第68話 浴槽にて

 何故かお湯が張っていた我が家の浴槽内で、まるで演劇の真っ最中に急に風呂に飛び込んだような姿の僕が両親に発見された。


 急に元の世界に戻された僕は、話によると一ヶ月程の間、何も言わずに姿を消したと認識されていたようだ。妙な格好で急に現れた僕のことを、錯乱状態にあるんじゃないかと両親が酷く心配してきたので、『異世界に行っていた』なんてことは口が裂けても言えなかった。


 生暖かい歓迎を受けながら、やんわりと日常に戻っていくことになった。


「ふう、今日もバイト疲れたわ……」


 僕を待っていたのは可もなく不可もなくという、いつも通りの退屈な日常。急に音信不通になった僕を、バイト先のコンビニの店長は何故か優しく迎え入れてくれたし、何の苦労もなく元の生活に戻ることができた。


 元の世界に戻り、もう数週間が経っているが、まるで違う世界に行っていたことが夢だったんじゃないかと思ってしまうくらいだ。夢じゃないと思えるのは、僕が着ていた妙な服もそうだけど、ぎゅっと手の中に握っていた小さな飾り――スィスモスがくれたチャームだけは僕に残されていたからだ。ささやか過ぎるお土産。それだけは紐をくくりつけて、いつも首から下げている。友達の印・・・・と言ってくれた、遠くの世界でゆっくりと眠っているだろう山のような友を想って。


 それ以外に異世界の名残は何もなかった。もしかしてと思い、僕が唯一覚えた強化の魔術を唱えてみたが、何の変化もない。魔術というものが、あの世界だから成立する概念なのか、僕が見て経験したのは本当は夢だった・・・・か、だ。


 夢でもいい。そう思う。

 あの世界での色んな人との出会いや出来事は夢だとしても忘れられないし、最後に見たメイリンの涙――泣き笑いのようなその顔は、今もこの胸に深く刻み込まれている。いつでも僕のことを信じてくれた、あの笑顔に救われている。

 最後は元の世界に戻りたくないと、自分でも少し見苦しいと思うような感情を持ってしまった。メイリンの最期の言葉を、もっと真っ直ぐ受け止めていればな、と思ってしまうことだけが心残りだ。


 けど何を思っても、仕方がない。

 もうあの世界には戻れないのだから。


 もはや感傷でもない、思い出を反芻はんすうするように頭に描きながら、僕は日課の半身浴の準備をする。本当に、いつも通りだ。


 肩の下くらいまで張ったお湯にゆっくりと浸かり、あの世界に喚び出された時もこの場所に忽然こつぜんと現れた手のことを思い出す。白くて細くて綺麗で、それなのに荒々しく魔獣を殴り飛ばす、メイリンの手だ。最期の時も、僕の手を握りしめていてくれた、メイリンの手。


 そんなことを考えていると、目の前の中空ちゅうくう――何もない空間から、ぬっと手が現れた。


「うわっ!」


 メイリンたちのいる世界に思いふけり過ぎてついに幻覚でも見たかと、色んな角度からその手を見てみるけど、ちゃんと実体があるように見える。

 前にあの世界に喚び出された時に比べると、若干遠くの空間から伸びているように見えるその手は、中が見えない箱に手を突っ込んで探るように右に行ったり左に行ったりとあちこちをまさぐっているけど、そこには何もないので何も捉えられない。


 こちらに向けられたてのひらを試しに人差し指でなぞってみると、驚いたようにその手がびくんと動いた。指先から感じる感覚は、それが実体だと言っている。


 顔も、表情も分からない、ただの手――


「間違いない――メイリンの手だ」


 僕がくすぐった後、怒ったようにそこらじゅうを探るような動きを見せたので、思わず笑ってしまった。


 この手の奥に、またあの世界があるのかは分からない。

 あの世界があったとしても、また妙な使命を与えられて、翻弄ほんろうされるだけかも分からない。


 分からないけど、きっとあの世界に行けると、あの世界で僕のことを優しく受け入れ――そして信じてくれる人がいると、願いたい。

 そう思って、僕はそっと頭を差し出した。


 何かがあることに気付いたような動きを見せた手は、少し湿った僕の髪をがしっと掴む。乱暴だけど、本当は優しい、僕がよく知っている手だ。


 ――そうして僕はまた、星にいざなわれて旅をする。

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