其の参 《渇》

 帰還から、半刻。

 夕餉の準備にしては時間が掛かりすぎていた。

 腹が減っているわけではないが、夕餉の準備中に何事かがあったのではないかと思い、津雲は離れ屋から屋敷に移動する。渡り廊下では半兵衛が床に胡坐を掻いて刀を抱いていた。耳を欹て、闇がわだかまった部屋の隅をじいっと睨む眼差しは、忠犬には程遠い猛犬の様相だ。津雲の気配に気がつき、半兵衛が面をあげる。

 虚ろな澱みを湛えた目が津雲を映し、「如何なさったか?」と訊く。

 お幸の様子を見に行きたいと言えば、かれは止めるかもしれない。直感的にそう感じて、津雲は敢えて別の用事をかれに告げた。「かわやに」と言えば、半兵衛は再び視線を板張りの床に落とす。宙を漂う視線は何を眺めているわけでもない。取り留めもなく闇を見据えて、かれは果たしてなにを考えているのか。


 津雲はひとり、台所に繋がる渡り廊下を進む。

 夕星ゆうずつが彼方に浮かんでいた。月はまだ昇っていない。寒々しい風が吹き渡り、腰のあたりまで伸ばした津雲の総髪を弄んだ。夏が異様に暑かったからか、今秋は妙に寒く感じられる。

 台所にはあかりがついていて、案の定、お幸が夕餉の支度を急いでいた。手元に集中している為か、背後から覗いている津雲には気づかない。手際よく青菜のおひたしやお吸い物を作る姿はどこにでもいる平凡な妻だ。だが顔には繰りかえし殴られた痕があり、首には絞められた痕跡すら残っていた。女中の一人や二人雇っているだろうに、たったひとりで夕餉を作っているのはそうした痕を誰にも見られないようにする為か。或いは弥惣治の暴力が女中に及ばないようにするためかもしれない。

 話に訊くかぎりでは弥惣治の世話はすべて、お幸が担っているようだった。床に伏している夫のかわりに御家人としての責務を果たすばかりか、家事にも一切手を抜かず働き通す姿は、妻の鏡といっても過言ではない。だが傍目から見ていると、心配にもなった。

 果たして、かのじょはいつまで耐えられるのだろうか、と。

 降り続く暴力と罵倒、女の肩には重すぎる責任と職務。終わりがあればまだいい。だが絶望のみの毎日をどのように乗り越えていくのか。

 凛として、ひたすら耐える枝ほど、折れるときは呆気ないものだ。


 津雲がわざと音を立てて歩み寄れば、お幸は怯えるように振り返った。だがそこにいたのが夫ではなく、客人である津雲だとわかり、ほっと胸をなでおろす。


「今朝は誠に申し訳ございませんでした。さぞかし、驚かれたでしょうね」


 包丁を手元に置き、お幸が深々と腰を折る。

 津雲は視線を迷わせて、困惑しているふうに装った。実際にはあのような場面に遭遇したところで津雲は一驚すらしていないわけだが、驚き、戸惑っているほうがこれから話をするのに都合がいい。幾度か口を開いては閉ざして、言いにくそうにしながらも核心に触れる問いを投げかけた。


「東条弥惣治殿からの暴行はいつから始まったことなんですか? 今度の奇病による苦痛や不眠が原因なのでしょうか。或いはずっと以前より続いているとか」

「それは」


 逡巡が、一瞬の沈黙をはらんだ。

 やつれた頬に落ちる影が濃くなる。水底に折り重なった澱みが浮かびあがり、感情を覆い尽くしていった。


「わたくしが至らぬのが悪いのでございます」


 嘆きもなく、悔しさもなく、お幸は語った。


「今しがたも、剪定の仕方がなっていないと、長年育てた盆栽の価値を貶める気かとお叱りを受けてしまいました。盆栽の出来が良いから、そを妬んでおるのだろうと。勝手な真似をしてしまったことは申し訳なく思います。しかしそのようなつもりではなかったのです。決して旦那さまの、お邪魔をしようなどとは考えておりませんでした。ですが、結果的にそのようなことになってしまったのでしたら、同じことにてございましょうな。旦那さまが仰られた言葉に相違はございません。わたくしは不出来な妻でございます」


 ざわりと、違和感が肥大する。

 お幸が連ねる言葉にはいっさいの嘘偽りは含まれていない。かのじょは真に、至らぬばかりに殴られ、罵られているのだと考えている。


「すべてはわたくしが至らぬから」


 かのじょはひたすらに繰りかえす。

 そう暗示をかけることで精神を保とうとしているのだろうか。

 誰かに叱責されたときに、人間の思考はまず自身の精神を維持しようと働く。責任を他者に転嫁することにより多大な負荷から逃れるか。みずからの失態を他のもののせいにして己を肯定するか。手段は様々あれど、大抵の事例ではそれらは自己肯定の方向に働きかける。

 だが少数ではあるが、それとは真逆の思考をもって精神を保とうと試みるものもいた。

 

 即ち、自己否定。


 みずからを否定することで、最悪の恐怖から逃れようとするのだ。

 これは親から虐待されている子どもに見られがちな思考の巡りである。過度な叱責を受けるのは自分が悪いからだ、すべては自分の責任だ。故に、自分は決して――。


「旦那さまに嫌われているわけではありませぬ。ええ、愛ゆえに叱っていただいているのです。真に有難いことにてございます」


 お幸は腫れた頬を持ちあげて、微笑んだ。それに伴い、澱んだ目がひずむ。

 津雲の背にぞわりと悪寒が走った。

 お幸の目のなかに、津雲はごうごうと逆巻く濁流を見た。飢餓の濁流だ。解らぬことはひとつ、何故それほどまでに渇くのかということに尽きる。嫌われることを死よりも恐れるほどに、夫を愛しているのだろうか。否。かのじょの瞳に恋慕の情はない。ならば、斯様に飢餓を加速させるものはいったいなんだ。幼き日に募らせた孤独感か。或いは殴られても罵られても消えない罪悪感か。


