其の参 《瞽》

 結局のところ早朝まで何事もなく、飯の炊けるにおいが穏やかな朝を報せた。津雲が浅い眠りから身を起こす。障子は既に開けられており、霧はまだ残っているものの雨はあがっている。これならば峠を越えられそうだと考えながら、津雲は身支度を整えた。朧はとうに着替え終わり、荷の整理をしている。

 一服煙管をふかしてから、居間に移動する。居間では既に浪人と飛脚が、いかにもよく眠れたというさわやかな表情で囲炉裏を囲んでいた。


「昨晩はよく眠れましたでしょうか」


 お黒が盆に乗せて人数分の茶を運んできてくれた。


「真にかたじけない。お蔭様にてよう眠れ申した」

「霧でゆくえが塞がれた時にゃあ、崖に落ちるか、狼に喰われるかと思ってたんで、有難いことでさあ」


 口々に礼を言いながら、茶を受け取る。津雲は横目で朧に「飲んでも構わないものか」と尋ねた。朧は頷き、津雲は安堵して茶を啜る。熱い茶は晩秋の朝にはうってつけだ。茶を飲み終わると、お黒が「朝餉の準備が整いました」と言い、銘々膳を運んできた。沢庵に味噌汁に飯という質素な食事だが、暖かな朝餉は食べられるだけでも、峠を越えるだけのちからをつけてくれる。

 されどひとつ、気懸りなことがあった。

 津雲や朧が尋ねるまでもなく、飛脚が疑問を声にする。


「あれ、娘さんはまだ起きてこないんですかい。ずいぶんな寝坊だ」

「いいえ、娘さんは早朝に発たれましたよ」


 お黒がにっこりと笑った。


「あれま、そうですかい」

「お母様に逢いにいかれるので、さきを急ぐそうです」


 浪人が案じるように表情を曇らせる。


「早朝ならば、まだ暗かろうて。野盗に襲われたら如何にする」

「そりゃあ、おっかさんには一刻も早く逢いてぇもんでさあ」


 飛脚はうんうんと勝手に納得しながら、飯をかっ込んだ。

 密かに顔を見あわせたのは津雲と朧である。娘は早朝どころか、宵五つの刻限には客間から姿を晦ましていた。暫くは耳を欹てていたが、斜めむかいの襖が滑る音は聞こえてこなかった。つまり、娘は帰ってきていない。いつからいないのか。何処にいったのか。

 そうして何故にお黒は、その事実を偽ったのか。


「どうしますか」


 漬物を齧りながら、津雲が相棒に尋ねる。

 知らぬ存ぜぬ素振りをして旅路に戻ることは易い。この家になんらかの闇があることは疑いようもない事実であり、娘の安否も知れぬ。されど縁という縁もあらぬ他人だ。暗部には係わらず、一宿の恩を受けたというだけで終わらせることはできる。

 朧は異境の眸を、きゅっと眼鏡の奥で細めた。


「何故僕に委ねるんだね」

「貴方は、嫌がるだろうと思いまして」


 素知らぬ振りをすることを。

 朧は低いため息をつき、黙って茶碗を傾ける。浪人と飛脚はわいわいと喋っていて、こちらには意識をむけていない。お黒は竈の飯を飯櫃めしびつに移してくるといったきりだ。


「これは、君の役割じゃないのか。君はずいぶんと人の業に好かれているようだからね」


 ふっと、津雲が口端を歪めた。

 ただの殺人。或いは婦女を狙って捕え、女衒に売り飛ばすような有り触れた犯罪ならば、津雲が関与するまでもない。放置することに良心の呵責はあれど、世直しに走りまわるには寿命が残されていない。だがこれは。


「解りました。縺れた糸を解きましょう」


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 他の旅人と同時刻に出発したと見せ掛けて、津雲と朧は宿に引きかえしてきた。

 お黒に見つからぬよう、静かに侵入し、娘のいた客間を検める。娘の姿は見当たらず、荷も既にない。布団も畳まれ、畳の隅に寄せられていた。やはり押入れがないのかと思いきや、廊下から覗いた時に死角となる左側の壁にちゃんと備えつけてあった。朧が押入れの襖を滑らせる。


