其の伍 《濫》
弥惣治がなにも言わないのに焦れてか、お幸が着物の袖をめくりあげ、微笑む。
「これでもう安心にてございましょう?」
二の腕から先が、ない。
お幸の左手に握られていた刀が、ずるりと滑り落ちた。刀は畳に突き刺さる。どこからそんなものを持ちだしたのかと思えば、床の間に飾られていた刀のひとつが姿を消していた。
刀の刺さったすぐ側には、女の腕が転がっていた。
痛みを堪えるように強張り、されど物も言わずに転がっていた。
皸にまみれた指だ。仕事のしすぎか、親指の先端は罅割れ、ささくれができている。爪はほんのりと薄紅に染まっている。その細部までもが、肩と繋がっていた時となんら変わらない。指の関節から甲に至る筋は痛みのせいか、激しく強張っていた。血が流れ続けている肉と骨の断面よりも、整った爪の形からなまなましさを感じるのは何故だろうか。
「わたくしは恐ろしいおなごなどではございませぬ」
嗚呼、だがいかなるものにも増して異様なのは、女の様相だった。
黒々とした目には如何な感情も浮かんではいない。細波ひとつ、波紋ひとつ漂わせず、じっとその場の光景を映している。まるで青銅の鏡だ。殺されかけてなお、相手を責めもせず、わが身を憐れみもしない。唇の端だけを綺麗に持ちあげ、かのじょはなおも緩く微笑んでいた。
ようやっと思考が追いついたのか、半兵衛が「奥方さま!」と叫んでお幸にかけ寄る。
「奥方さま、御手当てを」
半兵衛は裳裾を裂き、お幸の腕にそれを巻きつけた。ぎゅっと縛り、止血する。
半兵衛が応急処置をする間にも、お幸は弥惣治を見詰めるばかりで身動きひとつしない。弥惣治もまた目を見開いて呆然と立ち尽くしていた。魂が抜けてしまったのではないかと思われるほどだ。
手当てが終わるのを待って、津雲が声を掛けた。
「なにがこれほどまでにお幸さんを縛りつけているのですか?」
お幸が捧げる献身は常軌を逸していた。異様といってもいい。これでは自尊心を傷つけられて発狂する弥惣治のほうが、まだまともだ。
「かのじょは、なにをしたんですか?」
お幸にはもはや、津雲の問い掛けが聞こえている様子はない。弥惣治に関しては言わずもがなであろう。つまりは、津雲は半兵衛に尋ねているのだ。観念したように、半兵衛が重い口を開く。
「奥方さまは由緒正しき武家の御生まれにて、産声を上げしその日より将来の伴侶が決まっており申した。御相手は
「洗脳ですか」
「左様。そが、奥方さまを縛る
妻になる為に産まれ、妻になるべく育ったが故に、お幸は東条弥惣治に見棄てられることをこれほどまでに恐れたのか。弥惣治の為ならば、腕を斬り落とすこともいとわぬほどに。かのじょからすれば妻の価値を決めるのは夫のみであり、他者に自己価値を委ねるものにとりて、失望されることは死にも等しい。
お幸はどう足掻いても妻にしかなれず、必要なものは仕えられる
歪な関係。だがお幸の行き過ぎた献身だけならば、平衡は保てたのだ。
「されど婚礼間近になって、伴侶となるべき御相手が不運な事故にて巻き込まれ、死去なされたのでございます。そが知らせを受けた奥方さまの御心持ちは、
ひとたび、すべてを喪い、かのじょはもはやなにも喪うものかと、かみ締めるように誓ったはずだ。
殴られているうちが華。
失望され、よもや言葉も掛けてもらえぬようになったら終わりだ。
かのじょが繰りかえす「すべてわたくしが至らぬのが悪いのです」という言動の真意はこうだろう。虐げられるのは決して、夫に嫌われているからではない。妻としての価値がないからではない。もっともっと励んで、至らぬところがないように努めれば、きっと嫌われずに済むはず。殴られるのも、罵られるのも、失望されていない証。まだ取りかえしがつく。もっと励まなくては。もっともっともっともっと。
