《本筋之陸》

其の壱 《死を偲ぶ》

 秋の菊 にほふかぎりは かざしてむ 花より先と しらぬわが身を

 紀貫之 巻五


 紅葉は段々と赤紫に移ろい、風が吹き抜けるごとにはらりはらりと落ち葉が散る。紅葉や蔦は秋を惜しむようにひとつひとつ、着物を脱ぐ。既に襦袢の紐まで解いて、幹としな垂れる枝だけになった糸桜は画僧の筆に依る水墨画のように風情があった。枯れ枝には尉鶲ジョウビタキがとまり、蜜柑色の胸を膨らませて尾を震わせながらしきりに囀っている。遠からぬ冬に想いを馳せているのか。寒い季節の到来を憂いているのか。

 桜の側にある茶屋でだんごを食べながら、このあたりに旅籠はないかと尋ねていた津雲だが、ふむとこまったように顎をなぜる。沢で清水を汲んで、朧が津雲のもとに戻ってきた。


「どうだった」

「このあたりに宿場はないそうです。昔は近くに集落があり、旅人が泊まるところもあったそうですが、十五年程前になくなったとか。現在の最寄りの農村までは約十三里、いまからではいくら急いでも到着は早朝になるでしょう。しかも街道からはかなり逸れます。残念ながら、今晩は野宿になりますね」

「野宿などずいぶんと久し振りだよ」


 致しかたなしと肩を竦める。

  

「取り敢えず、朧さんもいかがですか。素朴な味がして美味いですよ」

「僕が辛党なことは君がよく知っているだろうさ。健康の為には確かに甘いものも必要だが、その何倍も塩が必要だね。特に疲れた身体には糖より塩だよ」

 

 だんごをすすめた津雲に朧は軽く手を振って断り、さきほど焼いてもらった煎餅を齧った。手間を惜しまず繰りかえし醤油に浸けて焼かれた煎餅は、質素ながら深い味わいがするようだ。だんごを食べ終え、津雲が立ちあがった。荷を肩に掛ける。

 このあたりの街道は緩やかなくだり坂が続いており、ふたりは他愛のない雑談をしながら順調に進んでいく。小仏峠を越えてきたからよけいに、こうした木の根も段差もない道が有難かった。これだけ見晴らしのよい道ならば、狼や熊に襲われる懸念もなく、まして道筋を誤ることもない。時折津雲が咳をする。この頃津雲の体調が前にも増して悪いことは朧も察しているが、津雲がなにも言わないので朧も黙っていた。

 夕暮れをすぎても、暫くは歩き続けた。

 

「ずいぶんと街道から離れてしまったように思えるんだけれどね」


 暗がりに落ちた森を眺めて、朧がため息をつきながらとうに分かりきっている事実を言葉にする。森のなかには薄らと道ができているものの、長らく誰も通っていないのか、草は繁り、時折低くまで垂れさがった枝の先端が着物の袖や頭に引っ掛かる。街道には程遠い。あきらかに道を誤っているのだが、いつ、どこのあたりで街道から逸れてしまったのか、まったくもって思い当たる節がないのだ。

 

「確かに。ですが、ここに至るまで、どこにも分岐はありませんでした。道を間違えたというわけではないはずなのですが」

むじなにでも化かされているみたいだよ」


 ふむ、と津雲が唸った。

 進むほど街道から遠ざかる。このような森のなかで野宿するわけにはいかないと、来た方角に引きかえして暫く歩き続けたが、森は深まるばかりだった。あきらかに異様だ。段々と方角そのものがわからなくなり、津雲と朧は途方に暮れて立ちどまる。


「さきほどもこの大くぬぎの側を通りすぎたのは気のせいか」

「いえ、おそらくはおなじところをぐるぐると廻っています。標にこれを枝に巻きつけておきましょうか」


 津雲は腰ひもを枝に結んだ。草を踏み分けたような雑な道をたどって進んでいくと、またも隆々たる幹の橡の前に差し掛かる。

 枝には、今しがた津雲が結わえた腰ひもが揺れていた。するりと腰ひもを解き、津雲は目を細める。


「これではっきりしましたね」

「ああ、確実に化かされているよ」


 早朝までおなじところを廻らせられるのであれば、幹にもたれて眠ってしまうかと津雲が腰をおろす。幸いなことに晴れており、草も繁っているので風よけにもなり、充分に野宿できる環境ではある。


