第2話:化膿
夢を見た。
彼と幸せだったころのあたし。
世界が輝いて見えたころのあたし。
……何も知らずに騙されていたころのあたし。
ああ、このまま何も知らずに夢を見ていられたら……。
……。
……。
……ほんとうに?
びっしょりと汗をかいていた。
「……んん」
何かの音で目が覚めた。
「あたま、いた……」
頭を押さえながらベッドから起き上がる。
「うわ……髪ボサボサ……。肌もガサガサじゃん……」
言って、はたと気が付く。
「もうこんなこと気にしても仕方がなかったんだっけ」
寝て起きたら気が変わるかとも少し思ったが、しかしそんなことはなかった。頭は正常に戻ったが、現実がこれ以上ないほど――まさに最悪だということは何も変わっていない。
ピンポーン。
玄関の呼び鈴が鳴った。あたしの目を覚まさせた音もこれだったのかな。
「こんな時間に……あ、なんだ。もう昼前なのか」
時計を確認する。思ったよりも寝ていたようだ。死ぬ前にぐっすり眠るとは、もはや余裕を感じるほど心が死に近づいてしまったのだろう。
「こんな格好だけど……まあいいか」
まだぼんやりと霞のかかったような頭で玄関へ向かい、ドアノブに手をかけ、
「まて」
昨日の鮮烈な記憶があたしの脳をたたき起こした。
「……まさか」
ドアノブにかけた手を離し、のぞき窓から客人を覗く。
「……やっぱり」
扉の外には昨日の巨乳のお姉さんが困り顔で立っていた。
『まーた居留守なのかな』
くそっ。彼女がいたらあたしが外に出られないじゃないか。
『むむむ。どうしようかな……。昨日みたいに連打したら出てきてくれますかね』
「それはよせ!」
昨日の悪夢がよみがえり、つい止めに出てしまった。
「お、今日ははやかったですね!」
満面の笑みで出迎えられた。いや、出迎えてるのはあたしなのか。そんなことはどうでもいい。
「あんたなんなの⁉」
「いやー昨日言ったじゃないですか。デリヘルのクロです、って」
「デ、デリ……」
「あーその言い方が引っかかりますか。いや、私的には結構うまく言ったものだと思うんですけどね」
へらへらと、自慢するように笑う目の前の女に苛立つ。
「ってか、あたし呼んでないんだけど! そ、その……デリヘル?」
「ええ、あたしも呼ばれてませんよ。いや……」
お姉さん――クロさんが一瞬何か考え、そして言った。
「……あなたの心が、呼んだんですよ」
先ほどとは違う、どこか妖艶な笑みで。
何だ。この人は一体『何』だ。何もかも見透かされているような……。
「は……」
細く開いた目の奥から覗く何かに、射止められたように一瞬声が出なくなる。
「? なんですか?」
次の瞬間、不思議そうな顔で見つめる、覗き込む彼女の……顔、顔ちかっ、近い!
「んんー?」
「い、」
間隙。
「意味わかんないしっ!」
バタン! と扉を閉める。
『え、ちょ、ええー!』
*
ピンポーン。
「また来た……」
次の日、彼女は懲りずにやってきた。
のぞき窓を覗いていると、なんだかあたしが悪いような気がしてくる。
『今日も出てきてくれないのかな~』
とか言いながら呼び鈴を押している。
「……今日は出ないぞ」
耳をふさぎながら、それでも今日は絶対に出ないと固く心に決めている。耳なんてふさいでも意味がないことはわかっているけど、少しでも聞こえないようにしないといけないという本能的なものがあたしをそうさせている。
本当は彼女にあれこれ聞きたいことはあるが、聞いてしまったらもう引き返せないような……端的に言うと家に上がられるような気がする。そうなると終わりだ。何がどう終わりなのかはわからないけど、とにかくそれだけはまずいと脳が訴えている。
『あー、あっつーい。梅雨は明けたんだから、もっとからっと晴れてほしいものですね』
あたしの降られた雨を最後に、梅雨は明けたらしい。あたしが振られた日を最後に、雨はあがったらしい。
「今日はもう出たくない……」
ここの所この女が押しかけてくるせいで忘れたと思っていた痛みが、忘れていた罪の分とでもいうように倍増しに戻ってきた。
「……っ」
この傷はどうやら、日を追うごとに化膿していく厄介なものらしい。
あたしが苦しんでいるのなんて露知らず、扉の外の女は茶番を続ける。
『あついなー。このまま待たされると暑くて死んじゃうかもしれないなー。脱水症状で死んじゃうかもしれないなー』
「こいつ……」
あたしに聞こえてるってこと、絶対わかっててやってやがるな。
『あついよー。しんじゃうよー』
「……」
『あ、そうだ。暑いなら――』
そこで彼女は、とんでもないことを言い出した。
『――脱いじゃえばいいんだ』
「ちょっとまてこらああああああああ!!!!」
あたしの家の前で破廉恥な行為をさせてたまるか! 思わず扉を開けてしまった。
「あ、おはようございまーす。今日も元気なクロでーす」
「あ、あんた、あんたねえ!」
「? なんですか?」
「あ……あんた! 何を言ってるかわかってる⁉ ここ外!」
「え? いや暑かったら脱ぐしかないでしょう」
「でしょ、じゃな……!」
よく見ると彼女の腕には、今脱いだのであろう薄手のカーディガンがかかっている。脱ぐっていうのは上着の事か……。
「あら、何を想像したんですか? まさか私が人の家の玄関の前でストリップでも始めると? やだなあ、ちょっと。欲求不満なんですか?」
「違うわよっ!」
そういえば彼女の全身をしっかり見たのはこれが初めてだ。
これからの時期には暑そうな、ひざ下ほどまであるごつい茶色のブーツ。太ももをさらすのをいとわない(しかも腹立たしいくらいに美脚)紺色のホットパンツ。大きな胸元をさらに強調するようなピンクのボーダーに、先ほどの白いカーディガン。
そして、絶妙なウェーブを描くボリュームのある髪を胸のあたりまで伸ばしている。それまでの派手な服装に対して髪色は日本人らしい天然の黒色だ。
いろいろつっこみたいところはあるがとりあえず一つ。
……これ女のところへ来る格好じゃないだろ。
「あらあら、顔を真っ赤にしてかわいらしい。でも、あなたが望むなら直接触れ合うのも……いいですけど」
「間に合ってます!」
バタン! と扉を閉める。
『えー! 今日ももう終わりー?』
扉の外から抗議の声が聞こえるが、今度こそ耳をふさいで無視。
……さっきは色々と貞操の危機を感じた。いやまあ、もう処女は捧げているの、だ、が。
「もう今日は動きたくない」
自分で心の傷をえぐって、そのダメージでベッドに臥した。
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