五曲目
「楽しいよ」
友達が一人もいなくても、学校に通い続けられたのは紛れもなくジャズのおかげだった。
ジャズダンスを勉強したくて上京してきた僕。学校なんて実際、どうでもよかった。ハルに質問されて改めて思う。
ジャズが好きなんだ、と。
だからこそ今、練習の開始時間を過ぎていることに戸惑いを隠せなかった。
「どうしよう、まじで」
「休めばいいじゃん」
ハルはさらりと僕に言葉を投げつける。
僕がジャズダンスを好きだと、楽しいと確認しておいて、この言いぐさはいったいどこから来るんだ。
僕は怒りが湧き上がるのを必死に抑えつつ言う。
「ダンスやってるならわかるだろ。一回休むと、大変なことくらい」
思えば、僕は小学一年からジャズをやり始めた。毎日すごく楽しくて一緒懸命、練習した。
でも、レッスンを受け始め三年くらい経ったある日、僕は熱を出して練習を休んでしまった。それでも、レッスン自体がなくなるわけではない。
その頃踊っていた曲は、ベニーグッドマンの「シング・シング・シング」だった。僕はこの曲をすごく気に入っていたことを思い出す。
今頃、みんな新しい振り付けを練習してるんだろうな、そう思うと明日ついていけるか不安になった。生まれた不安は、時間が経つほどに大きくなっていった。
頭が次第に痛くなり、泣きながら眠りについたのを覚えている。
次の日、熱が下がった僕は、寝ても消えなかった不安を抱え、レッスンを受けた。
案の定、ついていけずレッスンは中断。
先生は他の子たちを家へ返し、僕だけ休んだ分の個人レッスンになってしまったたのだ。
あの時のことを思い出すたび、足が震える。
だから、意地でもレッスンに行きたいのだ。二度と同じ思いをしないように。
「でも、課題全く終わってないよ」
ハルは微笑を浮かべることなく、机の上にある紙を指で叩いた。
僕はいつのまにか手にカバンを持っていた。今すぐここから出て行きたい。その気持ちだけが先走っている。
たしかに、終わらせないまま練習に向かってもただ遅れただけで損になる。
せめて、「補習」は終わらせよう。
適当に回答して走って向かえば、少しは練習が出来るだろう。
僕は取り憑かれた様に、ボールペンで答えを書き始めた。
「僕もコンテの練習あるんだ」
「じゃあ、ハルも早くやらなきゃ。何時からなの」
ペンの動きを休めることなく、僕はハルに質問する。練習があるなら、動画見せるときに言ってくれればよかったのに。
そしたらこんなことにならなかったんじゃないのか。
「いいの、今日は行かない」
僕は思わずペンを止めた。
「何言ってんの、世界大会にも出てるんだろ。練習しないと」
ハルの方を見ると、彼は窓の方を見ていた。顔は見えない。
彼が見つめる窓の向こう、空には二羽の鳥が遠くに飛んでいるのが見えた。
「嫌いなんだ、僕。コンテンポラリーダンス」
さっきよりもはっきり、少し大きな声でハルは言葉を吐いた。
僕はハルの背中をじっと見つめる。
目の前の肩が、震えている。
それが、さっきの笑いを堪えている時とは違うものだと嫌でもわかった。
今、目にしている彼の姿が本当の
「市川ハル」だと、そう思った。
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