其の弐 《娘》
湯あみを終えて、津雲と朧は客間に戻ってきていた。津雲は既にずいぶんと眠くなっているらしく、ぼんやりと壁にもたれて煙管を吸っている。置引きに遭っては事だと路銀の袋などは風呂まで持っていったのだが、荷を確かめ、懸念はいらなかったようだと朧が息をついた。
しかしながら、風呂場に忘れ物をしていたことに気がついて、朧は津雲を置いて再度廊下にむかう。
他の客は既に寝静まっているのか、物音ひとつせず、かわりに時々鼾が響いてきた。疲れていることに重ねて、あの薬草の茶が効いているのだろうと思われる。
薄暗い廊下を進む。確か、右に曲がると渡り廊下があり、離れの風呂場に繋がっていたはずだと思いつつ、朧は何気なく左側の廊下に視線を投げた。
暗い廊下の先で、小袖が揺れる。赤い着物。お黒ではない。お黒は囲炉裏の灰のような地色の絣を着ていた。旅の娘は確か、赤だった。娘がまだ廊下をうろついているのだろうか。朧に気づかれたことを嫌がるように、ぺたぺたと裸足の音が走りだす。朧もとっさに後を追い掛ける。
廊下の角を曲がる。
誰もいない。音も、急に途絶えた。
廊下は短く、突きあたりには裏戸がある。裏戸から外に出たのではないかとも考えたのだが、内側から閂が嵌まっていた。壁にでも吸い込まれていったのでなければ、足音のぬしが忽然とゆくえを晦ませるはずがない。
足音は絶えたが、ぶぶぶぶぶぶという鼓膜を逆撫でするような音が裏戸から洩れてきた。聞き覚えのある、嫌な音。木戸の裏側に夥しい数の蝿が蠢いている様が浮かび、朧は閂に伸ばしかけた指をとめる。
胴体の割に大きすぎる複眼に緑光りする腹部。頻って翅を震わせる様がなんとも嫌悪を煽る、不潔な
さすりさすりと前肢をこすりあわせる動きが何故か、目蓋の裏に浮かぶ。さすりさすり。あれは仏に祈るような仕草ではないか。
「……」
思いきって、閂に手を掛けたのがさきか、後ろから板を踏む音がした。ぱっと、裏戸から距離を取る。
「如何なさいましたか」
振りかえれば、お黒が闇のなかにぬっとたたずんでいた。
「……厠の場所を、忘れてしまってね」
朧は睡魔に襲われている素振りをして、肩を竦めてみせる。お黒はそれを易々と信じ、或いは微かな疑いを擁きながらも気にとめていない素振りをして「こちらですよ」と案内してくれた。影のわだかまる板張りの床を踏み、廊下を曲がる。
かたん――と。
なにかの落ちるような音が背後から聞こえてきたが、お黒の手前、振りかえることはできなかった。胸騒ぎのようなものだけが、残る。それは肋骨の内側に蝿が湧くような不快感で、朧は眉根を顰めて闇を睨んだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
厠に寄ってから風呂にいき、置き忘れていた手形を回収する。手形は誰にも盗まれず、置いてあった。最後に湯あみしたのがふたりだったのも幸いしていた。
津雲はずいぶんと眠たそうだった。寝落ちしているのではないかと気懸りではあったが、かれは眠りが浅い。さきに眠っていても有事の際には起きるだろうと、朧はついでにもうひとつ気になっていたところに寄り道をする。とはいっても、津雲と朧のふたりに割り当てられた客間の斜めむかいにある客間を覗くだけだ。なかで眠っているであろう娘に知られれば、夜這いと勘違いされ、大変な騒ぎになる。音を殺して、襖を微かに開き、なかを覗いた。
狭い三畳の真ん中に布団が敷かれている。廊下からみて真正面にあるはずの押入れはなく、壁際には荷が置かれ、脱いだ着物が掛けられていた。赤い無地の着物だ。布団はめくれあがり、なかに人が眠っている様子はない。
やはり娘が出掛けていたのか。しかしこんな夜更けに、どこにいったのか。朧が眸を細めた。
静かに襖を滑らせて、客間に戻る。
津雲はまだ煙管を吸っていた。眠いだろうにどことなく落ち着かないのか、闇に降る雨垂れを眺めている。
「忘れ物はありましたか」
「ちょいと気になることがあってね」
朧が廊下での始終を話すと、津雲はぼんやりとしているようでも頭は働いているのか、微かに柳眉を動かす。数秒考えてから、津雲は再度、娘の客間の様子を事細かく尋ねる。朧は「押入れがなく、着物が掛けてあり、荷も置きっぱなしだった」と繰りかえすと、津雲が「なるほど」と云った。
「赤い着物は、客間に掛けてあったのですね」
朧が違和感に気がつくのと、津雲が唇の端を持ちあげるのは同時だった。
「――貴方が廊下で見掛けたのは真に、旅の娘さんでしたか」
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