其の肆 《沈》

 真相を語りましょう――

 審神司が東条弥惣治とお幸に声を掛けたのは、かれが東条家に訪れてから五夜が経った早朝のことだった。


 朝を選んだ理由は言わずもがな、弥惣治の容態が安定しているからだ。

 屋敷内で最も広い座敷にふたりを集めた後、津雲は暫し思案するように沈黙を保っていた。弥惣治は寝間着姿で胡坐を掻き、その隣にはぴんと背筋を伸ばしたお幸が寄り添っている。窓の外はまだ暗く、座敷のなかには重い空気が垂れこめていて、屋敷ごと湖の底にでも沈んでしまったような錯覚があった。

 じっと、根競べでもしているかのように津雲は喋らない。

 弥惣治が気を揉み、怒りだす間際になってやっと、津雲が語りはじめた。


刻下こっかより一管いっかんの筆をもちいて、東条弥惣治殿を取り巻く因果を紐解いて参ります。因果を紐解けば、奇病――即ち生魑の原因とておのずと見えて参りましょう。それには東条弥惣治殿、貴方様のご協力が必要です。ご面倒とは存じますが、お力添えのほどを御願い致します」

「いいだろう、要りようのものがあれば申せ」

「ありがとうございます。それでは清水を満たした丸盆、白紙を一枚、それから弥惣治殿の血を少々頂戴致したく存じます」

「血だと?」

「指先に針を刺して、数滴頂ければ充分ですので、なにとぞ」

「ふん、まあ、よいだろう」


 水盆や白紙は速やかに用意された。

 津雲は水盆に紙を浮かべる。後は墨だ。あぶった針で刺されることに弥惣治は良い顔はしなかったが、奇病の原因が判明するのならばと指を差しだす。傷ついた指に筆が落とされる。血潮の墨を筆が啜り、ぽってりと穂先が濡れた。

 

「それではこちらの血潮をもちいて、あたしが白紙に《きょう》という文字を綴ります。弥惣治殿を強く憎んでいる者、或いは妬み嫉みを募らせている者がいるならば、《竟》の文字はその人間の氏に変わるでしょう。そのような者がおらぬならば、墨が流れて文字は消え失せます。どうか刮目かつもくしてご覧下さい」


 津雲が筆を構えた。和紙に添えられた穂先が動きだす。

 綴られたそれは、漢字からはかけ離れた象形だった。頭があり、からだがある。人が跪く様子を表しているようだ。真実を映す《鏡》を覗こうとしているのか。或いは《神託》を待ち望んでいるのか。

 最後のはねを書き終え、津雲は紙を水盆に押し浸す。


「――きょう


 ぐにゃりと墨が流れだす。頭が崩れ、胴体がゆがんだ。津雲が紙をひきあげる。ぽたぽたと赤い雫が垂れた。ぱっと雲が指を放すと、濡れた和紙が畳に落ちる。それを拾いあげたのはお幸だった。

 白紙と、審神司を順にみて、かのじょは首を傾げる。


「これは即ち、旦那さまを妬んでいるものはいないと」

「そのようなはずはない!」


 矢庭に弥惣治が怒号をあげた。お幸を突き飛ばし、かれは紙を奪い取る。


「儂は知っておるぞ。おう、知っておるとも。先代から地位を受け継いだだけの無能な御家人ごけにん共が問屋のせがれでありながら御家人格を手中に収めた儂を畏れ、密かに妬んでいることを。生まれ持った地位に甘んじるものなど、己の愚鈍さを認められぬ腑抜けばかりよ。白紙に名が浮かばぬのは儂を妬む者が、数知れぬからではないのか。或いは貴様の奇術とやらが紛い物であるか、だ!」


 喚きながら、弥惣治は紙を執拗に引き裂く。先刻まで静かだったのが嘘のように、弥惣治は怒鳴り散らした。感情の起伏が異様に激しい。されど、だ。誰にも妬まれても、怨まれてもいない。それは喜ぶべきことではないだろうか。いったい、なにが、この男の怒りに油をそそいだのか。


