其の弐 《浅からぬ縁》
濃紺の帳を彩る上弦の月は清かだ。秋の宵は長く、曙はまだ遠い。さわさわと枯れ尾花が騒いだ。胸にわだかまる憂いなどは、どうせ秋の木枯らしに曝されているうちに千々になる。津雲は
腹を決めて、庵から離れ――
「な」
闇から伸びてきた腕に、肩をつかまれた。
続けて袖を手繰り寄せられる。あやうく転ぶところだったが、よろめきながらもかろうじて踏みとどまった。
「成果だけ奪って逃げようだなんて、いい度胸じゃないか、津雲」
確かに眠っていたはずの朧が、袖をつかんでいた。
黒い
「……朧さん」
津雲はこまったように笑った。眠っているものだと見誤ったことを悔いているのか。或いは、最後のわがままを見逃してくれなかった親友を責めてのものなのか。
「これは、あんたには価値のないものです。いえ、持っているほうが、よほどに危険をはらむ」
刺客がまだ津雲を捜しているということも、充分に考えられるのだ。巻物がこうして解読されたことが敵に知れ渡れば、朧の身が危険に曝される。
「そうだね。実に物騒な書物だ。だが乗りかけた舟でもある」
「しかしながら、いまならばまだ、後戻りができます」
「僕には解読の正誤を確かめる義務もあるよ」
「間違えるはずがない。あんたは一字一句たりとも、間違えないでしょう。一流の
「僕だって間違えることくらいはあるさ」
「普段はね。ですが仕事においては、ただの一度もないはずだ。漢方薬の分量を誤ることもなければ、書を書き損じることもない。長いつきあいなんだ。あなたのことは、それなりに知っています。信頼もしている」
「信頼、ね」
言い争いたいわけでないのだと、津雲は首を横に振る。
後ろ髪をひかれるわけにはいかない。なにも残さないと決めたのだ。振りきるように、津雲は云った。
「ここはよいところです。暮らしやすく、落ち着く。住み慣れたこの地をむざと離れてまで、無縁の一族が滅んだ地を捜しにいく、その意味が、あんたにはない。これはあたしが最後に為すべきことであって、あんたには係わりのないことだ」
はっきりと拒絶され、朧が言葉を詰まらせる。つかまれていた羽織の袖が、はらりと落ちた。帳のような眸が、殊更に陰る。月に叢雲が掛かるかの如く、異境の眸には憂いが満ちていた。
「……ああ、確かにそのとおりだよ。異論の余地はないね。とうに滅びて野ざらしの骨が転がっているだけの地などに興味はない。僕には縁のないところだ」
「ならば、どうして」
「わからないのか」
袖をつかんでいた指が、怒りからか、微かに震えた。いまはからっぽの掌を握り締め、朧は努めて静かに、語る。
「僕は、君の祖たる一族の故郷には縁も所縁もない。けれどもだ」
呼吸をひとつ挿んで、瞬きをして。
かれは穏やかに、云いきった。
「――――君とは、縁がある」
縁か。
津雲は眸を細めた。
縁とは、織物だ。糸は意から生ず。みずからに働きかける意は縦糸であり、他者に強く働きかける時に、それらは情念という横糸になる。ふたつが織りあわされることにより、多様なる縁が紡がれる。縁なくして、人生は語れぬ。されど果敢なきはひとの情。たばねるにつれ、糸が
縁が
人の業は生魑をひき起こす。それは呪いに非ず。それは霊に非ず。
それゆえに、恐ろしい。世の道理を曲げ、秩序さえ崩す。
津雲はこれまで多様なる業と情念とそのむごき顛末を見続けてきた。次第に津雲は、縁そのものを
斯くして、津雲はいかにあろうと、誰であろうと、袖振り合うほどの縁しか結ばぬと誓っていたのだ。
「云わば、腐れ縁だよ。けれども、縁は縁だ。違うのか」
やすやすと頷けないほどに、その言葉は重い。津雲はその重さを、誰よりも理解している。津雲はかみ締めるように目蓋をおろす。
短い静寂が、遠退いていた虫の音をひき寄せた。野に響き渡る澄んだ鳴き声は鈴虫か、蟋蟀か。季節は移ろう。夏から秋に。やがては冬に。
それからあらためて、唇の端を真横に結んで、たたずむ親友を見詰めた。
決して変わらない、という細やかでありながら難儀な約束を果たしてくれた友。いまだって、かれは変わらない。こころ移ろったのは津雲だ。友を置いていくことに寂しさを覚え、未練を残すほどには、変わった。変わってしまった。それがよいことなのか、悪いことだったのかはわからない。然れどもいま、津雲はみずからの指に結ばれた縁を、
「確かに」
津雲は観念したように笑って、緩やかに頷いた。
「貴方とは、浅からぬ縁がありますね」
言葉だけではなく、
「それに僕は、中途半端が嫌いな
津雲は笑わずにはいられなかった。
なんて、かれらしいのだろうか。
「あんたは実に
「構わないよ。旅が終われば、また戻る。僕の人生なんだ。好きにやってやるよ」
そういって、空を振り仰ぐ。
明け時はまだ遠い。寝なおすこともできるが、ふたりとも目が冴えてしまった。
「酒でもどうだい。刺客はどうやらこのあたりにはいないようだからね。それに君も僕も酒には強い。江戸の酒も飲み納めだからね」
「それはいい」
ふたりして布団を折り畳み、座敷の隅に押しやった。
壁にもたれて畳に腰をおろす。徳利を傾け、互いの盃を満たす。津雲が盃を掲げ、香りを楽しみながら飲み乾す。吐息が熱く燃えた。普段から飲んでいる酒よりも、強い。火の雫が喉から腹まで落ちて、五臓六腑にしみ渡る。
辛いわけではない。逆だ。舌が蕩けるほどの甘露だった。
時の武将である源頼光が、かつて酒呑童子に振る舞ったものだといわれても疑わない。下戸ならば、香りを嗅いだだけで倒れそうな代物だ。これにはさしもの津雲も目眩を覚えたらしく、片眉を持ちあげた。
「……意地になっていませんか?」
「君は昔から酔わない。だが酩酊の心地よさを、一度くらいは君にも味わってもらいたいんだよ。いわば古くからの友を想う優しさ、親切心じゃないか。どちらが先に酔うか、楽しみだね」
「以前負けたことを忘れたんですか?」
「三年前の僕とおなじだとは思わないで欲しいね。こちらに暮らすようになってから、ずっと飲み続けていた銘柄でね。慣れているんだ。決して負けないね」
徳利をならべて、朧が口端を歪ませた。
畳に並べられた徳利は三つ、ふたりがそれぞれ預かっている徳利を含めれば五升。死に至りかねない量だったが、酒豪ふたりを酔わせるには少なすぎず多すぎずといったところだ。
そこからは、ほとんどなにも語らずに、酒を酌みかわす。
穏やかな沈黙だった。
秋の虫の輪唱を肴に、徳利がひとつまたひとつと乾いていく。
段々と傾きはじめた上弦の月がちょうど、窓に懸かっていた。津雲が畳に置いた盃のなかに、ぽっかりと月影が漂う。遥か遠いところにある光の投影ではなく、真に、月が朱塗りの盃まで落ちてきたかのようであった。月を呑み乾して、津雲が熱の帯びた息をついた。
月の傾きと徳利に残る酒の量が、時を刻む。
ふたりの酒宴を、黄金の月だけが眺めていた。
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