其の肆 《饉》

 生魑の襲撃の翌朝、津雲と朧の泊まる旅籠に直接名主が訪れ、農村の外れにある谷まで来て欲しいと頼んできた。そこで事の真相を話したいのだと。津雲も朧もここまで係わってしまったのであれば、最後まで話を聞こうではないかと案内されるままに谷にむかった。

 谷につくなり、名主は涙に嗄れた喉を震わして、ぽつりぽつりと真相を語り始めた。それは真に、貧しさ故の《業》としか言えぬ、惨き現実であった。


 ひでりが我々の、人として最低限の情けすら涸れさせたのです、と名主は始めに語った。

 年々旱魃かんばつや豪雪に悩まされる地は多けれど、農村周辺は比較的天候が安定しており、空模様を窺うことは滅多にない。他の地域に比べれば雨量が多かったが、大抵は田畑を潤す恵みの雨であり、感謝すら忘れるほどの優しさを持ってそれらは大地に染み込んだ。

 されど今期は例年とは異なり、梅雨に差し掛かってなお、青空が掻き曇ることはなかった。時々通り雨が降れども、森をくまなく潤すほどの長雨は降らず、来る日も来る日も五月晴さつきばれであった。雨期があったことすら分からぬうちに夏は訪れた。太陽は日を追うごとに強まっていく。熱が、残り少ない潤いを奪い去るまで、さほど時は掛からなかった。

 旱魃に強い芋類を残して、畑の作物は枯れ果てた。

 ひび割れた田畑に引く農水どころか、喉を潤す井戸すら底をつき、民は当惑した。身体が弱いものから徐々に衰弱し、乾いた屍が村のあちらこちらに積みあげられた。

 最後に残った池が干上がるのはいつだろうか。みな、気が気ではなかった。


 決断せねばならない。

 一夜でも決断が遅れれば、誰かがまた命を落とす。

 

 窮した名主なぬしが取った手段は最善のものではあったが、至極残酷なものだった。


「口減らし。それが、旱魃を乗り切る最後の手段にてございました。されども稚児などは奉公に出す宛てもなく、七つ以下の童子は全て、産土神うぶすながみさまに奉公に出せ――と命じたのです。反発するものも当然ながらおりましたが、他でもないわたくしが産まれたばかりの娘を手放すと申せば、誰も何も言えなくなりました。娘はこの歳でやっとでけた子であり、また……妻の忘れ形見にてございましたゆえ」


 やつれた老父が、谷底を覗き込む。

 草すら根を張らない岩肌の絶壁。風が啼き荒ぶ谷は底が見えぬほどに深い。真昼でも日が差さず、まるで奈落だ。耳を欹てても渓流の音はしない。落ちたら即死、運良く生き延びても這いあがれる見込みはない。


「そうして、ここに子等を投げ込んだのですね」


 滅多なことで感情を滲ませることがない津雲でさえ、眉根を寄せていた。朧などは憤りを隠しもせずに谷底を睨みつけている。名主は頷くことしかできなかった。


 津雲らが連れてこられたこの場所は、子捨ての谷。

 子殺しの奈落だった。


「村から子等の笑い声が失せてすぐ、幾月振りかの雨が降り、乾いた大地は瞬く間に甦りました。みな、産土神さまがお喜びになられたのだと言いましたが、わたくしにはそうは思えませなんだ。子等を殺す必要などなかったのではないかと思うと、真にやりきれず……。わたくしの飢えが始まったのは、その頃からにてございます」


 名主は分厚い掌で乱暴に顔面を覆った。こらえきれぬとばかりに嗚咽し、かれは懺悔を続ける。


「死した子等が、わたくしを怨んでいるのだとすぐに分かり申した」


 津雲は首を真横に振るった。


「いいえ、死霊には斯様かように強い力はありませんよ。ましてや、あれほどまでに確かな実体を持って、直接手を下そうとすることは有り得ません。あのような現象を引き起こせるのは生魑いきすだま……即ち、生者の情念のみでしょう」

生魑いきすだま、ですか?」


 津雲が生魑について詳しく解説すると、名主の顔が複雑に歪む。


「そんな……それでは、谷に投げ捨てられてなお、娘は生きていたというのですか」

「ええ、霊が絡むとすれば、貴方の娘さんにそのような強運を授けたのが、もしや他の無念の霊だったのかも知れません。助けようとしたのか、生魑に相乗することで力を増幅し復讐を望んだのか。あたしには存じかねますがね」