「津雲、なにか聞こえないか」


 うながされて耳を欹てると、確かに遠くからなにやら賑やかな音が聞こえてきた。横笛に太鼓に、賑やかな音頭。楽しげな喧騒に津雲が首を傾げる。


「祭囃子、でしょうか」


 収穫祭だろうか。老いも若きもまじえて、ずいぶんと盛りあがっているのか、歓声がわああと暗闇の簾を押しのけるように響いてきた。視線を凝らせば、森のかなたに赤い提燈のあかりがちらちらと揺れている。


「あきらかにおかしいよ。やはり、狢か狐だろうね」

「ええ、ですが、まだ日が暮れたばかりだ。早朝まで歩きまわり、或いは幹を枕に眠ってしまうよりも祭りに赴いてみるほうが有意義だと思いませんか」

「さあね。君子危うきに近寄らず、という言葉もあるよ」

「真に危ういものであれば、近寄るのはやめておきましょう」


 津雲が立ちあがり、祭囃子のするほうに歩き始めた。朧は渋々という様子で津雲の後を追い掛ける。熊笹を踏み分け、道というには頼りない轍の跡をたどる。月は細く、星のあかりが綺麗だ。ぽつぽつと枝に提げられた赤提灯のひとつに触れ、幻ではないことを確かめる――とはいっても、触れられる幻などというものも実在する為に現実であるという証にはならない。ただ、おなじところを廻り続けるという異様な現象からは解放された。

 後は赤提灯の道標をたどるだけだ。

 やがて森を抜け、視界が開けた。

 祭りだ。木を組んだ櫓とそのまわりをぐるりと取り巻く群衆。櫓の頂には太鼓をたたく若衆がおり、太鼓にあわせて笛を奏で、音頭を取って、みな賑やかに祭りを楽しんでいる。様子からして盆踊りだ。ちいさな農村や集落では盆祭りは文月にはじまり神無月まで続くという。これもその一環だろう。

 津雲と朧が呆然と眺めていると、後ろから声を掛けられた。


「見掛けない顔だけんど、旅の御仁かね」


 腰の曲がった蛙顔の老婆が、にこにことしながら尋ねてきた。

 津雲はすぐに愛想笑いを浮かべ、頷いた。


「街道を進んでいたのですが、道を誤ってしまって。祭りの最中ですか」

「今夏はずいぶんと長く雨が続いておってね、盆祭りも霜月まで延長することになったんだわさ。ずっと辛抱していたから、みんなも盛りあがっているんよ」

「ふむ、左様ですか」


 確かに祭りは盛大に沸いている。娘は髪に花飾りをつけてきゃあきゃあとはしゃぎ、若衆も汗を散らして太鼓を打ち鳴らす。酒も振る舞われているのか、男らは顔が赤く、娘らもほんのりと頬が薄紅に染まっていた。

 この様子ならば、祭りは朝まで続くはずだ。娯楽の少ない集落などでは、こうした祭りは冬を越えるちからにもなる。それを理解しているから、集落の長も盛大に催すのだ。


「日も落ちちまった。ここから宿場までは相当に歩かにゃなんね。うちの集落さ泊まっていかんかね。なに、気にせんでいいよ。このあたりをいく旅の御仁はみいんな、うちの集落に泊まっていくんよ。ちょうど雨も降ってきよった」


 老婆は空に手をかざす。津雲もそれに倣うが、雨などは一流たりとも降ってはいない。相変わらず星と月の綺麗な晩だ。なにかを理解して、津雲が目を細める。暫し考え、ゆっくりと首を真横に振った。


「有難いですが、先を急ぐ身ですので」

「あらま。遠慮はいらんよ?」

 

 津雲は悲しげに微笑む。


「お信じにはならないでしょうが」


 報せるべきか否か。

 おそらくは報せたところでなにひとつ、変えることはできないのだとわかっていながらも、津雲は僅かな逡巡を経て、老婆に真実を報せた。老婆は一瞬目を剥き、されどすぐに「冗談のうまい旅の御仁だね」と笑い飛ばす。津雲が諦観を滲ませて、「ええ」と頷く。朧にはなにがなんだか理解できず、眉根を顰めて、老婆と津雲の会話を遠巻きに眺めている。津雲は幾度か頷いてから、櫓に背をむけて歩きだす。朧は祭囃子から距離を取ってから、津雲に尋ねかけた。


