与太噺 《妻の鑑の噺》

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「ほれ、飯を食うにも不便だろう」


 旦那さまが差しだしてくださった箸から直接、漬物を食べます。やけに味の薄い漬物は女中が漬けたもの。利き腕がなくなり、わたくしはひとりでは食事を取ることもできません。腕のなくなったわたくしを、旦那さまは片時も離れずにつき添って介抱してくださいます。


「申し訳ございません、旦那さま」

「あやまることはない。利き腕がないのだ、儂を頼れ」


 髪を梳いて愛でてくださる手はお優しい。髪がちぎれるほどにつかむことも、髪をつかんだままに殴りつけることもない。故に不安ばかりが募るのです。殴られ、蹴られ、それは辛いことだけれど、それがあたりまえだったものですから。


 幼い頃からわたくしは至らぬことばかりで、まわりを怒らせてばかりいたのです。

 父も母も厳格な御方でした。良家に嫁ぐことが決まっていたわたくしは特に、物心ついた頃から厳しく躾けられました。箸の持ちかたが美しくない。姿勢が崩れている。飯が柔い。芋が煮崩れている。障子の枠に埃が残っている。板の間に髪が落ちていた。腹を殴られ、蹴られ、髪をつかんで頭から水桶に浸けられたり、真冬に一晩中外に立たされたこともあります。


 おまえならばやり遂げられると思うが故に、厳しく接するのだ。はじめから望みがないと思わば、このように手を掛けて躾けたりはせぬ。くれぐれも失望させぬよう、励むように――。


 両親は事あるごとにそう、わたくしに云いました。

 それは親の愛でした。愛だったのです。

 ならば、殴られもせず、蹴られもせぬということはすなわち、失望したということに他ならないのです。

 故に、いまの旦那さまのお優しさが、わたくしはおそろしい。


「あ……」


 箸から受け取り損ねた漬物が落ちました。


「も、申し訳ございません……!」


 このように行儀の悪いことをして。ああ、またも旦那さまを怒らせてしまう。髪をつかまれ、殴られるのでしょうか。微かな期待をもって、旦那さまの表情を伺います。されど、旦那さまは朗らかに笑われるばかりで。


「よいよい、儂が片づける故、気にするな」


 胸のうちが凍えました。

 わたくしをおそろしいと仰った旦那さま。されどそのように言いながらも、旦那さまはわたくしを叱ってくださった。いまはそれすらもない。せっかく手頭から食べさせてくださろうとした漬物を落としてしまったのに、頬を張られることすらないのです。


 殴られているうちが華。


 それすらなくなったら、わたくしはなにをすればよいのでしょうか。

 もはや機も織れぬこの腕。旦那さまが疎むのならば、腕をなくすことに未練などなかったけれど。


 まるで、底の知れぬ沼に沈んでいくようで。

 わたくしは喉の奥で恐怖の悲鳴をあげました。



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 黙々と、ただ黙々と。

 宵の月あかりのもとで針を進める。


「奥方さま……なにを、致しておられるので」


 半兵衛が声を掛けてきました。半兵衛はわたくしが腕を失ってからというもの、なにかをこらえるような表情をして、遠くからわたくしを眺めておりました。半兵衛がなにを考えているのか、わたくしにはまるでわかりません。

 かれは昔から東条家に仕え、それ故にわたくしがこの家に嫁いだ経緯も存じているのでしょうが、めったに口を利くこともなく、いつまで経っても打ち解けることができずにおります。もっとも郎従とはいえども、夫の他の殿方とは距離を取りたいもの。黙っておりますと、半兵衛は再度尋ねかけてきました。


「裁縫を、なさっておいでなのですか。利き腕も、あらぬ、のに」

「ええ、左様です。僅かでも旦那さまのお役に立ちたいのです」


 ぎくしゃくと動く、左腕。まだ練習が必要だけれど、頑張ればきっと右腕と変わらずに動かせるようになる。赤い糸の通った針を細かく動かし、裁縫の練習をするわたくしを、半兵衛は何故だかひどく絶望的な面持ちで眺めておりました。ああ、真に、半兵衛がなにを考えているのか、わたくしにはわかりませぬ。

 このようなものに身分の低いものには構わず、早く早くうまく裁縫ができるようにならなければ。そうすればまた、旦那さまはわたくしを殴ってくださるはず。

 ふふ、と唇から笑みがこぼれます。それは、泥沼にぷかりと浮かんだあぶくのように、黒いみなもに膨れあがりました。

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