「まさか……そのようなはずが」


 あまりにも惨い現実を受けいれられず、かれは頭を抱えてよろめいた。


 この谷が刑場けいじょうとなった理由はひとつ。

 ほぼ確実に即死が望めるからであろう。

 手前勝手ではあるが、子等の親からすれば最後の情けであったのかもしれない。されど即死できていなかったとしたら、その苦痛や絶望は想像を絶した。どれほどの激痛を、与えてしまったのか。おなじくらいの齢の子等の無残な亡骸に埋もれて、飢えてかつえて、みずからも死に絶えていく恐怖。狼もいるだろう。熊も。幼さゆえに理解は及ばないだろうが、こわいという感情くらいはある。痛い、寒いという感覚もまた。


 いまにも崖から飛びおりそうな背中を見かねてか、側についていた平介が袖を握って引き寄せた。「兄者」と首を横に振るう。谷に到着してからというもの、平介はずっと沈黙してうつむいていた。谷などは視界の端にも入れたくはない。可能ならば、耳だって塞ぎたいのだと。縮こまった背はあからさまにそう、語っていた。かれは未だに真実から逃げ続けているようだ。逃げ続けられるものならば、逃げればいい。どれだけ不愉快でも、津雲にそれを責める権利はない。


「だが、谷の底には食料はおろか、飲み水すらあるかどうか」

「つかぬことを聞くようですが。名主殿の娘さんは《鬼子おにご》でしたか?」


 落ち窪んだ両眼が見開かれ、津雲は己の推測が正しかったことを理解する。あの赤ん坊の歪な成長を目の当たりにし、もしやと思っていたのだ。


 鬼子とは産まれた時から既に歯が生えている稚児を指し、場合によっては髪も伸びているという。昔より鬼子は不幸を呼ぶとされ、産まれて間もなく殺される運命にあった。だがどうしても我が子を殺せない場合はその事実を隠して、育てるのだ。


「あなたが決断を焦ったのには、実の娘が鬼子であることを隠していたという気の咎めもあったのですね。どちらにしても鬼子ならば、谷に落とされても死なない可能性は高いでしょう。不幸を呼ぶとの言い伝えは迷信だとしても、特異なものは霊的な存在の影響を受けやすい。それに他の稚児より成長が進んでいるぶん、最悪の場合は母乳なしでも生きられます」

「どういうことですか?」


 津雲は暫し考え、急に話題を変えた。


蠱毒こどく、というものを御存知ですか?」


 名主は戸惑いながらも否定する。


「遥か昔にもちいられた呪術の一種ですよ。椀のなかに大量の毒蟲どくむしを閉じ込めて蓋をし、数夜が経った後に蓋を開けます。すると蟲は互いに喰いあっており、一匹だけ最後に生き残っているものがいる。この毒蟲をもちいて相手を呪えば、確実に相手を呪殺できるそうです。しかしながら、これは人間をもちいて行われた事例もあるそうです。この意味が、わかりますか?」


 細められた眸が、怜悧れいりな光をともす。

 決して責めているわけではない。ただ真相のみを光のもとに曝す。


「乳は母親の肉であり、血であると言います。それを与えられることがなかった貴方の娘さんは、谷の底でそのかわりになるものを見つけたんですよ」


 かわりになったものが、なんだったのか。聡い兄弟は教えられる前から想像がついたようだ。あまりにも凄惨な真実に、ずっと黙り続けていた平介が叫んだ。

「もう充分だッ! も、やめ」てくれと続くはずだった言葉を片手で制して、名主が津雲に続きを促す。


「真によろしいのですか」

「はい。どうか、どうか最後まで教えてください。わたくしが、否、村の者ならばみな、知らねばならないことです。犠牲にしてしまった子等の最後も知らずして、のうのうと暮らしていくわけにはいかんのです」

 

 堰が切れたように膝から崩れ、泣き喚く平介のかたわら、父親にして兄であり、この農村の長でもある名主は震えながらも崖のきわに立ち続ける。悲しみを握り締めすぎた拳から血が流れ、指先が赤く染まっていく。


「娘は、どうやって、この秋まで生き延びたのですか」

「貴方の娘さんは、他の子等の死肉を噛み、血を啜って、食い繋いだ。かれらの怨念を喰らっていたといっていい。ですが、それでもなお、復讐を果たすことはできなかった。しなかった。あたしには何故だかわかりませんがね。貴方には、お分かりになるのではないでしょうか」


 物も語れぬ娘さんの、情念が。

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