「っ」


 饐えた悪臭にともない、蝿の大群が飛びだしてきた。慌てて身をかがめ、蝿に襲われることだけは免れる。なかは見渡すかぎりの闇。津雲の読みどおり、収納ではなく、別室に続いていた。


「何故わかったんだ」

「勘ですよ」


 朧が廊下で見掛けたのが何者かは現段階ではわからないが、娘ではないことは確かだ。娘は客間から出掛けていない。しかしながら客間のなかに娘の姿はなかった。ならば、まだ客間のなかにいる、という可能性もある。もっとも調べ易く、だがあまり考えつかぬ可能性だ。それに賭けただけのことである。

 押入れの、否、隠し部屋のなかに踏み入る。鼻が曲がりそうな悪臭だ。この有様では最悪のことも予想せねばならないと、津雲は羽織の袖で口許を覆いながら、闇に目を凝らす。娘が原形をたもっていることを願い、八畳ほどの板の間を見まわす。


「やはり」


 娘がいた。

 両手両足は縛られ、轡を噛まされている。無造作に転がされた様子からは、既に事切れているのではないかと疑ったが、まだ浅く胸が動いていた。気絶しているのか、朧が助けおこしても目蓋を持ちあげることはない。凄まじい血臭がする。娘に外傷があるとも考えられるが、そもそも壁や床板に血の臭いが染みついているようだ。察するに幾度となく血が流れ、碌に掃除もされずにいたのであろう。血潮は乾いても、腐敗した血の臭いは取れない。

 屍そのものは裏庭に埋めたか、裏の崖下にでも投げ落としたのだろう。

 朧が娘を担ぎ、客間に戻ろうとする。だがそれは、やけに静かな女の声に阻まれた。


「何故、気がつかぬ振りを続けてくださらなかったのですか」


 暗闇を身に巻きつけて、お黒がたたずんでいた。お黒の表情は言うまでもなく影に覆われて見て取れず、肩から腰、腕の輪郭までも闇に霞んでいる。ただ声だけが、感情の抑えられた声ばかりが、響く。


「一宿一飯の恩で。或いはわが身可愛さで。何故に知らぬ存ぜぬを通してはくださらなかったのですか。何故、その娘を救おうとなさるのです。縁もなき、ただ一晩だけおなじ宿に泊まっただけの娘でしょうに」

「別段、救うつもりはありません。ですが、そうですね。貴方は生魑いきすだまというものをご存知ですか」


 かぶりを振ったのか、女の影が微かに傾いだ。

 

「左様でしょうね。されど呪いはご存知のはずだ。呪いは意識しておこなうものです。怨むものに不幸あれ、或いは死んでしまえと。ですが生魑いきすだまとは無意識のうちに、他者に影響を及ぼす《現象》を指します。

 生魑いきすだまは情念から生ず。故に素となる情念が強ければ強いほど、生魑いきすだまの影響は増幅し、あらゆる現実に差し響く。例えば、天候などです」

「天候、ですか」

 

 津雲は頷いた。

 あらためて振りかえれば、この宿にたどり着いた時から既に、違和感はあった。あれだけ朝は晴れていたのに、峠に差し掛かるや否や空が掻き曇り、雨と霧に襲われた。あたかも、誰かが雨雲を招いたように。

 そうして極めつけに、霧のかなたに浮かびあがる灯明。

 暖かな。近寄らずにはいられない、あかり。

 だが、よくよく考えれば、あれはいったい、なにがあれほどまでに光を放っていたのだろうか。障子越しの行燈か。否。囲炉裏火が洩れていた。否。あれは家そのものが、あかりを帯びていたのだ。


