其の参 《さらば 江戸の町》

「それではいきますか」


 朝焼けを背に受け、津雲が晴れ晴れと言った。

 あれだけ飲んで、どちらも酔いつぶれることなく朝には起きてきた。準備しておいた荷を担いで、東雲を振り仰ぐ。もっとも飲んでいるうちにどちらからともなく眠ってしまい、結局は勝負がつかなかった。

 何度か休憩を挿みながら歩き、日が落ちる前に内藤新宿まで移動できればよい。津雲の傷は塞がったが、まだ本調子というわけではない。余裕をもって、旅籠にたどり着ける程度の日程で動くべきだと、朧は言った。今後は野宿することも避けられないだろうが、江戸町内にいる間はきちんと宿を取りたい。ふたりして背に結んでいる風呂敷には着替えや鍋などの最低限の荷物だけが入っており、野宿を快適にするようなものはなかった。


「この庵とも暫しの別れだね」


 草庵を振りかえり、朧が感慨深げに呟いた。

 いつ眺めても、郷愁を誘われる風景だ。

 藁葺きの屋根には赤や黄と錦を織りなす落ち葉が、こんもりと積もっている。土壁の罅には蔦が絡まり、紅の彩を添えていた。秋は麗しく、されども物寂しき季節でもある。野には微睡む蒲公英と綿毛の群。柔らかな綿毛が着物のすそにまとわりつく。今朝がた炊いた飯の香りが律の風に乗って、袖を手繰った。

 この庵に暮らしていた歳月は短きなれども、津雲の人生において、比類なきほどに安穏な時であった。祖先の故郷であるおろち連峰が津雲の故郷だとして、ここが第二の故郷だと想えるほどに。

 このゆかしき風景ともいよいよにお別れだ。

 津雲が再びに、この地に帰ることはないだろう。


「真に、よいのですか」

「なにがだね」


 朧はわかっている癖に惚けて笑った。


 患者を放棄して発つことは無責任極まりなく、かれの几帳面な気質からして辛いものがあるはずだ。


「僕の掛かり受けの重篤患者はもともと、労咳ろうがいみさおだけだった。他の患者はせいぜい風邪や下り腹、腰痛、偶にかすり傷くらいだ。後は老人が数人か。ただそちらは、別段重い病を抱えているわけでもないからね。そのあたりの町医者にでも診てもらえばいいさ。江戸の町医者は多少値が張るかも知れないが、それは僕の知ったことではないね」

「あれだけ慕われていたのに、いいんですか?」

「生憎だがね、餓鬼と老いぼれに慕われても嬉しくもなんともないんだよ」


 散々な言い様は未練を断とうとしている証拠だ。未練がないわけではない。けれどそれを振りきってでも、朧は津雲といくことを選択したのだ。ならば、津雲に言えることはない。


「いこう」


 朧が綿毛を蹴散らして、歩きだす。


 津雲は橋を渡ってくる人影を見つけ、立ちどまった。さては刺客がやってきたのかと身構える。人影は敵意を感じさせない緩やかな足取りで橋を渡り、庵にむかってきた。ずいぶんと近づいて、身なりがわかってもおかしくはないと思われる距離まで迫ってもなお黒いばかりの影としか見て取れず、ようやくにそれが喪服なのだとわかる。鴉のような喪服に白髪。呪物屋まがものやだ。

 呪物屋はへらりと笑って、袖を振ってきた。


「いやァ、間におうてよかったわァ」

「この間は依頼の斡旋をしていただき、ありがとうございました」


 津雲は警戒を緩めずに礼だけは伝え、あらかじめ用意していた礼金を差しだす。呪物屋はそれを無視して受け取らず、勝手に喋りはじめた。


「あやまらなあかんことがあるんですわ。巻物を盗ったんは、ぼくなんです」

「なんだって……!? 貴様……」


 朧が怒りを漲らせて踏みだすが、呪物屋はひょいと後ろに退き、肩を竦めた。


「あァ、怒らんといてください。あんたさんがたの為やったんですから」

「どういうことですか」


 津雲が尋ねると、呪物屋はつらつらと喋る。


「都のお偉いさんがまだあんたさんのことを捜してはったから、巻物を渡して、審神司さんは死んだゆーて諦めてもろたんですわ。亡骸もないのに、言葉だけでは諦めてもらえへんやろ。巻物渡したら、納得してはったわ。ほんで、ついでやから、町医者さんは庵に帰らへんで京の都にむかった。仇討ちをしはる心算つもりやて嘘ついたら、慌てて都に戻っていかはったんですわ」


 嘘八百だが、確かに津雲らの為に吐かれた嘘だとはわかる。もっともこの呪物屋が刺客にそのような嘘を吐いたかどうか、津雲らを売っていないかどうかはさだかではない。


「疑ってはるのん? ひどいなァ、あんたさんに嘘なんてついてませんて」


 呪物屋が情けない声をあげる。津雲はため息をついて、「わかりました。信じましょう」と言いなおす。呪物屋にこちらを売り渡す気があれば、とっくに刺客の強襲を受けている。


「しかしながら貴方に如何様いかような利があるのですか。貴方は利がなければ、決して動かないはず。何故、都のお偉いがたを敵にまわしてまで、あたしたちをかばうのです」


 真剣に問い質されているというのに、呪物屋は細い眸を殊更に細くして、愛想笑いを深める。狐のようだ。それも百年、千年と生き続けた化生の類。若白髪が、よけいにその妄想に現実味を帯びさせる。


「ひとつは、そやね、ぼくは都のお偉いさんが嫌いなんですわ。都合の悪いもんはぜんぶなかったことにして、安穏としてはりますやろ。そうゆうのをみてると、あァ、つまらんなァて」


