第3話:食糧問題

 今日は秘策がある。


『こんにちはー。宅配便でーす』


 嘘つけ。のぞき窓で確認しながらつぶやく。

 あ、いや、そういえば最初宅配なんとか、って言ってたから、本人からすれば間違いじゃないのか。しかし奴は場違いだ。なんで来るんだ。これ警察呼んでもいいんじゃないか?


 ここのところ毎日のようにこいつに押しかけられている。毎度扉を開けてしまっているが、なんとかまだ家の中には入れていない。しかしそうやって続けてきた籠城生活にも、限界が来てしまったので、いい加減外に出ないといけない。


 早く死にたい、というのもあるが、もっと現実的で対極の問題が浮上した。


 食糧問題である。


 いくら死にたいと思っていても腹は減る。料理が得意でないあたしのうちの冷蔵庫の中はとっくに空になり、買い置きしてあった冷凍食品やインスタント麺の類もとうとうなくなってしまった。お米だけはまだ少しだけあるが、それも今日明日で尽きてしまうだろう。備蓄が尽きてしまったならば、なんとしてもこの女を突破して食料を入手せねばならない。でないと自殺する前に餓死してしまう。


「まったく変な話だけれど」

 死にたいという欲求より食欲の方が勝るのだから、あたしという人間はまだ生物として保っているのだろう。


『やっほー元気―? 私は元気ですよー』


 重ねて言うが、今日は秘策がある。


 彼女はあたしが玄関の扉を開けるまで、あそこで呼びかけ続けている。そして出てしまえば精神的に疲弊させられて、その日は何もやる気が起きなくなる。もちろん自殺も含めて。

 そして家にあげたが最後、何かしら面倒なことになる。絶対に。今まで家に上がられずになんとか来たが、それも時間の問題な気がする。それまでに何としても家を出て、食料を調達せねばならない。我慢比べには兵糧くいものが必要だ。


 そこで思いついた。

 なぜあたしは正面から突破しようとしている?

 別に玄関から出なくてもいいのでは?


 というわけで、今日はベランダから出ることにした。


 あたしの家はアパートの二階の角なので、ちょっと高いがまあ雨どいをつたえば何とかなるだろう。秘策というほどではないかもしれないが、思いついたときは天啓とまで思ったのだから仕方ない。これから死ぬ奴が天啓とは笑い話だが。


 おしゃれなヒールではなく滑らないようなスニーカーを持ち、財布の入ったポーチを肩に、ひっそりとベランダへ向かった。


「うお……思ったより怖い」

 たった一階分だというのに、普段しないことをするのはちょっと怖い。こりゃやっぱりあたしに飛び降りは無理だな。


「よ……っと」

 雨どいに足をかけ、ちょっとずつ滑るように下りていく。

「お、なんだ楽勝じゃん」

 はじめは怖いと思ったが、所詮は一階分の高さだ。雨どいを三分の一も下ればあとは飛び降りても問題ない高さに……。


「最後まで気を抜いちゃだめですよー」


「!!?!?!??」


 自分でも驚くような高音の悲鳴を発して今しがた降りてきたといを駆け上る。

「おお、すさまじいクライミング」

 彼女の驚きポイントは、あたしが驚いたはずみに一気にベランダまで雨どいクライミングしたことの方にあったようだ。


「どうせそろそろ食料が尽きたんでしょう? そして私を避けて出かけようとするなら、ベランダから脱出するしかないですもんねー」

「く……」

 全て読まれていたのか。

 ふっふーん、と得意げにふんぞり返っているのが非常に腹立たしい。


 しかしこうなってはどうしようもない。

 今日は米だけで過ごすか……。


「ちょっとちょっと! まだ引っ込まないでくださいよ。玄関の方に回りますから、ちゃんと扉を開けてくださいね!」


 あたしがすごすごと部屋に引き返そうとすると、彼女は慌ててそう言って、すらっと長い足ですたすたと玄関の方へ歩いていく。スタイルいいな……。

 そして歩くたびに胸が揺れる。恨めしいな……。どうなってるんだあれ。どうしたらあんなに育つんだ。あたしなんてお風呂上りにずっとストレッチしていているのに、まったく育つ様子がないのだけれど。