「まるで妬まれていなければ都合が悪いようですねェ」

「儂を馬鹿にしているのか!」


 激怒する弥惣治を静かに見据え、津雲が続けた。


「まだ真相は語り終えておりません。ご静聴願います、東条弥惣治殿」


 弥惣治は不満げに鼻を鳴らして、されどいったん沈黙する。汚泥を巻きあげるような荒波が静まり、またも座敷は暗い水底に沈降していく。


「説明不足をお詫び申しあげます。弥惣治殿を妬んでいる相手が幾人いようとも、問題となるのは生魑をひき起こしている人間であって、他の氏が浮かぶことはありません。貴方様がその偉業故に幾人の御家人にそねまれていようと、こちらの結果に違いはございませんので、ご案じなさらぬよう。ですが……そうですね」


 感情のない微笑を添えて。


「この術だけでは、充分ではありません。洩れてしまう人間が、ひとりだけおりますゆえ」


 審神司は思わせ振りに断言する。


「なんだと。いったい、それは何者だ」

「あたしが考えるに、それが貴方様を苦しめる生魑の元凶かと」


 津雲は水盆をひき寄せ、血潮の浸みた筆の先端を盤水に挿す。満々と細波を浮かばせた水に赤い線を曳いて、象形が綴られる。まずは目。続けて背をかがめた體。その者が落とす視線のさきには水桶があった。

 水鏡を覗く象形が、水盆のなかにある。まるであわせ鏡だ。


「――かん

 

 水茎の跡も麗しく、紅の象形が浮かびあがる。水面から筆が抜かれても、文字は滲みもせず漂い続けた。津雲は膝をついた体勢で盆から退く。盆から距離を取った津雲が、かわりに弥惣治を呼び寄せた。


「水鏡を覗いて頂けますか? 生魑の元凶の姿が映っておりましょう」


 弥惣治は半信半疑といった様子だったが、津雲に促されて水盆の前に膝をつく。身を乗りだして盆を覗き込んだ瞬間、弥惣治がひいと悲鳴をあげた。落ちくぼんだ目が剥きだしになる。

 弥惣治はいったい、水鏡になにを見たのか。


 津雲は弥惣治の背後から、水盆を覗いた。


 盤水に映っていたのは異形。

 髪が抜け落ちた頭に目蓋のない濁った眼。血管の浮かびあがった白い網膜はなにも映してはいない。あるべき黒がなく、微かに、針の孔ほどの瞳孔だけが見て取れた。頬まで裂けた顎。まるで飢えた野犬の様だ。鼻があるべき箇所におうとつはなく、ふたつの穴が虚ろにならんでいるだけ。

 あらゆるがいびつであり、身震いがするほどに醜悪であった。腐った死肉の塊を人間の形に戻そうと弄んだあげく棄てられた残骸がこれだと言われても、疑えない。なによりもおぞましいのは、それがまだ荒い息を繰りかえしているということだ。腐り落ちそうな眼球めだまが、水鏡を透して現を睨む。

 間近から睨まれた弥惣治が慄然としたのも無理はなかった。異形の視線に込められたものは、ただ。

 怨み、妬み、嫉み――。

 妬視としに縫いとめられたように硬直していた弥惣治が我にかえり、後ずさった。慌てるあまりに寝間着の裾を踏んでしまい、弥惣治は尻餅をつく。夫の様子をみて、お幸が怖々水鏡に視線を落とす。されどお幸にはなにも変わったものは見えず、瞬きをして首を傾げた。

 弥惣治がどもりながら、津雲に叫ぶ。


「あ、あ、あれはなんだ! 儂にはあのような化物が憑いていると申すのか!?」

「ほお、化物ですか。弥惣治殿にはそのようなものに視えたのですね」


 場が騒然となっていても、津雲の語り口調は平坦だ。僅かも揺るがぬ声調はいっそ不気味なほどである。相も変わらず真意の読めぬ微笑を浮かべ、津雲は腕を掲げた。

 筋張った指が、弥惣治を指す。


「それはあなた、ですよ」


 言っている意味が理解できないと、弥惣治が顔をゆがめた。


「それがあなたの真姿なんですよ、東条弥惣治殿」


 言葉の真意を考えず、ただ侮辱されたという事実に弥惣治は憤慨する。かっと、弥惣治の顔面が朱に染まった。唾を飛ばして、弥惣治は怒声をあげる。


「若造が! 東条家が当主を愚弄する気か」


 醜くゆがんだその形相はなるほど、鏡面の異形と重なる。


「まさか。あたしは真実を明らかにしているに過ぎません。鏡には覗いたものの姿しか映らない、それが真理にてございましょう? 貴方様を苛めているそれは、ご自身の邪念以外の何ものでもないのですよ。湧きあがる嫉妬心、燻ぶる劣等感、それを認められぬ傲慢さが貴方様の業と存じます」