「あたしから見れば、貴女は立派に務めていらっしゃるように思いますが」

「そのように仰っていただきまして、大変恐縮にてございます」


 津雲の賛辞を慰めと受け取ったのか、お幸は弱々しい微笑みを返す。


「ですが旦那さまが至らぬと仰られるのならば、どれほど精励恪勤しようと足らぬのです。旦那さまを支えられぬのならば、この腕も足も不要なものにてございます故」


 竈にくべられた薪が火の粉を散らす。細かな火は土間に落ちるより早く、燃え尽きてしまった。舞い散る火の粉がはっきり見えるほどには、室内は暗い。弥惣治は業を煮やして晩飯を待っているだろう。夕餉の支度の邪魔をしてはいけない。立ち去ろうとした津雲を、お幸が呼びとめた。


「審神司さま、どうか」


 お幸はじっと津雲を見つめている。

 その顔は陰に覆われているが、唇が笑みを模ったのが見て取れた。頬が腫れているからか、表情がやけにゆがんでいる。


「旦那さまのことを悪く思われませぬよう」


 そういって、お幸はくるりと津雲に背をむけ、夕餉の支度に取り掛かった。

 津雲も渡り廊下に戻る。寒い風が脇を通り抜け、津雲は微かに寒気でもしたように首を竦めた。




「奥方さまの御様子はいかがでしたかな」


 津雲の姿を確認するなり、半兵衛が声を掛けてきた。

 時間の経過からして、用が厠のみではなかったことを見透かされているようだ。津雲が謀ったかどうかはわからずとも、お幸と顔をあわせ喋ったことは間違いないだろうと覚られている。半兵衛は津雲を振り仰ぐことはせず、床板の節を視線でたどりながら静かに呟く。


「奥方さまは誠に以て、辛抱強い御方にて御座る」


 独り言じみた呟きを聞きとどめても、津雲は言葉をかえさない。半兵衛もまた返事は求めていなかったようで、眉根を微かに寄せて目蓋を塞いだ。半兵衛の横を通り、津雲は襖を閉ざす。人の臭いが断たれて、津雲はほっと安堵の息をついた。

 なかで書き物をしていた朧が視線をあげる。津雲の姿をみて、特に言葉をかけるでもなく、また作業に戻った。それが、津雲は心地よい。

 津雲とて、今更になって人いきれを嫌うほど世慣れていないわけではない。業と欲にまみれた公家屋敷に滞在したこともあれば、疫病が蔓延する村を延々と彷徨い歩いたこともあった。血臭から腐臭まで、人が振り撒く悪臭には慣れている。

 捻じれた縁の臭いなど、物の数にも入らないはずだ。なのに、これほどまでに息苦しさを覚えるのは身体がずいぶんと衰えてきているせいだろう。

 壁に背中を預けて、ずるずると崩れ落ちるようにその場に座る。首をそらせば、蜘蛛の巣ひとつない天井が視界に拡がった。見るものなどなにもなく、目蓋を落とす。

 ふわりと羽織を掛けられる。眠るつもりはないのだが、その心遣いに身を委ねて、津雲は夕餉が用意されるまでしばしの休息を取った。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 刻は夜半に差し掛かり、屋敷のまわりは静まりかえっていた。

 屋敷内にあかりがついている座敷はもうない。菜種油すら買えず、魚油を用いる町民とて少なくはないのだ。一晩中惜しみもなく行灯を燈せるのは城持ちの大名などに限られており、御家人格では油を節制する為にも早寝早起きが心掛けられていた。

 朧はとっくに眠っている。なかなかに寝つけず、布団のなかで天井を凝視しているのは津雲ひとりだ。普段から眠りは浅いもののどこでも眠れる体質のはずだったのだが、今晩はどうにも眠れない。傷もまだ塞がりきらず、疲れが溜まりやすくもなっているので、休息を取らないと後々に響きかねなかった。

 無理にでも目蓋を塞ぐ。そうしていれば、やがては眠れるはずだと。だが突如として沸いた喧騒が、津雲から眠りを奪い去った。

 はじめは獣の咆哮かと思われた。気の違った野犬の群がこのあたりを徘徊しているのかと。だがそのようなことはありえない。段々と狂騒の輪郭が確かなものになっていく。

 それは女の、悲鳴だった。それは男の、怒声だった。

 妻を殴りながら激しい痛みを訴える弥惣治の叫びが、渡り廊下を越えて、敷地中にこだまする。男は業の病にもだえ苦しみ、女は被虐に耐えて涙を零す。宵闇に響くそれは、烈しい情交のようでもあった。愛も憎も紙一重。生魑いきすだまを引き起こす《元凶》とは親しき縁に根を張る。何時の世も変わらず、影は足もとから生ず。故に厄介なのだ。

 襖の裏側では半兵衛が情を殺し、茫然と頻闇を凝視しているに違いない。狂騒に耳を欹てながら。


 質すべき縁の糸は、すでに津雲の手の中にある。明朝にでも解くことはできる。しかしながら――津雲はひとつ咳をして、まだ癒えていないみずからの傷に触れる。矢の刺さった肩でさえまだ痛む。背に至っては不用意に動かしたり、いまのように咳をするだけでも、焼けるような激痛が走った。それに加え、身体が重すぎる。最後に為すべきを為すにも、あと暫くはこの身を持たせなければ。

 津雲は目蓋を塞ぎ、夜明けになってようやく浅い眠りに落ちた。

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