《本筋之伍》
其の壱 《津雲発つ》
秋風に 霧飛び分けて来る雁の千世に変はらぬ 声聞こゆなり
紀貫之 後撰357
落ち葉を踏みしめて、橋を渡る。
秋を迎え、葉が紫に移ろっても、
「帰ってきたね」
草庵はあの朝となにひとつ変わらず、穏やかにたたずんでいた。
釣りに出掛けたきり帰れなくなってしまい、よもや刺客に焼き払われているのではないかと懸念がつきなかったが、庵そのものは無事だった。後は、なかに巻物があるかどうかだ。刺客が待ち受けているという危険を考慮して、
「巻物だけが、ない」
遅れてやってきた津雲がそれを聞いて、表情を曇らせる。予想していたとは言えども、実際に巻物が奪われた事実を知り落胆が隠せなかった。
「そう、ですか。わが故郷の手掛かりはなくなったということですね」
「いや、それは違うね。そもそも奇襲を受けてからは、巻物を奪われている前提で動いていた。巻物は相手にくれてやるつもりだったといってもいい」
自信に満ちた朧の言葉に津雲が首を傾げた。
朧はとんとみずからの頭を人差し指で小突いてみせる。
「巻物に書かれていたことはすべて頭に入っている。連日解読に勤しんでいたんだ。それくらいは訳ないね。解読にもちいた紙はその都度燃やし、清書したものだけ残して肌身離さずもっていたから、それが刺客に渡っているということもない。東条家に滞在している間に残りの翻訳も済んだ。後は最後の清書で、地図にするだけだ」
「朧さん……やはり、貴方に頼んでよかった」
揺るぎない信頼をこめた感嘆に、朧がひょいと肩を竦める。
「面倒事は嫌いだが、ひとたび受けて中途半端に終えるのも嫌だからね」
畳に腰をおろして、朧は息をついた。
津雲もいつもの窓際にすわる。馴染んだ風が窓から吹き込んで、津雲の髪を梳いた。朧がさっそく清書の作業に移るのを眺めながら、津雲は欠伸をする。安穏な午後の日差しにつつまれて、津雲がうつらうつらと舟を漕ぎはじめるまで、さほど時は掛からなかった。昨晩からほとんど休まずに歩き続け、遥々六浦から帰ってきたのだ。
加えて、東条家の屋敷では落ち着いて眠れなかった。やっと安堵できる場所に帰りついて、急に眠くなるのも致しかたのないことだった。
津雲は筆と紙が擦れる音を聴きながら、眠りに落ちていく。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
津雲が起きたのは晩を跨いで、翌日の朝だった。
身支度を整えてすぐに清書が終わったことを朧から伝えられ、途方もない作業の完遂に感謝しつつ書を受け取った。枚数にして十枚。地形の解説と巻物の経緯に関する考察、最後に地図。これがかれの、最期の旅になる。
津雲の眸に強い決意が浮かんだ。死に至るまでに、為さねば為らぬことを為す、覚悟。津雲の旅路は死に直結する。朧はかれの覚悟とその裏にある死のにおいを察して、複雑そうに唇をかみ締めた。
津雲はすでに書をめくり、読みはじめていた。意外そうに声をあげる。
「
「ああ、巻物には《
「なまよみのくに、というと万葉集の……確か、
朧が肯定する。
《なまよみの 甲斐の国
打ち寄する 駿河の国と こちごちの
国の
天雲も い行きはばかり
飛ぶ鳥も 飛びも
燃ゆる火を 雪もち
降る雪を 火もち消ち
言ひもえず 名づけも知らず
います神かも》
これは富士を讃える和歌だが、甲斐の國に冠する枕詞に《なまよみの》と綴られている。なにゆえに甲斐の國が《なまよみ》と称されたのかは諸説あるが、いずれも確かな根拠はない。高橋虫麻呂そのものが奈良時代の詩人だ。当時ならば甲斐の異称として理に適っていたのかもしれない。
津雲は一拍考え、ひとつの説を提唱する。
「おそらくは、
津雲は静かに考えを巡らせる。
「あたしは京の都から街道を経由せずに
ぼそぼそと呟きながら、津雲は書をめくっていく。