「先程のやり取りはいったい」

「詳しくは後ほど」


 一度だけ津雲は祭囃子を振りかえり、濡れた櫓と太鼓を睨む。


「取り敢えず、一刻も早く離れたほうがいいでしょう」


 羽織をひるがえして、津雲は森のなかを急ぐ。朧は理解が追いつかないなりにも津雲に倣って走りだす。暫く進んでいくと、あの橡の木があった。またぐるぐるとおなじ道を廻らせられるのではないかと懸念したのだが、ぐるりと幹のまわりを一周廻ってから獣道を進むと、先程は通らなかった坂道に繋がった。黙々と坂を登り続け、ちょうど祭の様子が眺望できる高台に出た。


「ここならば、巻き込まれることはないでしょう」

「いったいなにがあったんだ。いい加減、説明してくれ」


 朧の非難を受けて、津雲は集落の西側にある崖を指差す。

 朧がいったいなんだと視線を凝らすと、凄まじい音をあげて崖が崩れ始めた。はじめはぼろぼろと崖の先端から岩が崩落し、続けて地盤そのものが滑る。木々が根ごとなぎ倒され、土砂と一緒に滑落していった。凄まじい地響きが、獣の雄たけびのように轟く。大蛇が獲物を丸呑みするように祭のあかりが一瞬にして土砂の下敷きになる。


「な……」


 朧ががく然と集落の壊滅を眺める。

 ごぽりと抉れた崖と盆地に積みあがった土砂だけを残して、しんとあたりは静まりかえる。雲が月に掛かったのか、盆地一帯が影に覆われた。


「あれは数年前に滅びた集落です」


 津雲は静かな声で語った。


「崖崩れに襲われた祭りの晩を、繰りかえしているのでしょう。かれらはみずからが死んでいることには気がついていない。《死》を受けいれることができずに、《死》を繰りかえしているのです。故に、かれらはとむらわれることもありません。実に憐れな集落です」

 

 重いため息をついて、津雲はちかくの倒木の幹に腰かける。

 盆地を眺める津雲の眸は暗い。堆く積もった土砂と木の根の底には、いまだに数多の骨が埋まっているのだ。骨になっていることにすら気づかずに。故に繰りかえす。悲劇を反芻し、骨になった身体と死を受けいれない魂とが軋み続けている。盆踊り。あの賑やかな祭囃子でしんに送るべきは彼らだというのに。

 津雲が薄い唇を真横に引き結んだ。津雲がなにに想いを馳せているのか。この集落の悲劇になにを重ねているのか。朧にはおおよそ、察することができる。


「とむらい、か。呪を解くことが魂を真にとむらうことだと、君は以前語っていたね。いつだったか。確か、あの茶碗の時だったか」

「ええ、相違ありません。生きているうちの無意識の呪いを解くことが、とむらいだ。寺に納められないことが、或いは亡骸が土砂に埋もれていることが、かれらの魂を現に縛りつけているわけではありません。厳密にはね」

「それでは何故、かれらは繰りかえすんだね」

「かれらは普段から別段を意識することもなく、生きていた。《死》などもっての他だ。故にみずからが息絶えても、《死》を受けいれるどころか《死》を認識することすらできなかったのです」

「現象、ね。ならば、あれもまた《生魑いきすだま》の一種か」


 津雲は首肯して、それきり地に視線を落とす。


「ですが、かれらの認知なくして、あの縺れた糸を解くことは非常に難しい。そうして認知させるだけの猶予は、残念ながら残っていませんでした。かれらがまたも繰りかえすのは一年後だ」


 津雲はそこで言葉を途絶えさせる。一年後。言及は避けたが、津雲はおそらく、来秋を待たずして寿命が尽きるだろう。残り二年と想定していたが、致命傷を負い、蝋燭の残りは燃えつきかけている。いまも絶えず、肺が焼けついていた。咳も段々激しくなり、頻度も増している。

 その事実から視線を逸らすように、朧がぽつりと話題を戻す。


「滅びた集落ね」


 奇しくも、ふたりの旅の終着も既に滅びた地だ。その地で津雲を待ち受けているものは朝廷にむざと殺され、史書から隠滅された、先祖の曝骨ぼうこつ。いっさいの怨嗟も執着もなく果てたにもかかわらず、呪により輪廻の円環から弾かれた、神の一族。まったく由縁のない集落であっても、何者にもとむらわれずに死を繰りかえすこの地の有様は、津雲に憂いを擁かせるに余りある。


