与太噺 《母に愛された娘の噺》
…………………………………………
………………………………
……………………
「綺麗な黒髪ね、貴方はいつも愛らしいわ」
髪を梳いてくださる母様の御手はがさがさに荒れていて、されどうっとりとするほどにお優しい。ほんとうに愛おしいものだと想って、撫でてくださっているのがわかる。時々割れた指のささくれに髪が引っ掛かっても嫌だとは想えない。母様の御手は、働き者の手。お洗濯にお掃除に、お料理と、休む暇なく働いているから、こんなにも指があかぎれだらけなのだ。
私にはなにもできない。母様の御役に立つことはなにひとつ。部屋のお掃除くらいだったらできるのだけれど、なにかあってはいけないからと、母様はいつも私にはさせてはくださらない。
「赤い着物に赤い帯を。華のように美しいわ」
きっと私は、美しくなどないのに。
触れればわかる、ひきつれた目蓋に低い鼻。喉から顎にかけて、火傷のような皺がある。盲いて、声も発せぬ私は、醜い。きっと昔話に綴られた、鬼のような姿をしているに違いない。
それなのに、母様はいつだって優しいお声で私を「綺麗だ」と褒める。この世で一等綺麗な華を愛でるように。この世で一等、大事なものを抱き締めるように。
赤い着物。赤い帯。
わたしは、赤を知らない。
それがどのようなものかもわからぬままに、母様がお好きだというその絹に袖を通す。私の名。
赤。色。どれもわたしの世界にはないもの。
それでも構わない。
お紅と呼んでくださる、母様の声は慈愛に満ちている。
とても優しくて、暖かい。
髪を梳いて、着物を着れば、朝餉の時間だ。じっくりと煮られたなにかが土鍋ごと運ばれ、お椀によそわれて食卓に置かれる気配がする。お雑炊だ。お客様がきた翌々日は、いつもお雑炊。
ぎゅっと腹が締めつけられる。
これがなにか。
わたしは知っている。
わたしは盲いている。けれど、だからなのか、人一倍耳がよかった。
屋敷のなかで起こるすべての音がわたしには聴こえる。
だから母様がお客様になにをされ、なにをしているのか、わたしは全部知っていた。男の下卑た笑い声と、母様の押し殺した悲鳴。濡れた音。板の軋む、嫌な震え。女のくぐもった絶叫に母様の「何故」という言葉。「何故、貴方は声が出せるの」「何故貴方は、目が視えるの」ぐしゅぐしゅと肉を掻き乱す音がやむと、裏戸の閂が抜かれ、どさりとなにかが崖を転がり落ちる。
そうして遂に静まりかえると、耳もとで騒ぎ始める蝿の念仏。この頃はずっと、この細かな震動が、鼓膜に焼きついて離れない。
私もまた、仏に祈る。数珠はない。線香もないけれど。懸命に手を擦りあわす。
「いただきます」
どうか、殺された無辜の女達が極楽にゆけますように。
どうか、どうか、母様が地獄に落ちませんように。
「さあ、召しあがれ」
ふうふうと息を吹きかけてから、母様が匙を差しだしてきた。
いつまでも子供扱いだ。ひとりでも食べられるのだけれど、こうされることはとても心地がいい。大事にされているのだと、愛されているのだとわかる。
だからわたしは、口を開く。
匙を含み、どこか臭みのあるお雑炊を腹に落とす。胃がぎゅっと縮んで、吐きそうになる。これが、なにか。私は知っている。鼓膜に蝿の騒めき。それでも飲みくだす。残さずに。
これは、母様の愛だ。
如何に血
如何に罪深くとも。
ああ、仏様。母様に罪を犯させているのはわたしです。これを喰らっているのもわたし。わたしが殺しているのもおなじです。わたしは、わたしを許せない。このように歪に産まれてしまったばかりに、母様を苦しめてばかり。どうかどうかどうか、母様のかわりにわたしが地獄に落ちますように。
すとんと、頭のなかに疑問が落ちてきた。
殺すものが地獄に落ちるのならば、殺されるものはどうなのだろうか。極楽に、いけるのではないだろうか。
それはとても、とてもよい考えのようで。
わたしは手を合わせて、にっこりと微笑んだ。
「ご馳走さまでした」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます