其の肆 《子》

 廊下に抜けたところで旅の娘が意識を取りもどした。娘はかすり傷を負ってはいたものの、無事であった。意識を取りもどした娘は、母親に逢わずして命を落とすところだったがお蔭様で殺されずに済んだと涙ながらに感謝する。

 落ち着いてからあることに気がつき、娘は「あ」と声を洩らした。


「どうかなさいましたか?」

「荷がなくなっちまってて。着物も。わたす、あれがないと関所さ、通れねえ……えらいこった。さがねえと」


 現金は抜かれているかもしれないが、着物や他の荷はおそらく。


「棄てられているとすれば、裏でしょうか」


 津雲と朧は娘に「取り敢えずこの家を離れ、家に続く細い道と街道が交差するところで待っていてほしい」といい、かのじょの荷を捜しにいくことにした。娘は恐縮して、自分の荷くらいは捜すといったが、また襲われたら事だ。それに津雲の想像が正しければ、あの裏に娘を連れていくのはあまりにも酷であろう。津雲でさえ気が滅入る。

 裏戸は変わらず、硬く閉ざされていた。

 板の裏側からは昨晩と変わらず、ぶぶぶぶぶと耳障りな音が響いてきている。念仏でも唱えるように蝿が騒ぐ。どれだけの数の亡骸があるのか。


「いきますか」


 津雲が声を掛ける。閂を外し、重い木戸を押す。

 想像通り黒い霧の塊のような蝿の大群が視界を覆いつくす。噎せかえるような腐臭に一瞬、呼吸がとまる。胸が焼けそうだ。

 家の裏手は予想に違わず、崖になっていた。崖の真下には夥しい数の亡骸が積みあがっている。襦袢を肩骨に掛けて白骨になっているものもあれば、まだ新しいのか、腐乱しているものもあった。ごぽりと窪んだ眼窩からは蛆が溢れている。もぞもぞと動く白の群れは、抜き取られた眼球のかわりにはならない。これだけ詳細に屍の有様が見て取れることからもわかるように、崖の底までの距離はさほどなかった。


「予想よりもひどいですね」

「母親の愛、ね。鼻が曲がりそうな愛だよ」


 吐き棄てて、朧が鼻先に皺を寄せる。

 屍を積み、そのなかから取りあげて渡される愛を、娘は如何なる心境で食んだのか。血の滴る愛。腐臭の漂う愛。それでも母親の愛だ。娘の幸福を願い、他人の幸福を憎んだ、母親の愛だ。

 その愛の残滓が、ここで腐敗している。


 屍のあいまには風呂敷につつまれた荷も無造作に転がっている。気を取りなおして、旅の娘から聞いた荷の特徴とぴたりと重なるものを捜す。確か、赤い風呂敷包みだったはずだ。


「あれかな」


 赤い風呂敷は幸い、崖のなかばから飛びだした根に引っ掛かっていた。着物も一緒にぶらさがっている。朧が崖に足を掛け、荷と着物を取る。

 荷さえ取りもどせば、後はここに留まる意味はない。廊下に戻る。閂を掛けなおして、臭気と蝿の大群を遠ざけ、引きかえそうとしたのが早いか。


 ぎいと背後で床が軋んだ。


 振りかえる。

 女の影が、ぽつりと薄暗い廊下にたたずんでいた。右手に握られているのは包丁。もとから相手が情けを掛けた隙をみて、殺すつもりだったのか。或いは冷静になって、後々告発されたらと考えたのだろうか。

 お黒が襲い掛かってきた。

 朧は難なくそれを避け、津雲が筆をもって凶器を斥ける。「――ざん」墨に斬りかえされ、お黒はよろめいて壁に背をぶつけた。「ぐう」とひしゃげた悲鳴をあげ、お黒がずるずると崩れ落ちる。

 それほど強くぶつかったわけでもないだろうにと津雲がみれば、壁からは脇差と赤い小袖が生えていた。

 背から心の臓を貫かれたお黒は、なにが起こったのかわからず、目を白黒させながら唇から血をしたたらせる。


「……なんで、おこうちゃん」


 壁が、正確には隠し戸が、横に開かれる。

 奥には座敷があり、齢十二程とおぼしき娘が廊下に踏みだしてきた。赤い絹に身をつつみ、紅葉の髪飾りをつけている。年頃の娘らしい格好をしているものの、目蓋は歪にひき攣れ、僅かなすきまから窺いみえる網膜は白濁に曇っていた。目蓋から皮膚が張っているせいか、頬まで歪んでいる。鼻はちゃんと形成されなかったのか、異様に低く、顎から喉に掛けて複雑な皺が寄ってた。裸足の裏が、廊下の板を踏む。娘は緩慢な足取りで津雲と朧の前に立ち、なにも言わずに、否――喋りたくとも喉を震わせることができないのか、もどかしそうに頭をさげた。

 言葉はないが、懸命にこうべを垂らし、盲いた瞳からぼたぼたと涙を落とす。


「貴女が」


 娘は津雲の言葉を待たず、握っていた脇差で勢いよくみずからの喉を裂いた。

 あまりにも唐突だったということもあり、津雲も朧も、娘の自害を呆然と見詰めることしかできない。

 ぱくぱくと、娘が口を動かす。

 物言えぬ喉から、言葉のかわりに血潮が迸る。

 

 かのじょがこれまで、なにを想い、なにを感じていたのか。なにを考え、母親に差しだされるがままに人を喰らい続けてきたのか。それは、津雲と朧には到底はかり知れぬものである。

 ただひとつ、わかることは。


「…………貴女は、許せなかったのですね」


 一縷の望みにすがって人を殺め続けた母親と。あやまちだとわかっていながらも、母親の愛を拒絶できなかったみずからを。きっとこの娘は許せなかったのだと、津雲は思った。

 娘はふらりと倒れ、母親に折り重なるように静かに息絶えた。


 津雲は胡蝶の羽織を脱ぎ、母娘の頭に被せた。かのじょらにしてやれることはそれだけだ。黙祷もなく、津雲はくるりと背をむける。羽織を失った背は普段よりも痩せて、頼りない。朧もかれに倣って、廊下を進んでいく。

 数多の旅人を助け、数多の旅人を殺めた家だ。それらの数を、どちらが重いかと秤にかけることはできない。徳と悪徳は、数で清算できるものではないのだ。


「真にもって、憂鬱ですね」


 津雲がつぶやいた。

 重いため息は壁の際に転がり、いつかは腐るのだろう。まだ暖かい血潮に蝿のたかる音がする。仏に拝むように前肢を擦りあわせ、念仏を唱えるように翅を震わせる蝿の。

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