《死》の反覆から《生》の輪廻に戻す。

 それをとむらいとする。


「君は」


 津雲がなんの為に滅びた故郷を捜し続けていたのか。朧は直接、理由わけを聞いたことはなかった。けれどおおよそ、察しはついている。かれは一族の非業を終わらせるべく、かの地に赴くのだ。それはつまり。


「祖をとむらいにいくんだね」


 津雲は緩慢に顔をあげ、果敢ない微笑を浮かべた。

 言葉はなくとも肯定だとわかる。

 たったそれだけのことに君は命を賭けるのかと責めるつもりはない。それが、かれに取りてどれほど意義のあることか。如何ほどの悲願か。理解できるとまでは言えないが、察することくらいはできた。幾百、幾千の骨を拾い、呪を《解》いていく。呪を解けるのは一族の末裔たる津雲だけだ。

 されど。だからこそ、だ。


「なあ、津雲。僕は約束を守ったよ」


 朧が脈絡もなく、言葉を投げる。

 他人に語りかけるにしては、あまりにも言葉が足りていなかった。されど浅からぬ縁を手繰り、津雲はその無造作に投げつけられた言葉からも真意を拾いあげ、静かに頷いた。


「変わらずにいてくれ。それが、君が僕に課した約束、否――呪いだったね。そうして僕はそれを破らなかった。今後幾年経とうとも違えることはしない」

 

 朧はそう、断言する。

 親友の眸を真直ぐ、縫いとめるように見据えた。


「だから次は、君が約束をする番だ」


 津雲の視線が、微かに揺らいだ。動揺が滲む。されど津雲もまた逃げずに、朧の黒い眸を見詰め続けた。

 呼吸を整え、朧が云った。


「君の骨は、僕に拾わせろ」


 津雲の眸が、驚愕に満ちる。


 祖の骨は末裔たるかれが拾うべきものだ。

 されど、一族の最後のひとりであるかれの骨はいったい、誰が拾うというのか。


「どれだけひどい死に様を曝しても、骨くらいは残せ」

「……それ、は」


 津雲が声を震わせる。

 なにを言いたいのか、解せぬ朧ではない。解っているのだ。墓があろうとなかろうと、野に曝されようと路傍に倒れようと、とむらわれる魂はとむらわれる。かれの祖がとむらわれぬのは決して骨を拾うものがいなかったからではない。津雲の骨を拾うものがいようといなかろうと、生魑の呪は続く。

 されども。

 

「約束しろ、津雲」


 一瞬の、沈黙の後。津雲は微かに息を零して、肩を震わせた。面を伏せ、相手に表情を見られまいと前髪を指に絡める。されど堪えきれなくなったのか、かれはとうとう肩を揺すって笑いだした。

 声もあげずに、涙が滲むほどに爆笑する姿はなんとも間が抜けている。愛想笑いではなく、憂いを帯びた微笑でもなく。これまで誰にも見せたことのない、ともすれば津雲自身でさえもこのような表情ができることを知らなかったのではないかというような、素の笑い顔だった。朧とてそれなりに長く津雲と係わってきたものの、かれがこのように笑うとはついぞ知らなかった。

 死の陰りはどこにもなく、場違いなあどけなさがある。

 十幾年振り、或いは産まれてはじめてに涙ぐむまで笑い、津雲は息も絶え絶えに云った。


「呪いの刻まれた骨でよければ」

「構わないね。朱の骨なんて実に風変わりでいいよ」


 朧がからかうように頬を持ちあげた。

 

 ふたりの頭上にまた月が現れる。細った月の輪郭に寄り添うように赤みを帯びた星が瞬く。ほのを星だ。勢いよく燃える蝋燭の火のように、星が鏤められた黒き帳を一際華美に飾っている。数えきれないほどの星を振り仰いで、津雲が物も言わずに眸を細めた。

 朧もまた、津雲が眺める方角に視線を流す。

 旅の終わりは、近い。いまだその終端たる峰を見晴らすことはかなわずとも、着実に旅路はひとつの結実にむかっている。津雲が望む一族の終わり。そうして津雲という男の最期。その光景は果たして、如何なるものなのか。


 星は瞬いている。月は輝いている。秋は深く、夜もまた浅からぬ。

 里が幾つ滅びても、今宵も夜陰は静かだ。

 朝焼けは、まだ遠い。

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