「小仏峠では度々天候が崩れ、故に甲州街道の難所とされている訳ですが、その素が貴女の情念に依ると云ったら……思いあたる節はありますか」


 やつれた女の影が、微かに動揺を滲ませる。

 数秒の沈黙を経て、女の声が影を震わせた。 


「身に覚えのないことです」

「ならば、こう尋ねましょうか」


 津雲は影を掃うように羽織の袖を振る。


「貴女は誰が為に、旅の女を捕え、殺しているのですか」


 女は驚愕して、ふらりとよろめいた。津雲の言葉が如何に的を射ていたかは、その挙動が如実に表している。


「娘の」


 闇の緞帳を震わせて、お黒が何事かを言い掛けて、またも黙る。段々と津雲の目が暗闇に慣れ始め、表情こそわからないものの輪郭が捉えられるようにはなってきた。


「娘さんがいらっしゃるのですね」


 津雲はどこまでも穏やかに尋ねる。

 ふ、ふ、と荒い息を洩らして、女はみずからの身を抱き締めながら、髪を振りみだす。暗中に緑がかった黒が滲んだ。呼吸を整え、かのじょは意を決したように語りはじめた。


「娘は産まれつき、盲いています。光を映すこともなく、影を捉えることもなく。それに重ねて、喉までも。声を発することができぬのです。娘は産声すらあげずに産まれてきました。なにが悪かったのかはわかりません。思いあたることがなにひとつないのです。如何なる医者を頼っても、薬を飲んでも、娘は喋ることも視ることもできず。故に健康な女の眼球めだまと声帯を取りあげて、娘に」


 たどたどしい喋りかたは縋るような響きを帯びていた。

 もはや逃げ場はないと理解したのか。或いは情に訴えれば、見逃してもらえると考えたのか。媚びるようにお黒はふたりにすり寄り、両の手指を組んで涙を流す。


眼球めだまを喰らっても盲いた目が視得るようにはならないし、声帯を煮ても焼いても喉がよくなることはないよ」

「ですが、他に望みがないのです」


 朧の正論を一蹴する。

 確かに、産まれながらのめくらおしは如何なる漢方薬、蘭方医学をもってしても治癒できるものではない。だが、かといって人喰いで治癒するものでもないのだ。他に望みがないからといって、数多の旅人を殺して、捌き、娘に食べさせてきたその所業は常軌を逸しているという他にない。


「とても、とても、大事な娘なのです。私にとって、ただひとりの。愛らしい娘なのです。何故にあのが斯様な宿命を負わねばならなかったのでしょうか。何故に、何故に」


 娘の声を聴きたい。娘の瞳に光を。それは娘を愛する母親ならば、誰でも抱くであろう願いだ。されどそれは、いつからか、怨みに歪む。何故、私の娘だけが喋れないのか。何故、私の顔も映してはくれぬのか。

 何故。何故、何故。 


「どうか。どうかお許しを。私はこれまで幾人も殺めましたが、それよりも遥かに多数の旅人の助けになって参りました。宿を貸し、夕餉と朝餉の膳を整え……徳を積んできたのです。乱暴なことをされても、私は、許してきたのです。なのでどうか」


 夥しい血潮の痕が残された床に膝をついて、女はさめざめと泣き続けた。痩せて骨張った背が震える。他人を数とする身勝手。殺されたものも誰かの娘であり、母親がいることに意識を傾けぬ愚鈍。されど、許すも許さざるも、津雲が決めることではない。誰を救済することもできないように。

 津雲は懐から筆を抜き、闇の黒紙に滑らせた。


「解」


 崩れた漢字が、ぶわりと影に霧散する。

 天の雲にまで絡みつく業の糸を解き、津雲は筆を懐に戻す。霧や嵐に遭う旅人が減れば、被害者もそうは増えぬであろう。津雲にできるのはその程度だ。裁くのも、許すのも、後は他の者に委ねる。

 朧を連れ、津雲は悪臭の漂う座敷を後にする。


「ああ、許してくださるのですね。ありがとう、ありがとうございます」


 女の啜り泣きだけがいつまでも、後ろから追い掛けてきた。

 饐えた悪臭はまだ鼻腔に充満している。着物や羽織にも臭いがついたようで、津雲が歩きながら羽織の袖をつまんで振る。臭いのみならず、胸に重く掛かった靄も暫くは晴れないに違いなかった。

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