を取り去ってくれるような安心感と、全てを受け入れてくれるような抱擁感があった。


「どうしてもだめというなら、急ぎはしませんが……」

「……いや」


 いつまでも同じところを廻っていてはいけない。


「行こっか、買い物」


 終わる気がないなら、進み始めないと。


「わかりました。では、お買い物に行きましょう」

「うん」

 たかだか買い物に行く程度の話なのに、さも冒険に旅立つかのような緊張感が漂う。でもこのくらいの方が、気が紛れていい。


「もしつらくなったら私の胸に飛び込んでくださっていいんですよ!」


 クロがデカい乳をぼいんぼいんと揺らしてせっかくの緊張感を台無しにしたので、絶対飛び込んでやるかと心に決めた。



「……」

 それだけ意気込んで、やって来たのが近所の食品館だった時のあたしの感情を答えよ。


「お、今日は豚肉が安いんですね。今晩は冷しゃぶにしますか」

「……えーっと」


 お買い物に行きませんか? と改まって提案された以上、てっきり都心で服やアクセを見たり、食料品でもデパ地下でちょっとお高いスウィーツ店を冷やかしたりするものだと思っていたのだが、まさか普通に食料の調達だとは思わなかった。


「副菜は何にしましょう。何か食べたいものあります?」

「え、か、唐揚げ?」

「それはおやつでしょう。あ、キュウリが安い。酢の物にしましょうか」


 唐揚げはおやつだったのか……。ていうかあたしの言うこと聞く気ないじゃない。あたしに聞くより品揃えや値段と相談した方が効率いいってわかってるんでしょ、とちょっとむくれてみる。


 ……そうじゃなくて。


「買い物って、ここ?」

「ええ」

「あんだけ大仰な前フリして、ここ?」

「ええ」

 あたしの困惑を尻目に、クロは手慣れた様子で食材をポンポンとかごに入れていく。


「うっかりしてて晩御飯の食材がなかったんですよ。だから買い出しに来なきゃいけなかったんですけど、どうせだったらあなたに運動させようと思いまして。あ、別に荷物持ちとしてよんだわけじゃないですよ。どのみちいつも私一人で買ってきてるんですから」

「それは感謝してるけど……」

 豚肉のパックを見比べてうんうんうなっているクロ。拍子抜けしてしまったあたしは、はああとため息をつく。


「なんですか。奥さんの買い物が長くて飽きた旦那さんですか」

「違うわよ。あまりに普通で気が抜けたの」

「普通だと思えているなら僥倖です」


 さらりとクロがつぶやいたが、あたしはぎくりとした。あたしの表情を読んでか、クロが言葉を続ける。


「ここ数日で、あなたは家の中に居る限り思い出に押しつぶされるような様子はありませんでした。それは自宅が思い出の場所という以上に自分の生活の場だったということ。それからあなたは料理がからっきしなので、おそらくご飯をつくってあげるなんてこともほとんどなかったでしょう。とすると、こういった場所は単なる自分の生活域でしかなく、あなたの負担が少ないと踏んだのですが、あたりだったようですね」


 クロがつらつらと語る内容は自分ではイマイチピンと来なかったが、クロがいろいろ考えてこの場所に連れてきてくれたというのはよくわかった。


「……かご、あたしがもつよ」

「え、いいですよ」

「いいから」


 クロの手から買い物かごを奪う。先ほどのクロの例えではないが、いつまでも亭主関白な旦那のようにしているのはあたしの良心が耐えられない。


「なんですか急に、気持ち悪い」

「気持ち悪いとはなんだ」


 ただご飯をつくって遊んでいるだけだと思っていたら(もちろんそれもありがたいことだが)、クロはあたし以上にあたしのことを考えていてくれた。初めて家にあげたときにクロの言った、あたしの傷を癒すとか、幸せにするとかいうことを本気で考えてくれているんだ。

 何気ないことだったけど、今この瞬間に心の底からそれがわかった。


「……っ」

 何だろう。それがわかったとわかった瞬間、頬がじんわりと熱を帯びる。この感触を、この感情を、あたしは知っている。


 無償に無窮に無常に、時に何もかもを与え、時に何もかもを奪う。これはそういうものだ。


「ちょっと、ぼーっとしてないで、次行きますよ」

「あ、う、うん」


 クロがあたしを振り向き急かす。あたしはなんだか彼女の顔をまともに見れないで、俯きながら一歩後ろをついていった。

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