みずからのせいにすることでみずからを肯定するという思考は、どうしようもない矛盾をはらんでいる。されどお幸はその矛盾すら飲み乾してきた。腐り、濁った水を飲むように。
「
そこから先は、言葉にはならない。
「もう充分ですよ、半兵衛殿」
弥惣治は御家人格を金銭で手に入れた、商家上がりの御家人である。本人はそれをさも素晴らしいことのように語っていたが、それもまた劣等感の裏返しだろう。
子を産めぬと知りながら弥惣治がお幸を
脆い自尊心を持つ男、尽くす事に一生を傾ける女。一見噛み合っているようだが、それが劣等感を抱く夫と優秀であり続けようとする妻ともなれば、均衡は瞬く間に崩れる。
沈黙が流れ、弥惣治が徐々に意識を取り戻していく。
割れた唇が動いて、妻にしかなれぬ女を呼んだ。
「お幸」
「はい、旦那さま」
「う、う、腕、真に……の、のうなったのか」
どもりながら弥惣治がお幸の袖に手を伸ばす。
距離を考えれば、届くはずもない。お幸は半兵衛の腕を逃れると、
残った腕に視線を落として、お幸が云う。夕餉の献立でも相談するように、軽く。
「もう片腕も落としましょうか?」
「いえ、その必要はありません」
そう答えたのは弥惣治ではなく、津雲であった。
津雲は庭に繋がる障子に手を掛け、ひと息に開け放つ。
暖かな朝の日差しが座敷のなかに差し込んだ。盆栽のならべられた棚には紅葉した蔦が絡まり、赤い楓の枝葉は朝露に濡れてきらきらと光を放っている。新鮮な空気が流れこみ、澱んだ血の臭いが薄まる。
「もうすっかりと朝ですよ」
耳を澄ませば、彼方から朝五つの鐘が響いてきた。とうに朝焼けは青にぬり替えられ、鱗雲に覆われた秋の空が拡がっていた。日が昇っても、四肢の激痛が弥惣治を襲うことはない。劣等感が再燃しないかぎり、弥惣治は二度と苦痛に苛まれることはないはずだ。歓喜に打ち震え、弥惣治はお幸の小袖を握り締めた。されどかれの心を震わせるのは、痛みから解放された喜びだけではない。剥きだしになった歯の隙間から、喜色をはらんだ息が洩れた。
これでもはや、妻に脅かされることはないのだと。
「床の間にある箱を持っていけ」
言葉としての礼はない。用済みだとでも言いたげに、箱を指される。
津雲は黙って礼金が詰められた箱を受け取り、いったん離れ屋に戻った。真相を暴くまで宿を貸す、という契約だ。朧はとっくに荷造りを終え、津雲が依頼を完遂するのを待っていた。ふたりして、屋敷を後にする。朧がさきに屋敷を出、津雲がその後を追った。津雲が門をくぐろうとした時、慌ただしい足音が追いかけてきた。
振りかえれば、半兵衛がいまにも泣き出しそうな様相で立ち尽くしていた。津雲を睨む眼差しは憤りと嘆きに満ちて、暗く澱んでいる。お幸が感情を放棄したかわりに、かれが嘆き、憤っているようでもあった。
「何故」
「何が、ですか?」
突き放すように津雲が言えば、半兵衛が息を荒げ、食って掛かるように叫んだ。
「貴殿は何故、奥方さまを救ってくださらぬのだ! 貴殿ならば察することとて出来よう、奥方さまはあそこにいてはいずれ壊れてしまう……否、もう壊れておられるのやもしれん。某ごときでは奥方さまをお救い申すことは叶わぬのだ。されど貴殿には、それほどの御力があるので御座ろうが」
「ですから、予め伝えて置いたではないですか」
津雲は愛想笑いをかき消して、首を横に振る。
「あたしは誰も救わないと」
