三曲目
あくびしか出ない地理の授業で今日の授業は幕を閉じた。まあ、僕はまだ勉強しなきゃいけないんだけど。
目の前で黒板と教卓に挟まれている男、佐藤マコトはこのクラスの担任であり、数学を教えている。
面白いのが、三十をとっくに過ぎているのに声が高く、みんなから「万年変声期」というあだ名が付けられている。先生はもちろんそのことを知らないだろう。
今、その万年変声期は明日の学年集会について何か話してるらしい。
でも、そんなことより僕はこのあとすぐにある補習の事で頭がいっぱいだった。
課題が出るのか、まさか説教なのか、もしかしたら親が呼ばれたりして。まあ親はすぐ来れる距離にいないけど。たぶんどれかではあるんだろうけど、どれだとしてもよろしいことは無い。
唯一マシなのは、課題か。
そんなことを考えていたら、チャイムが鳴り出した。はあ、と重たいため息をついてしまう。
鳴るのと同時に、ろくに話した事のないクラスメイトが次々と教室を飛び出していく。
その光景を眺めながら僕は席を立った。
ゆっくりとカバンを持ち、出て行くクラスメイトの後を追いかけるようにして教室を出る。
この高校は帰りのチャイムが鳴った後、一曲音楽が流れる。それは放送部の完全なる趣味で、毎日流れる曲は決まっていない。
「この線路を降りたら
赤に青に黄に願いは放たれるのか?
今そんなことばかり考えてる
なぐさめてしまわずに」
どうやら今日は小沢健二の「ある光」を流しているようだ。
選曲のセンスはほめたいが、下校時に聞きたい曲かと聞かれたらノーと答える。
理由は歌詞が重たすぎるから。
さあ、今にも階段を下りたい足を無理やり持ち上げて階段を登っていく。
三階への階段を登る人間なんて自分以外いるわけもなく、降りてくる人にぶつかりそうになる。
一段一段上がるたびに重くなる足を引きずりながら、ようやく自習室についた。
扉を力任せに開けると、先客がいた。
教卓の一番近い席に座っている、市川ハル。
寄り道もせず真っ直ぐきたはずなのに先を越されるとは、市川ハルから「補習」へのやる気を感じた。
「早くね」
「そうかな」
話しかけながら僕はハルの隣に座った。
先客は当たり前だと言いたげな様子で微笑を浮かべ、言葉を返してくる。
なんか腹が立つ。
購買部であった時も薄々感じていたが、優等生のような余裕がハルにはあるような気がする。そんな雰囲気をさらりと醸し出しているのか出ちゃっているのか。僕にはわからないけど。
「これ、課題だって」
そう言いながらハルは紙を三枚ほど渡してきた。ん、とだけ言って僕は受け取り、目を通す。
そこには新聞の切り抜きの印刷といくつかの問題が載っていた。おおよそ社会科のプリントだろう。三枚とも同じような内容だった。
「課題か、説教じゃなくてよかった」
僕は安堵して、カバンからボールペンを取り出す。
「なんで説教だと思ったの」
ハルが不思議そうに尋ねてきた。
こっちをじっと見つめて動かない、割と気になるんだろう。
「補習に呼ばれた理由が遅刻のしすぎ、だからなんだよね」
自分から遅刻常習犯だと言うのはなかなか恥ずかしいもので、笑いが漏れた。
ていうか、ここにいるハルも「補習」なんだから、何か成績に響くような事をしているわけじゃないのか。優等生っぽいけど、以外にワルなのかもしれない。
「逆にハルはなんで補習なの。あ、赤点か。優秀そうに見えるけど割とバカなのかな。それとも僕と同じで遅刻常習犯とか」
自分でも驚くくらい、言葉がすらすら出てきた。恥ずかしい気持ちからこんな言い方になってしまったのは間違いない。
もし、僕の予想が当たっていたとして、ハルは何て言うか。
酷い言い方になってしまったことに、僕は気づかないフリをしてハルを静かに見つめた。
「僕は休んでたの、学校」
ハルが小さく呟いた。
下を向いて唇を噛み締めている。
まさか、いじめられっ子だったのか。
購買部で会った時も一人だった。ここに来た時も僕より先にいた。いじめられていたならその理由がわかる。ハルの肩は静かに震えていた。
こんな時何て言えばいいのか、僕は知らなかった。とにかく謝ろう。それが今できる一番のことだと思った。
「ごめん」
何故か、謝る自分の声も震えていた。
よく考えたら、学校で先生以外の人間と話すのは初めてだった気がする。
入学式から今まで僕はずっと一人だった。
一人で登校して、一人でお昼を過ごし、一人で練習に向かう。
部活は練習があるから入らなかった。
人との関わり方を忘れてしまい、いつのまにかひとりでいることに慣れ始めていた。市川ハルが、もしかしたら初めての友達になるかもしれない、心のどこかでそう思っていた。
なのに僕は、何も知らずに、傷つけて。
涙が溢れてきた。
傷つけた人間が先に泣くとは情けない。
「え、なんで泣いてるの」
霞む視界の中、ハルの声だけが聞こえた。
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