最後の地図に差し掛かろうとした時に、朧が横から書を取りあげた。津雲は何事かと驚いて、視線をあげる。ついと、目の前に差しだされたものは飯を盛った茶碗だった。
「食べてからにすればいいよ。昨日も食べていなかっただろう」
「あァ、確かに。ですが、いまはさほど腹が減っては」
「いいから、食え。長旅になるんだ。いまのうちに一汁一菜、欠かさずに食べておかないとね」
茶碗と箸を押しつけられ、津雲は苦笑いをしながら受け取った。書に気を取られていたが、すでに朝餉の銘々膳が用意されている。相変わらず、世話焼きというべきか。朧は昔から、津雲の身のまわりのことをなにかと気に掛けてくれた。津雲はいやなものには決して首を縦に振らない性分故に、友の節介をわずらわしいと感じたこともなかったが、あらためて感謝のきもちが湧く。
「いただきます」
朗らかに微笑んで、津雲は手をあわす。
相変わらずの、玄米飯だ。箸に乗せて口に運ぶ。
玄米は嫌いだったが、ここに滞在するうちに、かみ締めればそれなりに味わいがあるものだと気がついた。白飯があるに越したことはないが、拒絶するほどではなくなった。
「今晩は、あたしが夕餉の支度をしましょうか」
津雲なりの気遣いだったのだが、朧は露骨に顔を
「それは却下するね。君が人間の食えるものを作れた試しがない」
「そんなことはないでしょう。一緒に旅をしていた頃に何度か」
「だから言っているんだよ。あんなものは犬でも食わないよ。君の料理を食べるくらいならば、草でもむしって食ったほうがましだね」
三年前に約束をして別れるまで、幾年かに渡って、ふたりはともに旅をした時期があった。その旅の途中で津雲が手掛けた料理の数々は、到底人間の食べられるものではなかった。米を炊かせると黒い塊が炊きあがり、味噌汁は味噌を入れすぎて塩辛く、さらには毎度煮立たせて苦い泥のようになった。朧が幾度根気よく教えても無駄だったので、以後は料理はかならず、朧が手掛けるようになったのだった。
「けれど懐かしいね。確か、
「当時は通行手形なんて持ってやしませんでしたから、関所破りの常習犯でしたね。さすがに強行突破は無理ですが、抜け道を見つければ関を越えるのはそれほど難しくはありませんでしたから。まァ大抵は伊勢参り、と言えば通してもらえましたが」
「いまは手形を所持しているのかい?」
「ええ、いくつか。それらしい事情を話して幾両か渡せば、御役人から手形を頂けるので」
「賄賂か。君ならば、療養の為の湯治といって銭を積めば、普通に通れるだろうね」
動かしていた箸をとめ、空になった茶碗を銘々膳に戻す。最後に残った漬物を食べてから、津雲は茶湯を啜った。
「
それは真に、三年前の道中のことを指しているのか。
「ご迷惑をお掛けしましたね」
津雲はふわりと、風が吹けば散りそうな微笑を浮かべる。散る花、枯れる葉の。
それは、死に逝くものが浮かべる笑みだ。未練を残しながらもそれを未練と思わぬ、やすらかな表情。
「……、いまさら謝るようなことはないよ。ここまでつきあったんだ。今後も面倒を引き受けてやろうじゃないか」
朧が喉をひきつらせながら、笑った。
その言葉に津雲はなにも答えず、ただ静かに微笑み続けた。
朝餉の片づけが終わると、朧は庵の掃除をしようと提案した。朧はこまめなので、床拭きや煤払いは日課にしており、毎日欠かすことがない。だがひとりでは時間が掛かるという理由から、日常的には手がつけられない仕事も幾つかあった。
そのひとつが、畳干しだ。
今朝から天気が良く、澄み渡る青空には雲ひとつない。絶好の畳干し日和だ。かといって、津雲に無理をさせて傷が開いてはいけない。重労働は朧が行い、津雲は力の要らない雑事を手伝った。畳を外すと物凄い量の埃が巻きあがり、日差しを受けてきらきらと輝く。埃だと意識しなければ、なかなかに綺麗な光景だった。畳は表面を日光に曝すと焼けてしまうので、裏側を太陽に向けて干す。繰りかえし、叩けばそのうちに埃は出なくなった。次は天日干ししている間に、畳を取りはらった床面を掃除しなければならない。