 笑い続けているのに、微かに窺える眸は凍えるほどに冷たい。なにか、朝廷と浅からぬ因縁があるのだろうか。


「それにぼくは昔から《恐れ》とかゆゥ感情があらへんのですわ。気紛れにしたことが巡り巡ってこの身を滅ぼしても、それはそれ。あんま頓着しとらへん」

「《恐れ》がない、ですか。故に呪物屋などという生業を続けていけるのですね」


 呪物とは、死後も残り続けた《生魑》である。死霊ではなく生魑とされるのは、生時の情念が理を曲げた結果、死後も霊魂が現世に留まるからだ。言わば、順序の問題だと、以前津雲は語った。

 すなわち、呪物とは生魑である。

 津雲の頭にひとつの疑念がもたげた。津雲の視線が変わったのをみて、呪物屋は頬を持ちあげた。


「後は……そうやねェ、あんたさんに縁があるんやわ」

「あたしに縁、ですか」

「いや、縁があるらしい、というほうが正確やね。ぼくかて、そないな昔のことは実際、知らんわけやさかい」


 呪物屋は相変わらずのまわりくどさで喋り続けていたが、ふっと一拍黙り、遂に核心に触れる。それはいまの会話のうちに、津雲がおおよそ想像がつき始めていたことではあったが、それでもなお津雲を驚愕させるに足る真実であった。


「僕の先祖をたどっていくと、どうやらあんたさんの祖に繋がるみたいや」


 驚き、津雲が言葉を詰まらせた。


「巻物の裏側に、印影いんえいがありましたやろ」


 津雲が記憶を手繰る。巻物に張られた布地には、確かに赤い印章がされていた。長く巻物と睨みあっていた朧も、確かにあったはずだと頷く。巻物が書かれてずいぶんと経った後に捺印なついんされたのか、かすれてはいたものの、漢字の詳細が見て取れるほどにはしっかりと残っていた。


とくでしたか」


 津雲が紙もなく指先だけでその漢字を書けば、呪物屋が頷いた。袖から僅かに覗いた人差し指でみずからの胸を指して、呪物屋は真相を打ち明ける。

 

「ぼくの実名は鬼讟きとくゆうんです。ぼくの一族は、かならずこのとくという漢字を継ぐ。あんたさんにはすぐに解らはるやろけど、とくには、悪しき言霊ゆー意味があるんですわ。悪しき言霊を𧶠ひさぐ。それが、このとくの意や。さて、僕がなんの子孫か、あんたさんにはとっくにわかりますやろ?」


 ひとつの結論にたどり着いて、津雲が一瞬目を見張り、腑に落ちたようにすっと眸を細めた。


「貴方は、呪司のろいつかさの生き残りなのですか」


 呪物屋がにんまりと笑った。

 朧は驚いたものの、すぐに相手を睨みつけ、身構える。

 呪司は系譜こそ言司ことつかさの一族だが、遥か昔に一族を裏切って朝廷に寝がえり、道を違えた。言わば、言司の敵だ。ふたりが警戒し、身構えるのも当然といえよう。

 

「貴方は、当時の真実を」

「ざんねんやけど、ぼくはなんにも。あんたさんが経緯の詳細を知らへんのと一緒や。いや、それは失礼やね。祖については、ぼくのほうが遥かに疎い。あんたさんみたいな異能も受け継いでへんし、呪いや祟りの類が利かへんだけの凡夫や。せやけど一族のよしみくらいは」


 言い掛けて、呪物屋はみずからの言葉を疑うように首をひねった。「いいや、ちゃいますわ」とさきほどの言葉を打ち消して、呪物屋は幾度か頷く。


「所詮、遠い昔の噺や。先祖の頃の縁も慙愧の念やらなんやらもぼくには係わりのあらへんことやさかい、ただの気紛れやわ。あとは、そうやね、奈落に落ちかけているもんがおっても、あんたさんはぜったいに救済とかしはらへんやろ。道を間違うてることは教えても、無理に助けようとはせえへん。そこに好感もってましてん。ほんまは、あんたさんが一族の報復に京の都にでもいかはったらおもろいんやけど」

「あたしは報復をするつもりはありません」


 津雲は静かな眸をして、言いきった。


「あたしの為すべきは報復ではない」


 普段の雄弁さが嘘のように呪物屋は黙って、微笑んでいる。気を損ねたのか、どうか。細い目縁まなぶちから覗いた赤い眸が、真直ぐに津雲を見詰めかえす。なにを考えているのかはまるで読めない。他者の絶望を歓ぶ眸が津雲を映し、しばし視線が交錯する。それは袖振りあうが如き視線の重なりで、やがてはするりとほどかれた。

 

「もゥ逢うこともあらへんのやろねェ」


 朝焼けの名残も微かに、青く移ろった東の雲のあいまにかりの群が飛んでいく。秋の風に乗って、果たしてどこまで渡るのだろうか。


「最後の縁でしたが、これにて終いですね」


 一族の血脈はこれで絶えるだろう。然れども、終わることを嘆きはしまい。逆だ。津雲はすべてを終わらせるべく、いまからいくのだから。


 ふたつの影が平野を歩きだす。庵も喪服も振りかえらず、蒲公英の小径こみちを進んでいく。喪服の袖もまたそれを留めようとすることもなく、江戸の町から去りゆくふたりの後ろ姿をただ漠然と眺めていた。

 風が渡る。すすきが舞い、赤蜻蛉は秋空に線をひく。なにげなしに仰げば、朝陽に霞んだ月が山の稜線に傾き落ちるところであった。みちを連れ添うふたりの袖の影が重なる。揺れる影はどこか楽しげであった。

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