《割股之噺》

其の壱 《小》

 小仏峠。甲州街道の要路にして難所とされる。

 その昔、武田信玄が遠征の折、この険しき小仏峠を越えて敵陣に攻めることで相手の意表を突き、敵を籠城まで追い詰めた。この記録からも、小仏峠がいかに厳しい難路であるかが窺える。

 隆起した木の根に覆われた道には雑草も繁らず、剥きだしの土は容赦なく降り続ける雨に酷くぬかるんでいた。落葉松からまつの群が重い沈黙を湛えて、ぬっとならんでいる。ちょうど紅葉の季節だが、枝葉は霧に遮られ、赤黒い幹だけが愛想もなく棒立ちしていた。 

 真昼だというのに一帯は薄暗く、よほどに気を引き締めなければ木の根に足を取られて転ぶか、崖から転落する危険もある。

 旅には到底ふさわしくない派手な羽織が、霧のなかでぱっと映える。黄に胡蝶の意匠の長羽織だ。当然ながら羽織が濡れて、袖の端からはぼたぼたと水が垂れている。それを羽織っているのは上背のある、痩せ細った男だった。肩の輪郭がとがっており、肌の薄青さからも健康ではないことが窺える。菅笠を被ってはいるが、ほとんど意味をなしておらず、笠の縁からは滝のように雨垂れが流れていた。浪人でもなく、かといって商人というような荷でもない。伊勢参りか、湯治か。

 驚くべきことに草鞋ではなく下駄を履いている。下駄で旅など考えられないことだが、足場が悪いなかでもかれは平然と歩いていた。


「止みそうにもありませんね、ロウさん」


 男が雨音にかき消されそうな声で言った。

 逸れないよう、すぐ後ろをならんで歩いていた人影が肩を竦める。地味な紺の着物に道中合羽を羽織った、書生か町医者といった雰囲気の男だ。眼鏡を掛け、笠を被っていても鋭い眸が睨みを利かせていた。


「このあたりは天候が崩れやすい地域だとは知り及んでいたが、まさかこうも急に、激しく降られるとはね。今朝がたまではあれほど晴れていたのに。最悪だよ」

「旅に天候の急変はつきものですからね」

「そうはいっても加減があるだろう、津雲」


 津雲と呼び掛けられた羽織の男が苦笑する。


「文句ならば、あたしにではなく、雨雲にでもいってやってくださいよ」


 ふたりとも峠を越えなければならないのだが、この霧では街道を進めているのかどうかさえも確かではない。現に前方を進んでいたはずの他の旅人の姿が霧に紛れてから、ずいぶんと経っている。大地から浮きあがった木の根がただでさえ歩みを邪魔するというのに、濡れた着物の重みがずっしりと肩や背に掛かっていた。霧が晴れるまで雨宿りをしようにも、落葉松の根方では野ざらしと大差がない。仕方なしに雨の簾を掻き分けるようにして、前進を続ける。遠くにぽつりと、橙の灯明が浮かんでいるのが見えた。まるみを帯びた暖かなあかりは、ふたりからすれば、救いのひかりのように映ったに違いない。されどこのような峠に灯明など、あるものだろうか。


「あれは、人家の灯りですかね」


 確かめるように津雲が尋ねる。


「あの規模だと、提灯ではなさそうだよ。おそらくは人家だ。狐か狢に化かされているんじゃアなければ、だけれどね」

「足もとに気をつけながら、近づいてみますか」

「そうだね。狐火に惑わされて崖から落ちたなんて噺は、古今東西からの定番だよ」


 慎重に距離を縮めた。灯明はぼんやりと霧のなかに漂い、雨が激しくなると霞みはするものの、唐突に搔き消えることはなかった。崖に誘われるようなこともなく、ふたりは家屋の前に立ってはじめてに、このような峠に人家があったということに驚いた。屋敷といっても差し障りのないほどの家屋だ。


「どなたか、いらっしゃいますか」


 声を掛ける。

 さほど待たずに戸が滑り、絣の着物を着た女が現れた。やつれた女だった。一瞬幽霊か、狐の類かと疑うほどに頬がこけている。鼻筋が通り、頬骨の位置もちょうどいいので、後少しばかりふくよかであれば美人に属するだろう。女は濡れきったふたりの姿をみて、「またお客様」と愛想よく微笑んだ。


「どうぞどうぞおあがりなさって。急に降られてこまっておられたんでしょう。他にも数人の旅の御仁がここにたどり着いて、雨宿りをなさっています。峠を越えるにはまだ掛かります。今晩は是非に、お泊りになってはいかがでしょうか」