 今日は完全にあたしの負けなので(今までも勝ったことなんてないが)、おとなしく扉を開ける。

「……何?」

「そろそろ食料が尽きるころだろうと思ったって言ったじゃないですか。だから、はいこれ」

 そういうと奴はお鍋を差し出してきた。いったいどこから出してきたのだろうか、先ほどは持っていなかったのに。


「何これ?」

「肉じゃがですよ、肉じゃが。こういうおすそ分けと言ったら煮物とか肉じゃがが定番でしょ?」

 でしょ? と言われても。


「したこともされたこともないから知らないけど……。じゃなくて、何のつもり?」

「いやあ、やってみたかったんですよね、こういうの」

「……」

「そ、そんな目で見ないでくださいよ。ゾクゾクッとしちゃうじゃないですか」

 わけがわからない、という冷たい目で彼女を見ると、頬に手を当ててくねくねと照れた。うっとうしい。


「だいたい、あたしが受け取るとでも思っているの?」


「受け取りますよ。あなたはいい人ですから」


 あたしが受け取らない、という未来は絶対にないと思っている。それは自信があるという程度のものですらなく、ただただ事実ほんとうのことを述べているだけだというような物言いだった。


「……なんであんたがあたしのことわかるのよ」

「私には何でもわかるんですよー」

 今度はえっへん、と得意げに鼻を鳴らす。超むかつく。


「仮に受け取ったとして、あたしが食べるとでも?」

「食べてください」

「――」

 先ほどの自信でも得意然としたものとも違う、有無を言わさぬような迫力。


「食べてください。食べることは生きることの必要十分条件です。どんなにつらくてもおなかは減りますから。食べないと死んでしまいますから。それに――」


 間隙。


「――私の作ったご飯は、おいしいですから」


 ぱち、と軽くウィンクをして「はいじゃあこれ」と渡された鍋をつい受け取ってしまった。


「ちょ、ちょっと!」

「じゃあまた明日来ますねー」

 ひらひらと手を振りながら、すたこらさっさと帰って行ってしまった。


「……」

 彼女の後姿を、鍋を手に呆然と見送る。その間、今日は向こうから帰っていったな、などとどうでもいいことを考えていた。手の内の鍋を押し返す暇も気力も持たせてくれなかった。


「肉じゃがか……」

 してやられた。

「大好きなんだよね……」


 肉じゃがはあたしの好物だ。

 うちの家族は肉じゃがにご飯をぶち込んで食べるのが習慣なのだが、あたしはこの食べ方が好きすぎて肉じゃがもご飯もおかわりするものだから、食後しばらく動けなくなるほどだった。つまりそのくらい好きだ。


 というか奴は一体何者なんだ。なんでピンポイントにあたしの好物を持ってくるんだ。あたしのこと全て知っているのではないだろうか。普通なら恐怖しそうなものだが、良くも悪くも今のあたしは普通じゃないので疑問が先行する。


「……」

 いまだ持ったままの肉じゃがの鍋を見つめると、ぐう、とおなかが鳴った。


「――っ!」

 つい首を振って周囲を確認してしまう。誰も聞いていないのに、無性に恥ずかしくなる。

「くうっ」

 不本意である。非常に不本意ではあるが。


「こ、これで勝ったと思わないことね……!」


 誰も聞いていない、まったく無駄な捨て台詞を吐いて台所へ引っ込む。久しくお湯を沸かすことにしか使われなかったコンロにがしゃんと鍋を置き、コックをひねって火をつける。


 しばらくして、コトコトとふたが揺れる音とともにいい匂いがしてきた。

 追い打ちの様にあたしのおなかがまた鳴る。


「なにやってるんだろう、あたし……」


 ふたを開けると、湯気とともに押し込まれていた食欲を誘う肉じゃがの匂いが脳みそをダイレクトに襲う。同時にその粒子がお腹に充満し、空腹を加速させる。カップ麺、冷凍食品、どちらも香ばしい匂いはするけれど、これほど暴力的に心身を刺激する食べ物は本当に久しぶりだ。


 たとえ一人の食事でも、これだけは欠かさないように心掛けている。

「……いただきます」


 おそるおそる、口に運ぶ。

「……っ、うぅ……うぁ」

 だめ、いけない。せっかく肉じゃがなのに、せっかくとびきり美味しい肉じゃがなのに、塩味が混ざってしまう。枯れた泉から、なみだよけいなものがあふれだしてしまう。


 久しぶりに食べた肉じゃがは、あたしの乾ききって崩れ落ちた砂の心を再びかたちあるものに戻してくれるようだった。

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