其の伍 《辜》
見事なまでの秋晴れだった。
雲ひとつない青天井に落葉松の紅葉が映える。落葉松の細くとがった頂まで、綺麗に見晴らせた。はらはらと降りしきるのは肌を凍えさせる雨垂れではなく、錦に輝く松葉だった。雨筋のように錦糸が降る。
霧を掻き分け、泥濘を踏んでいた昨日とは大違いだ。
「荷を渡せてよかったですね」
娘は荷を受け取り、改めて感謝し、江戸の町にむかう道を進んでいった。津雲らとは真逆にむかうので、その後の道中を知ることはできないが、無事に母親と逢えることを願うばかりである。
空は青く澄み渡っているが、心にはまだ重い雲が掛かっていた。暫くはふたりとも黙って甲斐に繋がる街道を歩き続けていたが、やがて思考を整理するように朧がぽつり、言葉を落とした。
「……
朧の呟きを拾いあげて、津雲が首を傾げた。
「僕の祖国に根づいている薬膳の言葉だよ。身体の不調を治すには、不調をきたしているのとおなじ部位を食べればよい、という考えかただね。あのお黒という女が、この言葉を知っていたかどうかは知れないが」
「そちらではいまだに、
「ああ、こちらでは獣肉食は嫌われるらしいね」
「昔は狸や鹿などもさかんに食卓にあがったそうですが、いまは狸汁といっても蒟蒻や牛蒡を煮たもので。一般に食べるのは鶏程度でしょうか」
「犬くらいは食ってもいいだろうにね」
「いえ、鹿は食べても、犬を食うのは如何なものかと」
津雲が苦笑いする。
価値観と風習の違いが、時折こうしてふたりの間には横たわる。されど価値観の違いなどは、おなじ土地に産まれ育ってもどこかで産まれてくるものだ。人を喰らえば娘が治癒される、という女の発想がどこから産まれたのかは知るよしもないが、他人の考えなど所詮理解の及ばないところにある。
「獣を食わず人を食う、か。人の視界や言葉を得たいのに、獣のものを食っても意味がないと考えたのか。それとも人肉が万能薬だとかいう迷信を疑わなかったのか」
「ああ、
「利くわけがなかろうにね」
朧が呆れたように首を真横に振る。医学の知識からすれば、人の死体が薬になるなどということに根拠はなく、所詮は無知から産まれた信仰のようなものだと朧は言いきった。
「まあ、僕の祖国にも
「なるほど、どこの国も考えることは変わらないのですね」
救いを求める本質は変わらない、か。
津雲がため息をついた。
「娘さんは、人間を食わされていることに気がついた時には、動揺したでしょうね。それでも。母親の愛を飲みこまぬわけにはいかなかったのでしょう。如何にその所業を許せずとも」
娘の心境を考えれば、慨嘆に堪えない。娘が母親を殺し、みずからも自害したのはせめてもの罪滅ぼしに違いない。
されど、母親の心境もまた、複雑だったはずだ。例えば、さきほどの《割股》という風習が倭にあれば、あの母親は躊躇せずにみずからの腿くらい裂いただろう。事実、腿を裂かれるほどの災難に遭いながらも、あの母親は旅人を泊めていたのだ。強姦、強盗。女ひとりの宿では危険は絶えない。それでもそれらの難に辛抱を重ねて、母親は娘の為に徳と悪徳を積み続けたのだ。
娘の声を聴きたいと、なにか喋ってほしいと願わぬ母親はいない。産まれつき暗闇ばかりをみてきた娘に、どうか美しい世界を、と祈らぬ母親がいるだろうか。そうしてそれが叶わぬ時に、何故我が娘だけが喋れず盲いているのだと怨むのもまた、娘を愛する母親故だ。
思うだけならば、まだよかったのだ。されど、かのじょは、決して手を染めてはならないことに手を染めた。生魑まで巻き起こして。
故に救われなかった。救われなかったのだ。
「っ、驚いた」
落葉松の枝から舞いおりてきたなにかが頬をかすめ、朧が驚いて立ちどまる。鱗粉のたっぷりと乗った翅を羽搏かせ、通りすぎていったものを振りかえり、朧が嫌そうに顔を顰めてずれた眼鏡を直す。
「蛾だね」
「昼に舞うのでしたら蝶ではないでしょうか」
「真昼でも蛾はいるね」
ばたばたと繁みに紛れていく蛾か蝶かを視線で追い掛け、津雲は眸を細めた。
「人も、蛾や蝿と大差ありませんね」
「なんのことだね」
「いえ、なんでもありませんよ、朧さん」
あかりに
いずれにしてもいまも旅の途上。
夕暮れまでには次の
木の根が張りめぐらされた細い街道を、下駄を鳴らして進んでいく。涼風が、羽織をなくした津雲の肩越しを勢いよく抜ける。まだ絹に僅か残っていた腐臭を、青空のかなたまで吹き飛ばしてくれるかのようだった。
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