其の伍 《餬》

「何故に娘が復讐を果たさなかったのか……わたくしには、わかりません……」

「いえ、貴方はなにかをなさったはずだ。娘さんが産まれた時に、確かに父親の腕に抱かれたことを想い出させるような、なにかを」

 

 津雲の言葉に名主は涙をかんで、「名を」と呟いた。


「名を、呼びました。お福と。かのじょが産まれる前に、妻と一緒に決めた名です」


 名主は硬く目蓋を塞いだ。それでもなお、涙はこらえきれずに流れ続ける。「ああ、お福、お福」と名主はかみ締めるように、慈しむように我が娘を呼び続けた。幸福を願い、つけたはずの。されど娘は、幸福がなんたるかも知らずに奈落へと棄てられたのだ。

 子等は飢えていたが、肉身を失ってなお続く飢餓とは空腹の類ではない。空洞は腹ではなく、魂を蝕んでいたのだ。子等は親の愛情に飢え、人肌の暖かさにかつえていた。

 飢餓と怨嗟で化生になり果てた我が子を、しかして父は抱き締めようと腕を広げた。愛しいその名を呼んで。何度も呼び掛けて。

 飢えを満たすのに、他のものなど、なにひとつ必要なかった。


「何故にあのようなことをしてしまったのか、いまとなってはわかりません。長の責任、旱と飢饉を乗り越える為の苦肉の策……それらはすべて、言い訳にすぎません。我が子を殺めてでも生き延びたかった。それが、答えでございます。斯様な父を、娘は……それでも」


 最後は言葉にならなかった。


「安定した天候が当たり前と思ったのが、運の尽きだね。この農村の人口は許容範囲を超えているよ。災厄が巡ってきても、食い扶持ぶちには困らない程度の人口で押さえるべきだったのさ。子を増やしすぎた村の末路は、祖国でも何度か見たことがあるね」


 黙って、事の真相を傍観していた朧が口を挿んだ。

 男女の交わりを制限することは難しい。ともすれば、子を捨てるよりも難儀であろう。だが、斯様な悲劇を繰りかえす訳にはいかない。残酷な決断を繰りかえすくらいならば難しくともなし遂げてみせると、長が強い意志を持って頷く。

 語るべきことは尽きたようだ。

 老いた背中は沈黙し、再びに娘がいるはずの谷底に真向かった。黙祷を捧げていることが、後ろからでも窺えた。平介もまたずりずりと谷に這い寄り、みずからの村の業を直視するように、涙を拭って目を見開いている。


 津雲は静かに踵をかえす。朧も津雲の後を追い掛け、ふたりして、曲がりくねった山道を引きかえしていった。いったん旅籠に立ち寄り、まとめておいた荷を持って農村を後にする。もはや再びに立ち寄ることもない地だが、このような悲劇が繰りかえされないことをひたすらに願う。

 それだけが、せめてもの償いで、慰霊だ。


「かれは罪を受け入れ、業から目を背けぬことで己を救ったのでしょう。そうして娘をも救った。もしも復讐を遂げていたら、娘は善き輪廻転生の輪から外れ、二度とは清らかな生を得ることはできなかったはずです。あとは、延々と繰りかえされてきた業を、かれの代で終わらせることができればよいのですがね」

「繰りかえされてきた、ということはつまり」


 津雲が苦々しくも頷いた。


「確かめたわけではありませんが、あの宵、平介さんに呼びだされた祠。あれは口減らしで捨てられた子を、鎮める為のものだったのでしょう」

「あの古惚けた祠かい? ……なるほど、そういう訳か。反吐が出るね」

「ええ、子殺しは過去に幾度も繰りかえされてきたんですよ。旱魃は、一度ひとたびだけではなく、不定期にこの地域を襲っていたのでしょう。ですが、忘れた頃にやってくるそれを、誰も教訓として残しはしなかった。だから繰りかえす、幾度も幾度も。欲望のままに人を増やして。豊かな実りがあれば、確かに、なんの問題もないでしょう。ですが、天候とは約束されたものではない。ちょいと実りが減れば、すぐに養いきれなくなる。谷底に果たして幾つの屍が打ち捨てられているのか、あたしには予想すら出来ません」

「それらが寄り集まって、あの姿か」


 不揃いな指を思い浮べ、憐れむような声が零れた。

 手の指は七本と三本、足の指に至っては確か二十本と十三本、あったか。娘の身体を基にしていたことは確かだが、ひとりの身体ではない。ひとりの念ではあれほどの異形は産みだせない。これからも指は増え続けるのか、或いは業の連鎖から解き放たれ、安らかに眠りにつくのか。

 後はもう、人のみぞが知る。


「朧さん、童謡は歌えますか?」


 朧が「はあ?」と素っ頓狂な声をあげて立ちどまった。

 話しが二転三転するのはいつものことだが、さすがに童謡を所望されるとは予想外だったようだ。津雲に追い抜かれ、朧は慌てて歩きだす。


「あのだね、僕が童謡なんかを歌えるはずがないだろう。祖国の唄ならば幾つか知っているが、子をあやしたことなどないよ。歌いたいのならば、君がひとりで歌えばいいね」

「歌えるものならば、あたしが歌っていますよ。こちらの童謡は意味深なものが多いんです。花一匁は子買いの唄ですし、かごめかごめは流産の唄と言われています。この場で唄うのはちょいと、気が退けます」


 朧が黙る。短くはない沈黙の後、すうと深く息を吸った。

 流れ出したのは遠い異国の唄。

 聞いた覚えなどなくとも、和やかな曲調は不思議な郷愁を呼び覚ました。幼い子どもの笑い声、日が暮れるまで遊びまわった河原や草原、我が家から上がる細煙が津雲の脳裏に浮かんでは消えていく。幼き日の記憶のかけらを寄せ集めたような、賑やかな唄だった。

 言葉の意味は解らずとも、感じ取れるものはあるのだ。


「黄昏時侯人行少 半空月影水面遙」


 気難しい顔をして、陽気な唄を口ずさむ姿は滑稽さを通り越して微笑ましい。


「呀行呀行 呀進呀進」


 既に死んでしまった子等に思い出はやれない。人肌の暖かさに対する思慕すら持てなかった子等だが、次に生まれ変わるときにはささやかな幸せのうちにあればいい。

 懐かしさとは即ち、未来に託す憧憬でもあった。

 鎮魂にはならずとも子守唄程度にはなるよう、願いを込めた唄声が山間に響いていく。

 見当もつかないほど遠くから、鹿の子が鳴く賑やかな声が聞こえてきた。不規則に重なりあうそれは、合唱のように聞こえなくもない。甲走ったそれは、子どもが笑い、騒ぐ響きにも聞こえなくもない。

 鹿の声が絶えるまで、唄は幾度でも繰りかえされた。

 終わりかたを忘れてしまったように、延々と。

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