「それはさすがに申し訳ないので、雨がやむまで軒をお借りしてもよろしいでしょうか」

「いえいえ、お気になさらず。このようなところに暮らしていて、旅の御仁をお泊めして各地のお話を伺うのが私の数少ない楽しみなのです。小仏峠を越えるのは難儀なことですから、どうか一晩だけでもやすんでいかれて」


 女はにこやかに、何処の馬の骨とも知れない旅の者を歓迎してくれた。津雲は羽織を朧は道中合羽を脱いで座敷にあがると、囲炉裏端には複数人の旅の者とおぼしき人物がすわっていた。飛脚らしき筋骨隆々の男と、無精髭の浪人。それに信濃しなのの訛がある娘がひとり。到着してしばらく経っているのか、思い思いに寛いでいた。囲炉裏を囲む旅人の輪に津雲と朧も加わる。凍えた身体に火の暖かさがしみた。


「酷い雨でしたな」


 浪人が声を掛けてきた。

 

「ええ、真に」

「しておぬしは、どちらにいかれるおつもりで」

「甲斐國には万病に利く湯治場があるとの噂を聞き及びまして、そちらを頼りに旅を続けております」


 津雲がそのように話すと、浪人は津雲の体格と顔色をみて「左様か」と唸った。ロウは壁にもたれて、なにか怪しい者が紛れていないかと目を配らせている。


それがしは諏訪に所用が御座る」

「それはそれは、遠いですね」

「されど急ぐ旅路でもあるまいて。そちらの飛脚殿のほうが幾らも難儀で御座ろう」


 話をむけられた飛脚は鉢巻を巻いた頭をさげて、こまったように笑った。


「へえ、明朝には小仏峠を抜けられるはずが、このような霧のなかでは二進も三進もいかず。だけども長年飛脚を続けてきてりゃ、こういうことにゃ慣れてまさあ」


 続けて飛脚は隣でかじかんだ手を暖めていた娘に声を掛ける。


「そちらの娘さんは、お連れさんと逸れちまったんですかい。まさか、ひとり旅なんてことは」

「いえ、わたすはひとり旅です。お江戸におっかさぁんがおるんです。おっかぁさんに逢いとうて、いにむに小仏峠さ、越えなぁなんねぇんです」

「ずいぶんと親孝行な娘さんでさあ。無事に峠を越えて、おっかさんを安堵させてやらなきゃなんねぇな」


 今晩の宿ができた安堵からか、和気藹々とした雰囲気の旅人達を眺めながら、津雲は進んで話すわけでもなく程よい距離を取って相づちを打ち続けた。

 間もなくして、家の女が戻ってきた。


「客間の準備が整いましたので、どうぞ」


 廊下に案内される。外観からわかっていたことだが、屋敷といってもいいほどの家屋だ。廊下を挿んで右にふたつ左にひとつ、客間がある。右側のひとつに津雲と朧、もうひとつに飛脚と浪人、左側の小さな座敷に娘が泊まることになった。間取りからして、もともと旅籠かなにかだったのだろうか。このような峠に、という疑問は残るものの他に考えようがない。


「後ほど夕餉の準備をしてから、お声を掛けますね」


 津雲は再度礼を言い、女に謝礼を渡す。女は恐縮していたが、突きかえすのは失礼にあたると考えたのか、受け取ってくれた。


 座敷にあがるなり、津雲は着替えを始める。

 帯を解き、濡れた着物を脱ぐ。雨は襦袢まで浸みていた。素肌はやはり蝋のように透きとおり、肋骨あばらぼねや腰骨が浮いている。背の傷にはまだ布が巻かれ、峠を歩き続けたせいか、僅かに血が滲んでいた。油紙でつつまれた荷は無事だったので、乾いた着物を取りだして着つける。身支度が済んでから、津雲は畳にすわった。朧は荷を解いて、ひとつひとつ濡れていないかを確かめている。

 津雲はあらためて部屋を見まわす。大きさは五畳半。然程広々とはしていないが、一晩泊まる程度ならば不便はない。畳の端にも障子の枠にも埃はなく、いつ客が訪れても構わないように掃除されていた。


「宿を借りられて、幸いでしたね」

「そうかな。旨い話には大抵、裏があるよ」


 津雲の言葉に朧が胡散臭そうに眉を持ちあげる。続けて、かれはふっと、微かな憂いを滲ませて、笑った。


「君だって、無償の善意などを信じきれるほど楽に渡ってきたわけではあるまいね」


 津雲はひょいと、肩を竦める。


 それから暫く経って、襖の外側、廊下から声を掛けられた。


「夕餉ができあがりました」


  囲炉裏のある居間に宿泊している旅人がみな、夕餉を食べに集まった。津雲と朧を含めて五人が揃ってから、女は銘々膳を運んできた。「かたじけない」と素直に喜んだり「それほどお世話になるわけには」と恐縮したり、それぞれが違った言葉を女に掛けつつも空腹には勝てず、いそいそと膳によそわれた飯に箸をつける。膳とはいっても漬物や味噌汁や野菜の煮物などの実に細やかなものだったが、それがよけいに家庭の暖かさを思い起こさせ、長旅で疲れた旅人の食欲をそそった。津雲も有難くいただいたが、素朴な味つけの優しい料理ばかりだった。津雲がそう褒めると、女はやつれた顔で柔らかく微笑んだ。