救済をもとめられるなど実に不快だと、津雲は言葉の端々に嫌悪を滲ませる。半兵衛が一瞬、たじろいだ。それをみて、津雲は畳み掛けた。
「あたしに救いを期待するのは貴方の勝手ですがね。手前勝手な期待を裏切られたからといって、逆怨みの念を抱くなど
「主君に反旗を
半兵衛の嘆きに、偽りはなかった。それでも津雲は、半兵衛を憐れまない。半兵衛は心の底から救いを求めた、救いを持ち詫びていた。お幸の為に。されど他にはなにもしていない。お幸が殴られる音に耳を欹てながら、嘆いていたに過ぎないのだ。
人間は狗ではない。護りたいものが手の届く範囲にいるというのに、どう足掻いてもそれができない、ということはない。
冷徹な双眸を細めて、審神司は判決を下す。
「貴方が犯している罪は貴方が
半兵衛がひどく狼狽える。津雲は続けた。
「傲慢と卑下、どちらも過剰な自意識から発する劣等感によるものでしょう。御三方はよく似ていらっしゃいますよ。運命の赤い糸とは良くいったものですね。その実は業と業を引き結ぶ、ゆがんだ縁の糸に過ぎないというのに」
縁とは意図のもつれ合いであり、因果の織り合いであった。
業はおなじ業を呼ぶ。運命の赤い糸だと信じてやまないそれは、藁人形にもちいる呪いの撚り糸かもしれないのだ。
もっとも運命の赤い糸との比喩は唐国のものであり、半兵衛に正確な意味は伝わらなかったようだ。
「貴殿は……奥方さまを、憐れだとは思われぬのか」
津雲が眉を顰めて、深々とため息をついた。
「まったくもって救えないと憂えども、憐れみはありません。かのじょに非はない。されど、かのじょもまたゆがんでいる。もはや取りかえしはつきません。そうしてそれは、いまさら他者がなおせるものでもないのです。例え、誰かが穏やかな愛を捧げ、健やかなる夫婦のかたちを教えても、お幸さんには理解ができぬでしょう。
それはそうと」
津雲は屋敷を指差す。
「あのようなことがあったというのに、お幸さんと弥惣治殿をふたりきりにして置いても構わないのですか?」
いましがた腕を斬り落としたばかりのお幸を殴るほどには、弥惣治とて落ちぶれてはいないはずだが、どうだろうか。負の連鎖は断ち切れぬものだ。それに。
「腕は、あともうひとつ、残っていますよ」
津雲の言葉に半兵衛が血相を変えて屋敷に走っていく。
津雲はそれきり踵をかえして、武家屋敷の建ちならぶ路地に紛れた。
ひらひらと紅葉が散る。枝葉の衣替えは驚くほどに急だ。屋敷にやってきたばかりの頃はまだ緑も多く残っていたが、いまは赤か黄ばかりが梢を覆いつくしている。暑い夏ほど紅葉が鮮やかになるというのは真らしく、あたりはまさに錦の秋だ。黒い瓦屋根に朱の紅葉が映えている。瓦の窪みには落ち葉が積もり、秋桜は竹垣を飾るように揺れている。
角を曲がれば、朧がなにも言わずに路地の中程で待っていた。
汚泥が絡みつくような縁を振りきって、津雲はようやっと深い息をつく。傷は徐々に癒えてきているが、人の業がやけに骨身に浸みる。前まではこのようなことはなかった。どれほどゆがんだ縁と係わっても、平然としていられたのに。
「……帰りましょうか」
津雲が声を掛ける。
「ああ、巻物のことも気に掛かる。いったん帰るか」
ふたり、影をならべて帰路を急ぐ。下駄と、草履が順に落ち紅葉を踏んだ。
津雲は幼い頃から流浪の旅を続けてきた。帰るところなどはじめからなく、
真はなにひとつ、残していくつもりはなかったのに。
愛しき誤算をかみ締めて、津雲は秋の空を振り仰いだ。
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