その日は結局、夕暮れ近くなるまで掃除に追われた。
「意外と時間が掛かりましたね」
「畳がない民家も多いんだ。畳を干せるなんてかなりの贅沢だよ」
「ええ、確かに贅沢かもしれませんね」
乾いた畳に寝転がり、津雲はずいぶんと充実した気分になった。庶民が畳を使用できるようになってから間もない。畳に寝そべるのは一部の裕福な民にだけ許された特権だ。それは一汁一菜、白飯を食べられることが江戸市民の誇りであることと似ていた。
慣れれば有難みを感じなくなってしまう、ささやかな至幸である。
慣れとは、時に大切な物を腐らせてしまうのだ。
夕餉は白米、つゆ草の胡麻和えとしじみの味噌汁だった。しじみは昨日、近くまで豆腐を売りに来た行商人から買ったものだ。つゆくさは茹でても色が変わらないので、食卓に彩りを添えてくれる。「一銭も掛からないというのがまたいい」と、朧が語る。普段はこうした草の類は食べない津雲も、めずらしく箸を進め、かみ締めていた。
津雲が一杯、朧が三杯の白飯を食べて夕餉は終わった。
片づけを済ますと、めずらしく日も暮れぬうちから座敷に布団が敷かれた。大がかりな掃除をしたせいで疲れたのだ。真っ先に横になったのは津雲である。朧は書の最後の確認をする為か、しばらくは枕もとに蝋燭を燈していた。だがそれもやがて吹き消され、窓から差す月光だけがあかりとなる。後は闇がさざめくのみだ。
蟋蟀の演奏に紛れて、微かに布団を捲る音がした。
慎重に歩みを進めると、風呂敷に包まれた荷物をつかむ。続けて、朧の枕もとに置かれた書を拾いあげた。朧は「一緒にいく」とも「ともにいこう」とも言わなかったが、大掃除をやりはじめたことからも旅についてくる心づもりなのだとわかる。
だからこそ津雲は夜明けを待たず、発つつもりだった。
命の期限が間近に迫っていた。わが身のことだ。自分が一番よくわかる。次が最後で、最期の旅だ。
為すべきを為したら、後は死に場所を捜すだけだ。祖の故郷で息絶えるのもよいだろう。
この度の旅は死地にむかうに等しい。
故に誰にも死に際を見せず、死期を覚れば、姿を消す。
不義理は承知だ。
三年前も、そうだった。
旧友と離別して、ひとり旅を選んだのは死期を覚ったからだ。
津雲は、母の寿命を貰い受けた。そのはずだ。されど実際に、さだめられた寿命を越えるまでは、津雲のなかに疑いが残っていた。寿命の引継ぎが妄想の類であったり、失敗していれば、津雲は旧友と別れてすぐに、呪いに身を焼かれて死を迎えるはずだった。それを恐れたが故の、別れだった。それを嫌ったが故の、裏切りだった。だが幸か不幸か、母の寿命は確かに津雲に受け継がれており、いまもこうして生を繋いでいる。
されど、だ。
もはや猶予は、ない。
それを理解しているが故、津雲は別れの言葉すら残さずに発つことに決めた。
友に。気を許すに至った、無二の友に。
みずからのむごい死に様など、みせたくはない。そんなものを相手の記憶に残すくらいならば、なにも残さず消えるのが遥かによい。
朧は眠っている。「すみません」と、津雲は喉を震わさずに胸のうちだけで呟いた。前にも増して憂いが募るのは何故か。真はわかっているのだ。前触れもなく逢いにきて、葬られたはずの歴史の巻物を押しつけ、解読してくれと頼んだ身勝手な旧友を、笑って受けいれてくれたあの時の瞳が浮かぶからだ。
朧は、約束を護ってくれた。
だというのに、津雲は約束ひとつ残していけない。残しては逝かない。
下駄を履き、表に踏みだす。
頬をかすめる風がやけに寒いのは、きっと、気の所為だと。津雲は振りむきもせず、ただ下草を踏みしめた。
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