 ひとしきり夕餉を食べ終えると、女は食後の茶を持ってきてくれた。なんでも安眠効果のある茶だそうだ。津雲も口をつけたが、癖のない香りで飲みやすかった。朧が眉根に皺を寄せて、茶の香りや味を確かめていたが、職業柄こうした薬草の類が気になるのだろう。

 

 最後に家の女が、囲炉裏の輪に加わった。

 改まって、女が名乗る。


「申し遅れましたが、私は、おくろというものにてございます。十数年も昔に最愛の夫に先だたれました。いまは峠を越えられずに難儀なさっている旅の御仁に宿を貸し、様々な旅のお話や故郷語りを聴かせていただくことだけを励みと致しております」


 垂れたまなじりといい柔らかな物腰といい、非常に優しげで、それ故かどこか薄幸そうな雰囲気を漂わせていた。誰彼構わず、旅人に宿を貸すという無償の善意は実に結構だが、相手が善人ばかりとはかぎらない。山賊が紛れていることもある。襲われ、殺される危険を冒してでもこうしたことを続けているのは夫をなくし、なにひとつの未練もないからなのか。あるいは他者の善意を疑わぬからか。

 されど女は一見に如かずだ。意外に肝の据わった女なのかもしれぬと津雲は思った。

 お黒はみなを見まわして、にこりと柔らかく微笑みかけた。


「是非とも皆さまがたの話をお聴かせ願います」


 囲炉裏火にあたりながら、旅人はお黒の所望通りに其々の思い出の話を語った。浪人は諏訪湖の御神渡りがいかに神々しいものかを語り、続けて飛脚が江戸から甲斐までの道中で狼に襲われた時の話をし、娘は故郷の長閑な風景をのんびりと話した。津雲は京の都でのちょいと不可思議な話をし、朧は故郷である唐国の暮らしぶりを喋る。

 お黒は時に笑い、時に驚き、幾度も頷きながらかれらの話を楽しんだ。ひとしきり話す順番がまわると、段々と旅の疲れが出てきたのか、旅人達の目蓋が重くなってきた。


「すっかりと夜も更けましたね。すぐに湯あみの準備を致します。各人、客間でお待ちください」


 お黒が囲炉裏端から立ちあがり、薄暗い廊下にむかっていった。旅人達はぼんやりとしながら各々の部屋に戻っていく。津雲と朧もいったん、座敷にひきあげた。

 障子を細く開け、雨の様子を確かめる。とっぷりと暮れた帳から墨を流すように、雨は絶えることなく降りしきっていた。森の奥だけあって、まわりにはあかりひとつなく、霧の濃さはわからない。

 朧が口を開いた。

 

「あの茶だが」

「毒、でしたか」


 津雲の疑いに首を真横に振りつつも、朧は難しい顔をする。


「いや、毒ではないよ。だが非常に強い催眠効果のある茶だ。僕は催眠薬の類は効かないが、君はどうだ」

「まァちょいと眠くはなってきましたが、この程度ならば問題ありません」

「僕ひとりでも起きていれば、危険はないだろう」


 壁にもたれ、津雲がふむと思案する。


「となると、お黒さんは旅人を眠らせて物を盗るつもりだとか、そういうことになりますか」

「いや、そうと決まったわけじゃない。旅人とはいってもよからぬ輩もいるだろう。そういう輩は大抵、宵闇に紛れて事に及ぶ。催眠薬を盛り熟睡させて、何事もなく帰すという策やもしれないね。どちらにしても、案外と頭のまわる女だよ、あれは。気をつけるに越したことはないね」


 朧は喋りながら、ふと壁に視線をとめた。

 壁にてんてんてんと複数の黒いしみがある。綺麗に掃除されているからこそ、その僅かな汚れが気になった。さきほど案内された時には気づかなかったものだ。急に壁から汚れが浮かびあがったように疑えて、どうにも気味が悪い。朧が拭き取ろうと近寄る。手をかざしたのが早いか、ぶぶぶっと耳障りな音を立てて、黒いしみが一斉に飛びたった。

 それは汚れではなく、十匹程の蝿の群だった。

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