其の弐 《澱》
東条
弥惣治が倒れてからというもの、半月に渡って御家人の責務を夫のかわりに勤めているとのことだ。御家人とは言えども東条家は大きな武家ではないので、雇える女中の数もかぎられている。家事の大半もまたお幸が受け持っていた。見目麗しい女性ではないが、大層よくできた妻だ。
それが津雲の知っているかぎりでの、お幸の印象であった。
渡り廊下を抜けると、津雲に用意された離れ屋があった。
離れ屋の外には常時護衛がついていた。旅籠まで依頼にやってきたあの武士だ。東条家の郎従らしい。身の安全を保障する、という契約に則って取り計らってくれたのだが、実際に襲撃があったとしたら護衛ひとりでは心許ない。もっとも屋敷のなかで襲われることはないだろうと、津雲は踏んでいた。
津雲を狙う刺客は暗殺や諜報活動に秀でた組織であり、それゆえに表舞台に姿をみせることはない。まさに影。どこに隠れようと逃げ遂せられはしないだろうが、おいそれと武家を襲撃したりはしないはずだ。東条が津雲を裏切らないかぎりは。
それ故に津雲は持ちかけられた取引を受けた。
護衛に朝の挨拶をして、津雲はいったん離れ屋に戻る。なかでは眼鏡を掛けた若者――
「どうだったかな」
「特に、問題はありません」
津雲は窓際にすわり、煙管に火を燈す。煙草盆を用意してもらえたのは有り難かった。煙をふかしながら、津雲は着物越しに肩の傷に触れた。傷は塞がっていたが、いまだに腕を動かすと激痛が走る。肩はまだ傷が浅かったほうで、背にいたっては呼吸をするだけでも焼けるような痛みがあった。
痛みには慣れている。普段と変わらず、平静を装うのも難しくはない。されど完治までにはどれくらいの歳月が掛かるのだろうかと、考えはする。
「生きているうちに癒えますかね」
「肩の傷はともかく、背の痕は一生残るだろうね」
独り言のつもりだったが、朧は筆を走らせながらそう言った。
後は互いに黙る。静寂のあいまに紫煙が細く漂う。
弥惣治は疼痛に悶えているのだろうが、離れ屋までは悲鳴も聞こえない。早朝ということもあるが、武家屋敷の建ちならぶこの町は非常に静かだった。朧が暮らす庵も人の喧騒とは無縁だったが、夏には蝉と蛙が、秋に差し掛かると
ひと息ついてから、津雲が腰をあげた。
「
まずはその面々を訪ね、内情を探るのが事件の真相に至る近道だ。そのなかに東条弥惣治に対する私怨、或いは妬みを抱いているものがいるかどうか、津雲ならば一言二言喋るだけでも深意を察することができる。
出掛けるとなれば、影に襲撃される危険も伴うが、護衛を連れていけば滅多なことはないはずだ。津雲は護衛に声を掛け、同行を頼んだ。護衛の武士は「承知つかまつった」とふたつ返事で従う。
津雲は道中、度々なにげない世間話を持ち掛けたが、武士は「左様」「いえ」と最低限のことを喋るだけだった。寡黙と言えば聞こえがよいが、貝のように口を噤む様子からはいっさいの情を封じていることが窺えた。
「ひとつ、尋ねてもよいですかね?」
道すがら何気ない素振りを装って、津雲が背後の護衛に揺さぶりを掛ける。
「東条弥惣治殿とは、貴方から見てどのような人物ですか?」
「仕えるべき主君にて御座る」
明瞭な返答、それは模範的な回答でもある。
「それでは、お幸さんについてはどう思われますか?」
墨をかためたような目が一瞬、見開かれた。頬を腫らす女の姿を思い浮かべたことは疑う余地もない。その傷ましい姿が、如何なる情を揺り起こしたのかはわからなかった。憐れみか、後ろめたさか、あるいは道ならぬ恋慕か。されど、殺していたはずの感情が確かに動いたことだけは、事実だ。
「我が主君の奥方にて候」
一拍の遅れを伴って、返された答えはやはり模範的なものであった。
他にはどのような言葉もつけ加えなかった。
「東条弥惣治殿がお幸さんに暴力を振るうのは以前からですか」
武士は黙る。
「この度の病が発端ではないのですね」
重い沈黙から察するに、弥惣治が度々お幸に暴行を加えていることは周知の事実らしい。誰もお幸をかばおうとしないのは暴力を振るっているのが夫であり、武家の主であるからだろうか。男の権威が圧倒的に強いこの時代、妻がいかに虐げられ、辛抱を重ねていようとも顧みるものはいない。所詮、女の涙など取るに足らぬものなのだ。微々たる雫が幾つ波紋を立て、水嵩を増しても、本流を変えるには至らぬと誰もが軽んじている。頬を流れる情念の雫が、誰にも覗けぬ水底に暗鬱なる澱みを溜めていることに、果たしていつ気がつくのだろうか。
縁は情念を産み、情念は生魑となる。すなわち、生魑の素性を暴くには、浅からぬ縁を捜さねばならない。
紅葉の道を抜けると、立派な武家屋敷が見えてきた。まずは北登だ。
