第4話:救いのしるべ
はたして次の日、やはり彼女はやって来た。
『おっはよーございまーす! 今日もいい天気ですねー』
どうせここでどんなに抵抗しても、最後にはこの扉を開けることになるのだろう。そうはわかっていても抵抗しないと絶対まずいと頭では理解しているが、心が抵抗することをあきらめてしまっている。決して昨日の肉じゃがで懐柔されたわけではない。下手に問答をすると疲れて死ぬ気をなくすのでやめたのだ。
しぶしぶだ、しぶしぶ。あたしはおとなしく、かつしぶしぶ扉を開ける。
「……朝から元気ね」
「そういうあなたは元気がないですねー。ちゃんとご飯食べましたか? きちんと食べないと体調崩しますよ」
「……食べたわよ」
「そりゃあよかった。どうです? 私の肉じゃがは美味しかったですか? まあ美味しかったでしょうけど」
「……」
期待のまなざしで見つめてくる。いや、一見期待しているようでこれは自信ある顔だ。どうせ正直に答えたら得意げな顔で「へっへーん。でしょうでしょう。当然です」とか言うだろうことは目に見えているので、とりあえず無視する。
「そろそろあんたは何者なのかを教えてほしいんだけど」
「質問を無視するということは、美味しかったということですね。へっへーん。そうでしょうそうでしょう」
無視しても結果は同じだった。
「当然です。あの肉じゃが誰が作ったと思います? 私ですよ私! そりゃあ美味しいですよ。だって私が作ったんですもん」
いや無視した方が面倒な結果になった。
「うーん。私の料理が美味しいことは百も承知ですが……でも自分の口から言ってほしいですね、そういうことは。……そうだな、じゃあ、あなたが自分の口で『美味しかったです』と言えたら、さっきの質問、私が何者かについて教えてあげてもいいですよ」
いじわるな笑みを浮かべていやがる。なんて面倒なやつだ。
「……」
「なんですか?」
「……です」
「えー聞こえなーい」
このやろう。くそ、観念するしかないか。
「あーもうわかったわよ! 美味しかった! とっても美味しかったです! これでいいんでしょ!?」
お腹だけでなく心まで満たされ、不覚にも零れ落ちたものがあったことは死んでも言わない。
「はーいよくできました。お姉さんがなでてあげよう」
「うぷっ」
不意を突かれてぎゅっと抱きしめられる。抱きしめながら頭を撫でるものだから、その豊満な脂肪の塊に顔がうずめられ息が詰まる。なんだこの状況。漫画か。あたしは女だ。
「ちょっと、やめなさいよ!」
「えーなんでですか。人肌のぬくもりが恋しいでしょう? いいんですよもっと甘えても」
「女の胸なんて恋しくないわっ! いいから質問に答えてよ!」
「先に質問を無視した人がそれを言いますかね……。まあいいでしょう。答えてあげます。というか最初に自己紹介したと思うんですけど」
こほん、と咳ばらいを一つ、彼女は言った。
「私は次世代型宅配治療サービス『デリバリーヘルスケア療養士』通称デリヘルのクロと申します。あなたが心に深い傷を負って今にも死にそうだったので、その心のケアをしにやってまいりました」
「……はぁ」
そういえば最初もそんなこと言っていた記憶がある。しかしながら何を言っているか全くわからない。
「とりあえず言わせてもらうけど、何そのネーミングセンス」
「え、そうですか? 結構いいと思うんですけど。略もかわいいですし」
「いや、その略称が余計まずいでしょ」
「なんでですか?」
不思議そうな顔をして首をかしげる(主に服装と胸部のせいで)どう見ても本職としか思えない彼女。こいつ本当にわかってないのか?
「まあ私が考えたわけではないので何とも言えませんが」
「今度それ考えたやつに会わせろ。はっ倒してやる」
いたいけな少女――じゃないなこいつ。えっと、女子になんてこと言わせるんだ。切り捨てるべし。
「……それはともかく。何だって? あたしの心の傷を癒しに来たって? あたしそんなこと頼んでないし。それになんであんたがあたしの心の傷なんて知ってるのよ」
「それが仕事だからとしか……」
困惑顔の一言で片づけられた。
「あんたの仕事って何よ」
なんだか堂々巡りの会話をしている気がするが、何でもいいからあたしはこの、毎日押しかけてくる女の正体を知りたいのだ。
「先ほども言ったとおりですが、私の仕事は心に深い傷を負い、死を選ぼうとしているような人の所に出向き、その傷が癒えるお手伝いをすることです。あなたは先日、長年付き合ってきた最愛の彼氏に残酷な振られ方をして、自ら死を選ぼうとするまでに追い詰められた。だから私が派遣されてきたんです」
「……!」
一瞬目の前が白黒に明滅する。ずきん、と走った痛みは虚構か、それとも現実のものか。
「……どうして知ってるの」
呼吸を落ち着け、言葉を続ける。
「なんでそんなことしてくれるの。あんた、神様かなんか?」
自分で言っていてばかばかしいが、そうとしか思えない。こんな言葉が出てくるとは、あたしは思ったよりまいってしまっているのかもしれない。
死ぬなんて発想は一時の気の迷いでも思いつくもの。本当にオカシクなってしまったら……。
「神様の使いというよりはアクマとの契約というか……」
「悪魔……?」
「ああいえ、こちらの話です。気にしないで。あなたは救われることだけを――幸せになることだけを考えていてください」
「そんなこと言われても……」
救われる。救われるってどういうことだろう。幸せになるってどういうことなんだ。あたしは幸せだったのに。幸せだったところから、堕ちてきたというのに。
彼のいる世界はすべてが幸せで、救われるってことじゃないけど、彼がいるということが生きていく理由であり、彼がいるからこそ生きていけた。そんな彼のいない世界に興味はないし、未練もない。生きていく理由も、生きていけるという可能もない。
それくらいの愛だった。
――少なくともあたしの中では。
それがないのに、幸せになんてなれるわけがない。幸せになることなんて、考えられるわけがない。
「まあこっちで勝手にやりますから」
そして彼女は軽く微笑むと、
「それじゃあ今日はこの辺で帰りますね。また明日来ます」
そう言って「では」と会釈をして帰ろうとする。
彼がいないまま幸せになるなんて、そんなのできるわけない。
……それでももし、この世界に、この彼のいない世界に、まだ生き続ける意味があるのなら。それを見出すことができるというのなら。
救いがあると、いうのなら。
「……待ちなさいよ」
「はい?」
つい何かが、奥底の方から漏れた。引き止める台詞を聞いた以前正体不明の目の前の女は、振り向きかけていた体を止め、目をぱちくりさせた。
「どうしました?」
引き止めてしまった自分自身に混乱したあたしは、さらに余計なことを口走ってしまう。
「お、お客さんにお茶を出さないのはあたしの仁義に反するわ」
「今まで散々門前払いしてきた人のセリフとは思えませんが」
「う、うるさい! だ、だから……その……あ、上がっていきなさいよ……」
「……!」
彼女は一瞬虚をつかれたようにぽかんとしていたが、すぐに無垢な子供のように破顔した。
「はい!」
彼女の浮かべた太陽のような笑顔は、あたしにはまだちょっとまぶしすぎたけど。
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