「馬鹿馬鹿しい、なんの根拠があってそのような戯言ざれごとを……」

「貴方は妬んでいたのではないのですか? か弱き女の身でありながら、貴方より有能かつ多才なお幸殿を。くるくると働くお幸殿の姿を見るにつけ、貴方は常々思っていたはずですよ。目障りだ、とね。お幸殿が東条家のために働き、実績をあげる度、その妬心としんは膨張して、いつの間にかご自身ではどうしようもないほどになった。ですが、あなたのなかの自尊心が、妻に対するそねみの念を認められなかったのでしょうね」

 

 津雲が腕を広げる。

 黒い羽織の袖には狛犬の紋様があった。獅子を模した二頭の赤い狛犬が叢雲を背負い、走っている。狛犬の意匠に竦んだわけではないが、弥惣治ははくはくと口を動かすばかりで反論ひとつできない。


「結果的に貴方は、お幸殿の非を探すことに傾倒した」

「いいえ!」


 絹を裂くような否定が、津雲の解説を遮った。


「審神司さま、それは間違いにてございます。旦那さまほど尊き御方が、わたくしに斯様かような思いを抱かれるなど万が一にも――」

「……否、その通りだ、審神司。よもや、認めざるを得まい」


 悲鳴じみた声に重ねられた低音は、ひどく重い。

 弥惣治は緩慢に身を起こし、津雲とお幸を順に睨みつけた。


「儂はお幸を疎んじていた」


 妬んでいたとは言わず、弥惣治は募らせた怨嗟を吐露した。

 お幸は絶句し、津雲もまたお幸とは別の意味で一驚していた。かれほど自尊心の高い男が、易々とみずからの非を認めるとは思えなかったからである。だがいま、その肯定の真意を尋ねれば、話の流れが澱みかねない。津雲は取り敢えず、話の流れを重視し、間を置かずに語り続けた。


「ですが、貴方様が真の意味でうとんでいたのは、妻にすら脅かされるみずからだ。貴方はお幸を罵ることでご自身を罵り、苛烈な暴行を加えることでご自身を傷つけ、呪わしく妬むことでみずからを呪った。それが殊更ことさら激しさを増したのは、貴方が育てた盆栽よりもお幸殿が織った反物に高価こうじきな値がついた約半月前のことでしょうか。四肢の痛みはその晩から始まったはずです。違いますか?」


大凡おおよそ、間違ってはいない。されど、最初の三日三晩は芝居だったのだ。儂が床に伏せば、東条家は成り立たぬのだと知らしめてやりたかった」


「なるほど。ですがその目論見もくろみは外れ、お幸殿は御家人としての責務も何事もなく果たしたのですね。次いで不測の事態が、弥惣治殿の身に襲いかかった。苦しむ芝居だったはずが、現実に激しい痛みを伴い始めたのです。やり場のない不安と苦痛にもだえながらも、自尊心ばかりが膨らみ続け――お幸殿を殴る回数も日に日に増えて行った、そうですね?」


 動けずにいるお幸の顔半分には濃い青痣が浮かんでいた。二の腕や足首にも手当てが施され、着物に隠された部分にはもっと酷い傷があるのかもしれない。今朝は熱い茶でも掛けられたのか、指に火傷が見て取れた。どれも昨夜まではなかった傷だ。