このような浅瀬に手掛かりはないだろうと考えながらも、調査くらいはしておかねば弥惣治は納得しまいと、津雲は重い身体をひきずって屋敷の門前に立つ。楓がひとひら、秋の旋風に巻かれて、津雲の下駄の側に落ちた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
東条弥惣治について尋ねた際、返された反応は三家共にさしたる違いはなかった。
六浦の家中に
言い様に差はあれど、共通しているのは取るに足らない存在だと認識されている事実だった。
御家人の家格は三つに分類され、上から順に
曰く、なり上がりの芋侍。曰く、銭で地位を買った恥知らず。
自身より格下のものを妬む人間などいるはずがない。
「お待たせしましたね。それでは屋敷に戻りましょうか」
武家屋敷の外で待機していた護衛の武士は、特に何も問わなかった。東条が他の御家人からどのような誹りを受けているか、知らないはずはない。聞いて、聞かぬ振りをしているのだ。女の涙を、女の傷を見て見ぬ振りをしたように。
津雲はそれを責めるつもりはない。ただ、情に蓋をして従属するかれを、惨めだとは思った。
「いつの間にか暮れどきになってしまいましたね」
護衛を引き連れて、武家屋敷が建ちならぶ閑散とした道を進む。
道の端には夕焼けよりも赤い彼岸花が咲き群れていた。秋彼岸が近いのだ。普段は暮らしの慌ただしさに追われていても秋彼岸には墓地にむかい、先祖に想いを馳せる。津雲には先祖の墓もなければ、みずからが眠る墓もない。墓があったとしても、そこに故人がいるなどとはどうしても想えなかった。
墓を作ることが、とむらいではない。墓などなくとも、とむらわれた魂は数多ある。
津雲は足取りを緩めて彼岸花を眺めていたが、ため息をついて視線を逸らす。数歩離れた後ろを着き従う草履の音を聞きながら、津雲は改めて弥惣治を取り巻く縁の数々を思いかえしていた。
北登、南、西郡の三家は、東条家には無関心だ。東条家についての話題を向けられれば、下級武家に対する嘲りを滲ませるが、それが東条弥惣治に対する憎悪に転換することはない。それほどの縁を結んでいないからだ。「末流の抱席になど構っていられない」との発言に偽りはなく、まさに歯牙にも掛けていなかった。
ならば弥惣治を疎んじているものは、より近いところにいると考えるべきだ。浅からぬ縁があり、また日頃から係わりのあるもの。影のように側から離れぬもの。
津雲がふと後ろを振りかえる。
「そう言えば、まだ貴方のお名前を訊いていませんでしたね」
「非礼を御許し願いたい。
そういって頭を垂れた姿は卑屈ではあったが、屋敷を出た直後よりは多少なりと人間味を取り戻していた。思えば、旅籠を訪ねてきた際には今のような欝々たる気配は漂わせていなかった。あの屋敷に、或いは東条弥惣治に強く抑圧を受けているのか。それともなにか言い知れぬ激情を隠しているのだろうか。あらゆる感情ごと、排さねばならぬほどの、なにかを。
「弥惣治殿が倒れられる前になにか変わったことはありませんでしたか?」
「別段、変わった事はありませなんだが、奥方さまが……否、これは関係あらぬでしょう」
「どのように些細なことでも構いません。思い当たる節があるのでしたら」
口ごもったということは、逆になんらかの関連性を疑っている証拠だと、津雲は判断する。半兵衛は失言を悔いるように奥歯を噛み締めた。だがどうしても隠さなくてはならないことではないようで、間を置いて話し始めた。
「我が東条の敷地には畑が在りませぬ。故に主な生業は、盆栽と織物にて
屋敷に近づくにつれて、半兵衛の眼からは光が失われていく。委縮するように語尾が萎む。
「思い当たる事はそれのみにて候」
「そうですか、なるほど。……よく分かりましたよ」
津雲は静かに頷いた。
東条家の門前に着く。譜代、二半場の武家屋敷を巡った後だと、東条家の門構えが如何にせせこましいかが知れた。庭木を植え、石を敷き詰めようと、格差という溝を埋めるには及ばない。
改めて庭を見まわせば、縁側を下りてすぐの場所に木棚が置かれ、松や梅の盆栽がならべられていた。半兵衛の話しによれば、盆栽の剪定は弥惣治の仕事であるらしい。しかしながら弥惣治が床に伏している現在でも、盆栽の手入れが怠られている様子はなかった。逆に、津雲が目を見張るほど見事な剪定がなされている。
それを見た半兵衛の表情が凍りついた。
「どうかなさったんですか?」
津雲が尋ねると、半兵衛は慌てて顔を背け、竈の煙に視線を移す。
「いえ、……夕餉の支度ができていることかと」
それきり、半兵衛は貝のように口を閉ざした。
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