第2話 亜弥の追憶
もし私が誰かに、初めて行った家族以外の旅行は? と聞かれたら高校卒業の時、ミキ達女の子3人で行った箱根旅行、と答えるようにしている。
あれは確か、ミキの叔父さんが経営している民宿に、叔父さんからの卒業祝いのプレゼントも兼ねて泊まりにおいで、と言われたのだった。だからそれより前に行った「あの旅行」はカウントしてない。あの人と二人っきりで行ったあの旅行は。
真夜中の高速道路。私は助手席で窓ガラスに肘を置いて、それを枕にして外を眺めていた。半分はガラスに映る私の顔、半分はその奥に見える運転席のあの人。あなたは私の視線に気づいているのかもわからない表情で、ただただ真夜中の高速道路を突き進んでいた。
亜弥、眠かったら寝ててもいいんだよ、そんな声をかけられたならきっと私は、大丈夫この景色眺めるの好きなんだ、なんて言葉も実は用意してたんだよ、でもあなたは結局私に語りかけることはなかった。
カッチ、カッチというウインカーの音に突っつかれ、私はふと前を見た。そこで初めてこの車がS.A.に入ろうとしていることを知った。
静かに駐車場に滑り込んだ車から降りると、んー、と一つ私は大きな伸びをする。昼間の暑さが嘘のように、深夜の心地よい風が私をくるっと一周してからどこかへ去って行った。
「亜弥もコーヒー飲む?」
私はあなたの方を向いてにこりとしてから大きく頷いたと思う。
本当はコーヒーは苦手。でも少しでも背伸びしてあなたに近づきたかったんだ、きっと。
ちょっと待ってて、そう手で合図するとあなたは眩しい明かりの点いたお店へ向かった。その後ろ姿を私はただただじっと眺めていた。
真夜中でもS.A.にはいろんな人が立ち寄っている。エンジンをかけっぱなしのトラック、朝まで運転かな。ぽつぽつと置いてある乗用車はこれから帰る? それとも行くのかな。みんな知らない人ばかり。でもきっとみんなそれぞれの人生がある、未来がある。
私たちは何なんだろう、私たちの未来は何なんだろう。ねえ……教えて。インターネットを使えば何でもわかる時代になったと先生は言ってたけど、この答えもきっとどこか、一生懸命探せば見つかったのかな。
「きゃっ!」
私の右頬に何か冷たい衝撃。それが何なのかはすぐ分かった。
「ほら、キャラメルマキアート。アイスで良かったよな?」
私は、頬に衝撃を与えた犯人、キャラメルマキアートを受け取ると、はにかんで頷いたと思う。この人には私がコーヒーを得意でない事は既にお見通しだ。
あなたはこんな真夏の日でもホットだったね、しかもエスプレッソ。それを口に含んで、夜空を見上げる横顔から、私は目を離せないでいた。
その視線の先には何があるの? 流れ星? ただの星空? それとも……帰ってからの生活のこと? 聞きたいことはいくらでもあるのに、一つも言葉は形を作ってくれなかった。まるで声を失った人魚姫のように。
手を伸ばせば届きそうなこの距離なのに、あなたの世界は果てしなく遠い。いくら背伸びをしたって、いくらあなたに近づこうとしたって、いつもあなたはその一歩先にいた。
「ほら、これ」
あなたは横顔を見せながら、私に手を伸ばした。その先には小さいキーホルダー。
「なに? これ」
あなたは手に持った湯気の浮かぶエスプレッソを一口含んでから私にちらっと目をやった。
「あそこで売ってた。豆助のキーホルダー、かわいいっしょ。亜弥にあげる」
私はそのキーホルダーを見つめた。可愛い子犬のキーホルダーだった。一瞬、その可愛さに笑みをこぼした私だったが、すぐさま私はあなたに背を向けた。
——何でって? わからない、わからないけど、涙が溢れてくるから。
あれだけこっちを向いてほしかったあなたなのに、今だけは向いて欲しくない、お願いだから気づいて欲しくない、今のこんな私に。
どうして? どうしてこんな時に涙なんか……。
嘘。ほんとは分かってる、全部分かってる。
これが……これがきっと最後だから。あなたからもらう最後のプレゼントだから。
残りのエスプレッソを一気に口に含むと、あなたは空になったコップを捨てに行く。そしてその後ろ姿に、私はぼんやりと視線を投げかけた。
——分かってる、本当は全部分かってる……。
「行こうか」
分かってる。
ここで私がこの車のドアをくぐったら、次に降りる時、そこはもう別世界、きっと私たちは別々の道。
分かってる、ここであなたの表情を見逃したら、次に車を降りるときはきっとあなたは別の顔。
私は最後にもう一度あなたの顔をみつめた、その涙でくしゃくしゃになった、そのひどい顔で。
あのときあなたは私を見て笑っていたのかな。
私たちが車に乗った後、バタン、と閉まるその音は、私が経験したどの残酷な音よりも重く、無情にも私のすべてを押し潰した。
あの夜、一つの彗星は夜の闇に消えていき、一人のはかない夢見る人魚姫は泡となって空の星屑となって消えて行ったのだった。
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