 黙り続けていたお幸が、悲哀の息を零す。


「わたくしごときが、旦那さまの代わりになれるはずがありませぬのに」


 弥惣治の眼ががっと見開かれた。暗い憎悪がよぎったのを津雲は視た。

 津雲が止める暇もなく、弥惣治はお幸に掴みかかっていた。力加減も考えずに首を握り、抵抗するお幸を殴りつける。女の身体を軽々と吊るしあげ、かれは怒りに任せて喚く。


「それが気に食わぬ! ああ不愉快だ! 聞いているか! それが不快だと申しておろうが!」


 硬い男の指が、柔らかな喉に食い込む。紅が乗った唇の端から涎が溢れた。見開かれたお幸の目は既に焦点がさだまっておらず、抵抗も徐々に弱まっていく。相手が死ぬ可能性を忘れているのか、或いは真に殺す心算つもりなのか。

 わかるのはただ、正気を失っているということだけだ。


「卑しい女の分際でよくも儂を惨めにさせたな、儂を軽んじたな、儂を憐れんだな! 儂の業がこの事態を招いた、だと!? なれば、儂の邪念を煽ったのは誰だ。罪は誰にあると申すのだ。お幸、お前だろうが! 儂が悪いはずがない、妻でありながら夫を立てることすら出来ぬお前がっ、あらゆる要因はお前にあろうが!」


 暴言を吐き散らす弥惣治の姿はただただ、惨めだった。

 男は、女が想像しているより遥かに、男としての矜持に執着するものだ。命を奪われるよりも誇りに傷がつくことを恐れ、惨めさをひた隠しにする。《武士は食わねど高楊枝》ともいうくらいだ。弥惣治がお幸を愛していたかは甚だ疑問だが、愛する女や好敵手の前では特に片意地を張る。


「おまえの腕が憎い! なんでもかんでも易々とやり遂げよる、お前の腕が!」


 しかしながら、矜持とは個々により形を変える曖昧なものでもある。

 当人が尊厳と主張するものでも他者からすれば見栄に過ぎなかったり、誇りと掲げるものが優越感を得るための道具でしかなかったり、その逆も当然ながらあり得る。東条弥惣治が掲げていた誇りとやらが、真に誇りであったのか。或いはただの自己愛に過ぎなかったのかは解らない。解る事はただひとつ。

 殴りかかろうと、噛みつこうと。万語、言葉を並べようと。

 突き崩されたかれの矜持が立ちなおることはない。ただ惨めさが増すのみなのだ。


「ああ、これらもすべて計算ずくだとすれば、なんと恐ろしいおなごよ! なんとかいってみれば、どうなのだ! ああ!」


 辛うじて続いていたお幸の抵抗が途絶えた。お幸を助けようと動き掛けた津雲だが、寸前で踏みとどまる。襖を開けて飛び込んできた人物がいたからだ。


「な、奥方さま! ……なんたることを」


 半兵衛は吊るされているお幸を見るなり、君主である弥惣治に飛びかかった。殴るまではせずとも、弥惣治の腕を乱暴にねじりあげて、お幸を解放した。床に落ち、倒れたお幸が激しく咳をする。


「ええい、離さんか!」

「どうか落ち着いてくだされ、お身体に障りまするぞ」

「貴様、儂に歯向かう気か!」


 暴れる弥惣治を押さえつけ、半兵衛がなんとかなだめようとするが、弥惣治が冷静さを取り戻す気配はなかった。罵声、懇願、咳、怒号、哀叫、それぞれの声が座敷を埋め尽くす。

 負の想念が渦巻き、黒い潮となって押し寄せた。徐々に呼吸すら妨げられていく。水圧に肺が押し潰されそうだ。座敷ごと腐った水の底に沈んでいくかのようで、津雲は眩暈を覚えた。

 混乱の最中、妙になまなましい音が聴こえた。

 これだけの騒ぎのなかで何故、その音が響いたのかはわからない。


「ええ、悪いのはわたくしにて、ございます。この腕が憎いのであれば、早くそう、仰ってくださればよかったのに」


 びちゃりと濡れた音を立てて。

 なにかが、畳に転がる。


「ねえ、旦那さま、ご覧になって」


 みなが一斉に振りかえる。

 ぼたぼたと、袖口から血を垂れ流すお幸。畳に落ちた、しなやかな腕。それらを順に眺めて、事態を理解する。

 誰かが、ひきつれたような悲鳴をあげた。低い、獣のような絶叫だった。情念の澱が重なる汚泥の底に、潰れた叫び声だけが、いんいんと響き渡った。

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